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あるイブの物語

 バーのカウンター越し、大きなウインドーの向こうに、まるで夜空の星を敷き詰めたように東京の夜景が広がっている。
 クリスマスイブの夜、街の明かりはどことなく華やいで見える。
高層ビルの37階にあるバーのカウンターで、私はマンハッタンのグラスを前にぽつんと一人きり。後ろのテーブルにはそれぞれにキャンドルが灯り、その明かりをはさんだ恋人達がそれぞれに囁きあっている。
 それでも街の賑やかさにくらべれば、ここはまるで別世界のように静かで落ちついていた。バーテンダーがシェイカーを振る音と小声で交わされる会話、それにピアノの音だけ。演奏はジャージーなアレンジのクリスマスソングが多いけれど。
 腕時計に目をやると7時28分。三杯目までは後12分待たなきゃ、それが私のいつものペース。でも今日は気分が落ちつかない。
いつもより少しペースが早いみたい。それに、何時までここで待っていようか・・・
 ピアノのメロディーがマイ・ファニー・バレンタインにかわった。

 これは約束だったかしら?

 二年前のイブの晩、私と彼は背後のカップル達と同じように、キャンドルを挟んで向かい合っていた。彼と付き合い始めてから三度目のクリスマス。彼はドライマティーニ、私はミモザのグラス。
 いつもより堅い言葉の後で、彼は不意に話を切りだした。

「ニューヨークに転勤が決まったんだ」
「・・・・いつ発つの?」
「それが、少し忙しいんだ。2月には発たなきゃならない。」
「ずいぶん急なのね。」
 もしかしたら、彼も今まで切り出せなかったのかも知れない。
「・・・・・・・・」
「どのくらい行ってるの?」
「二年は帰れない」


 それが、商社マンである彼にとってどんな意味を持っているか、よくわかっているつもりだった。過不足無く仕事をこなして本社に戻ってくれば、昇進は間違いの無いところ。でも・・・・。
 私自身、広告代理店の営業としてやっと仕事を任せられるようになってきたばかり。今の仕事を放り出して彼とニューヨークに行くという事は考えられなかった。それを知っている彼はついて来いとは言わなかった。

「そんなに永いあいだじゃない。しばらく待ってくれれば、ひとまわり大きくなっているよ、お互いに」
「そうね」

 二十六歳の、キャリアを追いかけている女の精一杯の強がり。多分彼はそれを見抜いていただろう。そういう付き合いをしてきたのだから。だからといってそれ以上彼に何が言えただろう。その時の彼には選択の余地なんて無かった。私と同じように。

「戻ってきたらまたこうやって飲もう。またここでさ」

 約束と呼ぶにはあまりに頼りない言葉を残して、彼はマンハッタンへと旅立って行った。

「お客様。何かおつくりしましょうか?」

 不意にバーテンダーに声を掛けられて、目の前のグラスが空になっていることに気がついた。

「それじゃ、ドライマティーニを」
「かしこまりました」
「あのう、すみません」
「はい?」
「シェイクで作っていただけます?」
「はい、かしこまりました」
 あまり表情を変えないバーテンダーが、にっこりと微笑んでミキシンググラスをシェイカーに持ちかえた。ピアノはホワイトクリスマスのメロディー。時計を見ると7時47分。
 バーテンダーは軽い手さばきでシェイカーを振り、私の前にグラスを置いて中身をそっと注いだ。グラスに口を付けると氷片の浮いた液体の冷たさを感じ、次いで喉を降りていくアルコールの熱さを感じた。2年前はこんな強いお酒は飲めなかったのに。あの頃はミモザとかシンガポールスリングとか、ロングドリンクばかり飲んでいたっけ・・・。彼はマティーニを注文するとき、いつもシェイクする事を望んだ。「ジェームスボンドの受け売りだけどさ、いくらか口当たりが優しくなるんだよ」そういって飲んでいたっけ。

 彼が去ってから、仕事は加速度的に忙しくなった。でも、それは仕事の量が増えたからではなく、必要以上に自分を駆り立てたからで、彼に対する思いの行き場を仕事に振り向けようとしたから。部屋に帰る時間は次第に遅くなり、彼の声を聞くのは殆どが留守番電話の録音ばかり。一人の時間はお酒と過ごすことが多くなった。
 お酒がまわって淋しくなると、決まって彼を想った。気持ちが挫けそうになり、衝動的に彼の元へ飛んでいきたくなる。でも、一方的に名残を残して行ってしまった彼が憎らしかったし、仕事の為に残ったのだという意地もあって、かろうじて気持ちを抑えていた。
 仕事に打ち込んだ成果はしばらくして仕事の質の変化として現れた。より大きなクライアントとより大きな企画。実質的に仕事を任されるようになった。でも仕事の中にいる私と、一人でいるときの私は、次第に分離していった。結局、残りたかった自分と彼について行きたかった自分とを選んだ訳ではなかったから、その両方を抱えたままの私は、私自身を二つに引き裂いてしまった。
 わずか二年。でもそんな気持ちでいる二年は短くはなかった。翌年のクリスマスが過ぎた頃、体調を崩した。病名は十二指腸潰瘍。
 私は彼について考えることをやめようと努力した。少しづつ彼から遠ざかり、彼の存在が私の中で希薄になっていく、それはとても淋しいことだった。そして体調は回復し心に穴が空いた。
 バッグから手紙を取り出してみた。二週間前に届いた彼からのエアメール。滅多に手紙なんか書かない人なのに・・・

 元気で過ごしているだろうか?
 ニューヨークはとても寒いけれど、なんとかやっている。
 年が明けたら本社に帰ることが決まった。
 こっちは年末、クリスマス休暇になる。
 イブに間に合うかどうか約束は出来ないけれど、
 仕事をやりくりして何とか一度帰ろうと思う。
 もし都合が付けば、一昨年の店、覚えているかな?
 いや、その前に君の予定が空いているかどうか。
 空いているようなら、あそこで会おう。
 まだ飛行機の時間がはっきりしないんだ。
 だから成田から直接あの店に行くよ。
 君に会うのを楽しみにしている。

 P.S.どうしても行かれないようなら、連絡するから。

 この手紙に、彼は私がまだ一人でいるのだろうか?という現在の私の状況について、暗に気を使っているように思えた。だから、ここに私が来ているかどうかが、彼にとって二年間離ればなれだった私たちの今の状況を決定づけると考えているのかも知れない。だからこの手紙以上の連絡をよこさなかったのだろうか?
 そして私はここで待っている。彼に対する想いはこの二年という時間の試練に耐えて、今も私の中にあるのだろうか? それ以上に彼の中に残っているだろうか? 今はそれがとても恐い。こうして彼は手紙をよこし、私は今も彼に心を乱している。それなのに、何故こんなにも不安なんだろう。今では仕事上の評価も有り、男に頼らなくても生きていける。仕事に対する姿勢が極端だったために、周りの男は必要以上に私に関わろうとしなかった。酒の強い二十八歳のキャリアウーマン。それが淋しくないと言えば嘘になるけれど・・・・
 時計を見ると8時をまわっている。私は少し苛立って煙草に火をつけた。煙草を吸うようになったのも、ここ一年程のこと。
 グラスに残ったわずかなマティーニを飲み干し、煙草を灰皿に押しつけた。この緊張にだんだん耐えられなくなってきた。もしも来なかったら、このままいつまでも待ってそのまま明日になったら・・・・
 ピアノからアズ・タイム・ゴーズ・バイのメロディーが流れてきた。
彼は自分をレイモンドチャンドラーかぶれだと言っていた、そんな彼が好きだった曲。
 ふとピアノの方に目をやると、彼がそこにいた。長身で広い肩幅、あの頃とかわらぬ笑顔が私の方へゆっくりと近づいてくる。
「待たせたね。成田からここまで、ずいぶん遠く感じたよ。」
「元気そうね。もう帰ろうかと思っていたのよ。」
 哀しいくらい精一杯の強がりだった。そうでもしないことには、今にも泣きだしそうだったから。
「もう少しゆっくり出来るんだろう? それともこの後約束でも?」
「いいえ、あなたを待っていたのよ。」
「間にあってよかった。少し驚かせたくてね。」
 マティーニのグラスが下げられて、代わりにフルートグラスが二脚と、クリュグのシャンパンが入ったワインクーラーがカウンターに置かれた。
「あなたいつからここに来てたの?」
 私は注文していないシャンパンが出されたことに少し驚いて聞いた。
「十分くらい前に来て、君を見ていた」
「この曲あなたのリクエストね?」
「ばれたか」
 少しやることに気障なところがある。というよりロマンティックな人だった。その為にぎりぎりまで連絡をよこさなかったんだ。もしかしたら私が来ることを確信していたのかも知れない。少し悔しいけれど、そんな彼の事を私が知っているから・・・
 バーテンダーがシャンパンの栓を抜いた。ぽんという軽快な音が弾けて、気持ちが静かにほどけていく。私はシャンパンが目の前のグラスに注がれるのを静かに見守っていた。そんな私の横顔を彼が見つめている。
 グラスを取った彼が私の瞳を見つめた。
「ねえ、あれはやめてよね。君の瞳に・・・ってやつ」
 彼は微笑んでうなずいた後、乾杯と言って私たちは静かにグラスを重ねた。彼はグラスの中身をゆっくりと飲み干して言った。
「永かったな、意外と永かった」
「そうね・・・」
「少し痩せた?」
「ええ・・・すこしね」
「マティーニ飲むようになったんだね。」
「お酒が友達だったから・・・」
 彼は少し寂しそうに笑って二つのグラスにシャンパンを注いだ。
「本当のことを言うと、ここに来て君の姿を見るまではとても不安だったんだ」
「それなら、私だって同じよ」
「あの時、君に待ってくれって頼んだわけじゃなかったし、君も待つと約束してくれたわけじゃなかったから」
「でも、こうしてまた逢えたじゃない」
「そうだね」

 私たちは、お互いに口元をほころばせて、しばらく無言で見るともなしに街の明かりの海を見ていた。

「年明けすぐに、また一度向こうに戻るけど・・・・」
「手紙読んだわ。」
「また君と・・・」
「だからここにいるのよ。」少し冷たく言った。まるで腹を立てているみたいに。とても寂しかったとは言えない代わりに・・・

 彼も同じように寂しかったに違いない。そんな彼を思って少し自己嫌悪してうつむいた。右手の薬指のマニキュアが少し剥がれているのが気になった。この二年を大過なく一人で過ごしてきた私、そういう凛とした私でいたかったのに、化粧の事や着ている服の事なんかが気になる。
「そうだ、クリスマスプレゼント」彼は少し明るい声で言って、内ポケットから小さな包みを取り出し、カウンターの上に置いた。
「開けていい? 私も買ってあるけど後でね」

 彼は言葉のかわりに微笑んだ。
 包みを開けると、それは小さな宝石箱に入った大きなダイアの指輪だった。

「サイズが合うかどうかわからないけれど・・・・」
 そう言って彼は、私の左手を取り、指輪をつまみ上げて私の薬指にはめた。サイズは丁度良かった。
「どうも・・・・・ありがとう」

 困惑している私の瞳をのぞき込んで彼が言った。

「来年さ、一緒にならないか?」
「え?」
「結婚だよ」

 押さえつけていたすべての感情が私を押し流してゆく。
 ダイアの輝きも街の明かりも彼の顔も、あふれだした涙に滲んでもう見えない。

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