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千代田区の月影(1939文字)

千代田区内の賃貸を転々としながら区内の会社に通っていたわけだけど、九段坂を上り切った辺りに住んでいた頃は坂を下り切った辺りにある会社まで毎朝、オレンジ色のミニベロで駆け下っていた。多くはない数の通行人であったが彼ら彼女らを避けながら猛スピードで疾走していたんだから危ないことこの上ない。ブレーキがキレたら終わっていただろうな、と今思うと怖い。夜中に例えば宴会帰りで酔っ払っていても九段坂を勢いをつけて漕ぎ上がり帰宅していたのだけど、さあこのスピードを維持したまま一気に駆け上がるぜ! というまさにそのときに九段下交番のお巡りさんに職質で止められたりして、そのあとまたいちから漕ぎ始めなきゃなことにうんざりしながら社員証とか見せて、自転車でも酔っ払い運転になるんだからね、とか割りと丁寧な物言いで咎めていただきながらもこちらぶーたれて、立ち漕ぎでぎこぎこやりながら苛立ち紛れに坂を上り、なのに深夜の武道館を左手に認める辺りでお堀に浮かぶ月影を見たらなんだか急に人恋しくなり、ハンドルを右に切って信号を渡り靖国神社に突入し、深夜の境内に人がいるとも思えなかったが英霊の方々の気配があるいは感じられるかもしれないしと黒々とした銀杏並木のど真ん中を、そうえば右翼の偉い人が、参道の中央は神様がお通りになるのだから人が歩んではいけませんよ、とか言ってたっけなあ、とか思い出しつつも、ま、いいか、と走っていたら、差し掛かった段差をミニベロの小さな前輪が越えられず、勢い余った車体は前転し、瞬時に受け身はとったものの肩から地面に叩きつけられ、酔っていたからたいして痛くはなかったものの、神様の、ええかげんにせえや! というお叱りのメッセージはしかとアクセプトし、反省し、自転車を点検するとチェーンが外れてハンドルが曲がっているだけだったので、チェーンをはめて、前輪を足で挟んで力づくでハンドルも正し、なにもなかったふりをしてそそくさとその場を去って、大きな鳥居をくぐる手前で参道を左に抜け再び靖国通りに出て信号を渡り、さらに10メートルほど通りを進んだ。となるとそこを左手に折れ桜並木の道をもう10メートルも行けば我が家なのであったが、上にも横にも部屋のない孤高のペントハウスに独り上るのがなんとも寂しく感じられ、だから左に折れたりはせず、さらに真っ直ぐ漕ぎ進み、平らになった靖国通りを30メートルほど行ったあといかつい感じのビルの手前にミニベロを停め、そのビルの階段を上ってなんの店名の表示もないドアを開ければそこが『BAR 9DAN(バー九段)』で。いくつかのソファの向こうの、あたたかな色の木製の、15センチはありそうな厚みの天板の、縁がまるっこい、すなわちとても気持ちがいいカウンターテーブルを前に座り、右目の端でモニターに映っている古い映画を舐めながらレッドフックかなんかを注文し周囲を見回すが話し相手になってくれそうな客は見当たらず、無愛想なマスターを相手になにかをしゃべる気にもなれず途方に暮れつつ諦めてケータイを取り出しネットサーフィンをしているうちにホエールウォッチングの記事を見つけ、来月の体験取材でここに漫画家を連れてゆこうと決め、那智勝浦までのルートを調べつつそのまま親指で企画書をしたため会社の自分のデスクのアドレスに送信、やれやれと思って顔を上げレッドフックをまたひと口飲む。と左目の隅が開かれたドアを認識し、見ると女性が独り入ってきて、L字になっているカウンターのこちらではないほう、すなわち短いほうに座り少しこちらを見たのでなんとなく小説的な展開を期待したりするも、遅れて男が入ってきて、まあ、そうだよな、と思っているとそいつめ、女の右手に座り牽制するようにこちらを見るもんだから、はい、はい、と思ってマスターに左右の人差し指で×マークを作って会計してもらい、退散、退散、と店を出て、明日は土曜日だからヘッセの文庫をヒップポケットに突っ込んで北の丸公園に行き、ベンチに座って足元の雀の砂浴びでも眺めようだなんて考えて気を取り直し、階段を下り、忠犬のように待っていたオレンジのミニベロを引き寄せ、『真っ黒羊の丘』と内心で呼んでいる自宅に向かって今度こそ走り、辿り着き、丘の麓の穴蔵で眠っているこちらもオレンジ色のミニバンのテールを開けて中にミニベロをしまい、エレベーターで最上階に上がるとドアの鍵を開け中に入り真っ暗な部屋の灯りをパチンとつけて溜め息をひとつ。というような暮らしを、ある方の、千代田区を絶賛するnoteを拝読しふと思い出したら、千鳥ヶ淵に浮かぶ月影があたかも眼前にあるかのように思い出されて心がとてもいい具合に、しん、となってしまいましたことよ。

文庫本を買わせていただきます😀!