ひと夏の海

(下書きから救済した小説です。)

千秋と孝春の出会いは、ひと夏のあのパソコン教室だった。

千秋は幼子の真夏を連れて、これからどうやってシングルマザーとして育てていくか、そればかりを考えていた。

色々考えた挙句、パソコンを使いこなせる女性になり、資格を取ってパソコン一台があればどこでも逞しく生きていける女性になろうと、そう決めたのだ。

その人を一目見た瞬間、千秋は「あ、この人と将来結婚するかもしれない。」という感覚に落ちた。

それは一目惚れとはどこか違い、直感的に感じる気持ちだった。

孝春はヒョロリと細くて色白、パソコン操作での流暢な説明と自信のあるオーラとはどこか相反するように、青年のまま大人になったような初々しさが漂った人だった。

実年齢より若く見える千秋から見ても、会話の流れから自分よりも年下の男性だと気づいた。

色々な人とデートを重ねた時間を、たった一日のパソコン教室での出会いが千秋のこれまでの日々を塗り替えた。

千秋は孝春と、パソコン教室の外で会うようになった。思いがけず、孝春の方からデートの誘いがあったのだ。
母のとみかが千秋の恋を応援してくれたので、真夏を預けてたまに孝春とのデートへ出かけた。この時だけは自分が母という枠組みを捨てようと決めたのだ。

孝春との最初のデートは海辺だった。
砂浜では時間を忘れるくらいお互いのことを話した。
孝春は着ている服の存在を忘れてしまっているのではないかと言うほど、楽しそうに千秋を海に手招いてから、服の裾を濡らしても気にしないそぶりではしゃいでいた。

山ばかりの湖しかない町に生まれた孝春にとって、好きなミュージシャンを生み育んだ江ノ島の海は彼の憧れそのものだったのだ。
夕陽がオレンジ色に海を染め上げ、沈んでいくまでふたりはずっと浜辺で寄り添い合っていた。

千秋は久しぶりに愛しいという感情がわいた自分に驚いた。母になってから久しぶりに我が子以外に、人を愛するという愛情を感じた瞬間でもあった。

二人で鎌倉もデートした。雨の降る長谷寺で紫陽花も見に行ったし、お参りも食べ歩きもした。
孝春といると、千秋は少女に戻ったようにずっと笑っていられた。

雲の切れ間からさしたひかりを見つけて、水色の天使が本当にいて微笑んでくれるなら、千秋の願いをひとつ叶えてくれるのだろうか。

けれど、孝春はまだ若くて結婚したことがない。
シングルマザーのわたしと、この先本当に一緒にいてくれるだろうか。
千秋の心に切なさと不安の波が押し寄せた。

千秋にとってまるで時が止まってしまったかのような永遠の恋に感じたとしても、孝春にとってはたったひと夏の恋の相手だったのかもしれない。

想いを口にしたらもうこの関係は後戻りできないから、きっと良い友達のままでいる方が良いのだとも思った。
はじめに出会った日の、パソコン教室の先生と生徒にまた戻れるのだろうか。

孝春から夢のような時間をたくさんもらった。
それだけで、幸せなのだ。
こうして、母親という現実を一瞬でも忘れさせてくれる相手に出会えたのだから。

一人暗い夜の海を眺めながら、千秋の頬を涙がつたった。
もう恋をして、他の誰かを愛して傷つきたくはない。
もしも傷ついて痛い想いをするくらいなら、煩わしい感情は今すべて海に投げ捨ててしまうことだ。

流れ星が流れていったが何も願うことが出来ないまま、通り過ぎてしまった。

千秋は感情をすべて投げ捨てることはできなかった。今はただ自然体にふたりの物語の続きを受け入れていくしかできないと。

千秋は物想いにふけったまま、夜風が吹き込むバルコニーの窓を閉めようとした。

今日は7月7日の七夕だ。
今年20歳になった真夏。
短冊に願い事を書いて、笹の葉にくくりつけている姿が見える。
真夏の隣には、ヒョロリと細くて白くて、穏やかな、あの頃の笑顔のままで笑う孝春の姿が一瞬見えた気がした。

千秋は閉めようとした窓の隙間から夜空を見上げた。
孝春が残した、少しくたびれたバルコニーとこの家。
そして、まだたくさんの残ったものに囲まれていても、千秋はまた新たな一歩を踏み出す決心をしていた。

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