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昨今の心中事件に思う

 大阪の吹田市で、また悲しい事件が起きてしまいました。39歳の母親が3歳と7歳の子どもをマンションのベランダから突き落として無理心中を図り、母親と3歳の男の子が亡くなった事件です。
 こうした事件には報道されないものも多く、報道されるケースは氷山の一角だったりします。昨年11月に開催された「子どもの虐待死を悼み命を讃える市民集会」の発表では、前年度親によって命を絶たれた子は35ケース44人、うち、心中関連は13ケース19人と、約4割を占めていました。
 
 そう、心中による死も“虐待死”なのです
 
 いわゆる“児童虐待”とは異なり、親の方にも何らかの事情があってやむなく、といったケースが多いことから、心中死を“虐待死”のカテゴリーに入れることに、違和感を覚える人も多いかと思います。しかし、子どもにとっては「親に殺される」恐怖を味わうことにかわりない訳で、突然、信じていた親に突然命を絶たれるなんて、こんなに悲しい人生の終わり方はないと思います。  
 
 私が「あの日、母と一緒に死んでいたかもしれない」と知った時の衝撃も、非常に大きなものでした。前の日まで普通に保育園に通っていて、母に誘われて遠くに出かけて、まさかその先に“死”が控えていたなんて、まったく考えてもみなかったからです。
 そして、思ったのは「生きていて本当に良かった」ということ。ただただ、それに尽きました。
 
 死にたいほど辛いという人もいるでしょう。「死なないでほしい」と思っても、それを口にすることで、その人を余計に苦しめてしまうこともある。そう思うと、そこまで苦しい思いをしているに対して、どうしてあげるのが一番良いのか。今も、私の中で明確な答えにはたどり着いていません。
 
 でも、一つだけ。私がいつも思うのは、今ある自分の命は、長い命の鎖を経てここにあるんだよな、ということ。きっと、私という人間がこの世に産まれるまでにも、たくさんの苦労や苦難を抱えた人の人生が過去に絶対あったに違いないわけで、その人が命を絶たずにいてくれたから、今、私がここにいられるんだよなあ、ということです。
 
 そう思うと「私の命だから私のもの」という風には私は思えない。なので、私はどんなことがあっても自分の命を絶つことだけはしないつもりでいます。
 
 追い詰められた人にはそんな風に考える余裕はないかもしれません。子どもを残して死ぬのは不憫、と考え、一緒に命を絶とうとするのも、一つの親の愛情の形なのかもしれません。でも、親と子どもは別個の人間です。子どもには子どもの人生がある。だから子どもの命を絶つことだけはやめてほしい。矛盾するように聞こえるかもしれませんが、「子どもの命は子どものもの」で、親のものではないからです。
 
 私は、親子心中のニュースを見るたびに「私もあの日に死んでいたかもしれないだよな」と思い、「お願いだから、子どもを道連れにしないで」と叫びたくなります。
 もし、親が一人で命を絶ったとしたら…。それも、子どもの人生にとってものすごく重い枷になるとは思いますが、それでも、生きていればその先の人生がある。たとえ、自分自身は納得のいかない人生だったとしても、命が続いていけば、いつか私の遠い遠い子孫は幸せを噛みしめているかもしれない。そう思うと、「命がつながる」こと自体、すごいことだよな、と思うのです。
 
 生きているからこそ、こうしたことを考えることもできた。生きられたからこそ、色んな体験を積み重ねることができた。あそこで人生が終わっていたら、すべてがなかった。
 
 そう思った時の衝撃が、この絵本作成の原動力になっています。
 子どもの命は子どものもの。どうか、まずは子ども側の目線に立った気持ちに気づいてほしい。そして、心中によって子どもの命を奪う行為も“児童虐待”であり、子どもの権利の侵害になるということも、もっと広まっていってくれるといいな、と思っています。
 

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