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明治ゆるふわストヲリイ◆鹿鳴館はろくでもねえ館って本当?編

「鹿鳴館(ろくめいかん)」…それは明治時代と聞けば思い浮かべる人も多いであろう建物。
名前だけの有名っぷりが独り歩きし、現代では鹿鳴館と名のつくお店が乱立しており、グーグル先生に鹿鳴館の事を聞こうものなら喫茶店を案内されます。

今や存在しない幻の鹿鳴館…。
かつて明治時代では華やかなパーリィが開催され、名立たる人々がエンジョイされていたであろう鹿鳴館…。
今回はその鹿鳴館のお話をしていきます。

●ここに鹿鳴館を建てよう

1883年(明治16年)、現在の東京千代田区内幸町に豪華な煉瓦造りの洋風建築が誕生します。総工費は当時の18万円(明治7年に建てられた内務省庁舎でも、石造で約4万5千円かかるところ木造にして約2万2千円に抑えたとの事なのでこの18万円がいかに破格か分かります)。

イギリス人のコンドルさんが設計した煉瓦造りで、バーやビリヤードもついたハイカラ二階建て
内外人のための社交クラブとして作られたこれこそが、鹿鳴館です。
そもそもこの建物が国のお金を使って作られたのには、理由がありました。

明治時代に入って新体制が始まりましたが、政府には目下の課題が盛りだくさん。
その沢山の課題の一つが、日本という国が欧米諸国に

と言われて、幕末で江戸幕府が諸外国と結びやがった不平等条約の改正を目指す事なのでした。

これを任されたのは、長州五傑とかいう強そうな異名を持つ外務大臣・井上馨(いのうえかおる)
彼はまず、不平等条約の一部の改正を目指し諸外国との交渉を成功させるために考えます。

という訳で井上さん、この欧化政策に乗り出して欧米諸国の関心をひこうと画策します。
その流れで作られたのが今回の主人公「鹿鳴館」なのです。

●集まれレディース&ジェントルメン

先述の通り、鹿鳴館は政府高官や内外人の社交場として、また、政治的な会合の会場として作られました。
外国人を華族と政府高官一族で接待するという字面だけで華やかそうなこの舞台。連日のように西洋式の大舞踏会を開いたり、バザーを行ったのです。

舞踏室の中にも至る所に、菊の花が美しく咲き乱れてゐた。さうして又至る所に、相手を待ってゐる婦人たちのレエスや花や象牙の扇が、爽かな香水の匂の中に、音のない波の如く動いてゐた。「芥川龍之介・舞踏会より」

この芥川さんの書いた文章のように、鹿鳴館と聞けばこんなきらびやかな世界を想像するでしょう。鹿鳴館の利用目的だけ聞いていれば気分はもう舞踏会に憧れるシンデレラです。

実際、貴族は外国人のダンスの先生をつけてダンスの練習に励みましたし、ダンスだけでなく音楽会やカルタ、賭博も行われて諸外国を「お・も・て・な・し」していたのです。

●慣れないことするもんじゃない

きらびやかで華やかでハイカラでグローバルな鹿鳴館計画。これで、日本人も欧米諸国と肩を並べてダンスしながら条約改正できるよね……

着慣れないドレスやモーニングスーツ。マナーの分からない西洋料理や文化。甘い言葉を吐いてちょっかいをかけてくる金髪ジェントルメンのあしらい方……。
これらに対応できるスキルが当時の日本人にある訳がなかったのです。いや、今でも多分そんなスキル持ってる人は少ないでしょうが。

西洋文化件のマナーが分からない彼らは所詮急ごしらえのにわか作りなレディース&ジェントルメン…。
そもそもモーニングスーツを着てこなかったり、廊下でガハハと笑ったり、夕飯はここで済ませてやれと言わんばかりにガツガツ食べたり、フィンガーボールの水をぐいっと飲み干したり…といった行動を露呈してしまいます。
外国人からは「日本人の猿真似だな」と、失笑されていたのでした。

風刺おじさんのビゴーも鹿鳴館を題材にいくつか風刺を描いたよ!

あげくの果てには、女好きで有名な伊藤博文(いとうひろぶみ)が、とある伯爵夫人にちょっかいをかけて関係を持とうとして迫り、馬車で乱暴しただの夫人は裸足でトンズラしただのというスキャンダラスなニュースが広まる始末。
どこまでが本当か分かりませんが、女好きの伊藤さんならやるだろうな…と思えるスキャンダルすぎて擁護できないのが何ともいえませんねこれ。

●ろくでもねえ館!

このように、ろくな話が聞こえてこないありさまの鹿鳴館。
それに加えて不景気に陥ってた下層・農民階級の不満は膨れ上がらない訳がありませんでした。

そんな怒れる民衆たち、鹿鳴館をはじめとした欧化政策に反対運動を行うようになります。

この欧化政策に反対していたのは民衆たちだけではありません。
時の農商務大臣だった谷干城(たにたてき)が、井上さんに反対して辞任するなど内部分裂の危機を招いてしまったり、明治の立役者の勝海舟(かつかいしゅう)がこの有様を見て国を憂いちゃったりしてしまう程でした。

よかれと思って行った政策が上手くいかず、結局井上さんは1887年(明治20年)7月に「条約改正の交渉は延期しまーす!」と発表して同年9月には外務大臣を辞任する事になってしまいました。
こうして、「悲鳴館」なんて汚名をつけられたまま鹿鳴館外交は4年という短い活動期間を終えて幕を閉じました。

●鹿鳴館アフターストーリー

さあ、そんなあんまりな感じの鹿鳴館はその後どうなったでしょうか。1890年(明治23年)の新聞にこのような記事が載っています。

第十五国立銀行にては内山下町なる鹿鳴館を払下げ、華族会館へ貸与する由なるが、同館は華族中にて永世保存し置き後進者の為めに謀る所ある趣にて、華族諸氏には同銀行の利益配当より幾分づ々を醵出(きょしゅつ)し、或は臨時維持費を募りて同館の共有保存費に充てんとして、土方、杉その他の華族諸氏には目下奔走尽力中なりと云ふ。「東日新聞」

この記事から分かるように、鹿鳴館は華族会館へと払い下げることになりました。
有名な建築家が手掛け、莫大なお金が注ぎこまれた建物なので建物の価値はあるとされて華族達の記念館として、使われたようです。

その後1927年(昭和2年)には日本徴兵に売却され、更に1940年(昭和15年)には取り壊されてしまいます
明治文化建築の象徴であった鹿鳴館も日本からその姿を消す事になるのでした。

●そうは言っても壊しちゃうなんて勿体ないよね鹿鳴館

いかがでしたでしょうか、鹿鳴館。
華やかパーリィナイを想像していた人からしてみれば、なんだかあんまり…な終わり方ではありますが、当時の明治政府の試行錯誤を伺える事案だったように思われます。なんか錯誤の方が強くなっちゃったのもご愛敬ってことで。

しかし、鹿鳴館は建築物としてはとても価値のあるものではあったので取り壊されてしまうのは非常に残念ではあります。実際当時の人々で、建築価値のある鹿鳴館の取り壊しへの反対運動を行った人もいました(結局取り壊されてしまいましたが)。

鹿鳴館の建物は無くなってしまいましたが、家具や壁紙などは博物館等に保存され、鹿鳴館でググれば当時の写真がホイッとでてくるので、現代に生きる私達はそうして当時の鹿鳴館を偲んでもいいかもしれませんね。


◆参考文献◆「幕末明治風俗逸話事典(紀田順一郎・著)/東京堂出版」「図説幕末明治流行事典(湯本豪一・著)/柏書房株式会社」「詳説・日本史研究(佐藤信 他・著)/山川出版社」「鹿島の軌跡/鹿島建設株式会社HP


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