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春の道を歩いた。

今年春を一番に感じる瞬間があった。
それは仕事に向かう朝に吹いた一瞬の風だった。

その刹那、ふんわりと風に舞う花の香りを届けられた。
見渡すと花壇に綺麗な赤と黄色とピンク色のチューリップやパンジーが並んでいる。
あたたかな光を体いっぱいに感じた気がした。

この一瞬を久々に言葉にして表現してみたくなった。
けれど、ずっとモタモタして何も書けないまま、あっという間に3月になってしまいました。

去年、わたしはなぜか言葉が出てこなくなり、文章が書けなくなった。
まるで現実という名の見えない魔物にじわじわと脅かされているような気持ちになっていた。世界の混乱に合わせて、自分も同時に混乱してしまったような。何があったのかと聞かれたら日々色んな出来事があり、事件と呼べるものは何もなかった。ただの日常だけそこにあった。

でも、たまにポツポツとつくnoteのいいねや、来ない間のフォローにも言葉にならない励ましをもらっていました。
もちろん、あたたかなコメントやエールを送り続けてくれた大好きなnoterさんの変わらない愛情と優しさに救われていました。
本当にありがとうございます。

今とあるカフェで働いていて、一番好きな仕事はテイクアウトのお弁当をつめる時間だったりする。地味だけど、集中している時間は楽しい。
揚げたてのコロッケや色とりどりピクルス、日替わりのお惣菜や新鮮な野菜。
そして、ほかほかのご飯をよそったり、たまにおにぎりをにぎる。
お惣菜をプレートにのせた時のいろどりかたが綺麗と褒めてもらえたこともなんだか嬉しかったのだ。

忙しい時間を過ぎた後のちょっとした談笑や、お客さんのお話、スタッフの誰かが持ち寄ったお菓子を仕事の合間に一口つまんで食べる。
そんな時間も楽しみである。

バーのお仕事も続いている。
シェイカーをふらせてもらえるようになったので、数は少ないけれどたまにカクテルも作らせてもらったり、顔を覚えてくれた優しいお客さんが勉強しなよとオーダーしてくれたりする。
家で映画を見る日に覚えたお酒を作ったりもする。

1月29日は思い立ち、習い事の後にてくてく一人電車とバスを乗り継ぎ『祈り・藤原新也展』へと向かった。
ずっとわけもわからず心の内側に閉じこもっていた日々が続いていたので、自発的に写真やアートを観に行きたいと衝動に駆られたことが自分の中での驚きだった。背中を押してくれたのは、noteやTwitterで親しくさせて頂いている六月@水菜月さんの藤原新也展のエッセイ、『メメント』を読んだからだ。
たおやかでしなやかな水菜月さん(六月さん)らしさと光のような言葉で紡がれていた。

以前、周庭さんのお写真をTwitterで拝見し、藤原さんの撮る写真に映る女性たちの目が、何かを訴えかけてきているような、だから実際に観に行きたいと思いつつも、現実の忙しさにかまけて、抱えていること以上に自分のためだけに何もする気が起きなかった。
予定が何もない日はただただ眠っていることも多くて、日々があっという間に流されてしまっていた。

その中で、いよいよ展示会の最終日となり、六月@水菜月さんの『メメント』のエッセイに込められた中にある奥の思い、なんだか言葉にしきれない想いがあるような気がして、わたしの足が写真展へと向かった。
写真展をまわっている間の純粋な感情は、藤原新也さんは生と死に対してただまっすぐに捉えてる人であって、展示会だからといって華美にしない部分もあれば、藤原さんの感じたままの内の想いや思想、切り取った世界を様々な方法でダイレクトに表現されている方で、その不思議に鮮やかな色彩と、誰しもに共通したイメージとそれらを打ち壊すかのような強さや力が共存しているような、そんなふうに受け取った。

写真展『祈り』で実際に見たかった周庭さんの力強い眼光や、香港での写真も見ることができた。

わたしはある写真の前で目が離せなくなってしまった。

それがこちらの2枚の写真だった。理由はよく自分でもわからないけれど、気づいたら写真の世界に釘付けになってしまっていた。
何か強烈な言葉にならないメッセージをその時に感じた。今の自分には持ち合わせていないものを写真が教えてくれているような気がした。


中央の写真の女性ふたりが笑顔にも泣いているようにも見える。その後ろで陽気に音楽を奏でている人やただ佇んだり座ったりしている人達。この場面はどういった場面なのだろう。

展示会をまわっている間はただゆっくりと時間が過ぎてゆき、最終日だったこともありご本人がいらっしゃって混んでいたにも関わらずに、周りの雑音がかき消されているかのように、写真やそこに添えられた文章の世界に浸ることができた。

もう一枚のお気に入りの写真。

藤原さんは写真だけは表現しきれないものを言葉で、言葉では表現しきれないものを写真で、あますことなくこの展示会に来た人々に伝えてくれようとしているように思った。
そこには藤原さんの様々な世界を見てきた責任感のような、ただならぬ使命のようなものがあるのかもしれない。

展示会の外に飛び出して、一月終わりの冷たい空気を感じた。
『生と死』は人や生き物の数だけあり、重みがあり、また喜びや悲しみだけでない怒りや様々な感情が渦巻いている。
 でも、なぜ改めて『祈り』というテーマを展示会で扱うのだろうかと感じたが、藤原さんを代表して世界の人々の生活や、日常という日々の旅の中で、行きどころのない感情や想いがこの展示会に『祈り』として何か多くの願いや希望が込められていたのではないだろうか。

わたしの中でもnoteで綴ってきた日常が身近な誰かの生の中で生かされていることであり、わたしの生の中での誰かの死は、とまってしまった時間の続きを生き続けてることでもある。

お弁当を詰めている時間も、誰かとのたわいない言葉のやり取りだけで終わる1日も、素敵な音楽を聞いたり花の香りを感じた一瞬も、小さな頃にもどったような感覚もすべて、流れる川のように繋がっていて、誰かの思いや祈りによっても繋がれているように感じている。

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