おかわり日記

後で何のことかわからなくなると困るので、早くも言葉の切りのなさに囚われてきたことにうんざりしつつ、続きを書こう。

なぜこのノートをやって、失敗だったと思うかについて。
それは、良い反応(真っ当で、量的にも嬉しいような)を貰えていないから…と言うことよりも、もっと基本的な、根本的な事だ。

振り返ると明瞭だと書いたのは、自分の過去記事を読んでいて、まず、その時にあった嫌な事柄に引きずられ過ぎだったから、こう書いたということが(自分には)わかること。その時の前後の記憶が蘇ること。これは、失敗だと言える。
私は、何より、読んで(自分が)嫌な気持ちになるようなものを書こうと思ったわけではなかった。当たり前だけど。

人の書いたものではなく、自分の文で、エモい記事というのを、書きたくないしいいと思わない。
比較的楽に書けるせいで結局書いていると思うけど、それって全然いいと思わないのに、やってしまったというのは、どこかしら気分悪い。どこかしらなんかしらモヤモヤという破壊力はいつもその「感じ」より大きい。モヤモヤは邪魔なだけ。片付ければいいのにそうしていない。よくあるズボラっていうやつである。

そもそも始める時に、どういうノートにしていくかはシンプルで明瞭だった。今もそうだが、それが崩れてしまってごちゃついていることがずっと気がかりである。それでもどうにかできる、気を散らしたものすべてによろしくどうぞ、なんて時間や余裕が自分にない。それなのにわけもなくそうしようとしていたら、そりゃ失敗する。失敗するべくして失敗している。
負担になるものを抱え込んではいけない。もっと終わりが見えなくなるだけだ。

いいだろうか。他者からの反応は、二の次である。ビジネスだとそれこそが大事なんだけど、でもまずは、自分の目的をやりきったかどうか?である。そのうえで反応があったりなかったりしてやっと、ああだこうだと分析できる。批評できる。しかしその時点での批評が出来ないということは失敗なのである。

個人的なことで、失敗だったなーと思うこともいくつもある。(それで軽い腰痛になった、忘れない。)人は同じ失敗を繰り返す。繰り返すけど、少しずつその失敗も変わっていく。はぁ、どこかでみたパターンだしこれも同じかもしれないなと思う。ならばもう、期待してみても仕方がない。失望するかもな、と心の準備はする。
(ノートに書こうかなと始めたとき)最初に、希望として持っていたこと。いくつか、私は、捨てた。もうしようがない。私がのぞむようなものに、其処では会えない。それはただの願望だ。依存に傾く願いだ。自分ではどうにも、できない。

結局のところ、あなた任せの期待というのは、捨ててしまえる。そんなこんなの?素敵な夢、だのを解決するのは後にできるし、ほかにもっといくらでも方法もある。(そうだ、だからもっと気長に信じるだけにした。いつかは、誰かこのカタコトめいた文章であっても必要な人、見知らぬ人に届くだろう、とか。)
これまで他人に期待して何度、あ、甘い夢見てたなーと思い知らされたことだろうか。それは、こっちが都合いい夢見過ぎだっただけである。
他人は都合のいい夢ではない。他者は他者のことで忙しい。私は私のことに集中すべきで、それだけなのだ。
それを、壊されてるから、自分でもそうしてしまっているから、悲しいということもまたある。

だけど自分にもいい加減呆れているし、いまさらそんな、深刻に悲しむようなことだろうか。どうだって、いいんじゃないだろうか。どうだっていいことをポーッと見続けてしまう。それがネットの弊害である。いい情報もある。だけど、いい情報もあふれかえっているとゴミと同じだ。多すぎる。多忙過ぎる。もういいな。そう感じた(月の海を眺めている方が、ましだ。)

旅に出たけど、なにかから離れたからこそ得られるものがある。確信できることがある。期待以上の結果を見て、驚く事もある。
その喜びがあっても、なぜ、悲しい気分になるのか。その理由が分からないことと、悲しくなりたくないときに悲しいことで、自分がこうしようと決めておいた流れにうまく乗れないことが、より、悲しい。

これは私が悲しいのか、誰かが悲しいのが飛んできたのか。そういうこともある、他人が寄越してくる感情、あったと思う。誰なのか特定出来ないがその悲しい気持ちが、しらずしらず染みついているのか。人の気持ちは伝染するから。それともやっぱり自分が悲しいんだけど、それに溺れたくはないのか。なんだか、はっきりしない。わからない。


でも昨日は汗だらけになっていろいろしていたら浮上した。浮上したが全然まだまだだとわかっていて、そういう感じだった。

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