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調査報告書2「平和公園と名古屋」

荒木佑介+伊藤允彦

「復興と復旧」
伊藤 昔の人は国造りをどういう想像力で捉えていたのでしょうね。今ある大地が、一から作り出されることを想像したのか。それとも、災害による地形変動を目撃していたのか。
荒木 一から作り出される世界を想像するために、災害のイメージを用いたのかもしれないということですよね。想像力のもとになるような現実を目撃したというか。終わりと始まりは常に重なっているというか。それで思い出すのが戦災復興都市計画です。中でも、名古屋はかなり実行できた街なんですよね。戦後、名古屋は市街地にあった墓地の集中移転をやっている。今、平和公園と呼ばれている場所です。
伊藤 被災し、残ってしまったものに対する復興の選択肢は、移動と残留の2択になるはずですが、現代では移動が選択されにくいような気がします。また、無くなってしまったものをどうするかと、残ってしまったものをどうするかの議論がきちんと分けられていないようにも感じます。修復と保管を使い分けられていない。被災地において、本来は終わりと始まりが重なっている。しかし、今の日本は制度上この重なりを断絶しているわけです。復興の最初の段階で、災害で破損した施設(自然も「施設」という言葉で表す)を「復旧」させるのですが、この「復旧」とは、機能を取り戻すことであって、元が森林であっても機能が同じならコンクリート構造物で代替することが、「復旧」になるのです。この機能を重視して、別の何かに代替させてしまう行為が、終わりと始まりの重なりを断絶しているような気がします。しかし、名古屋の墓の一括移動は気になりますね。寺の墓地を動かした感じなんですか。
荒木 そうらしいです。寺の境内にあった墓地を一括移動した。
伊藤 それは凄いですね。
荒木 次に名古屋へ行く時は墓地霊園巡りをしようと思ってます。
伊藤 もちろん平和公園は見てみたいのですが、むしろかつて墓地だった場所を巡ってみたいです。
荒木 なるほど。
伊藤 墓地の多かった東区はラブホテル街になっているみたいですね。
荒木 記憶の継承だ。
伊藤 確かに。
荒木 終わりは始まり。
伊藤 まさしく。そして、この名古屋の事例は復興の成功例として、評価どころか、もはや日常と化しているのがなんとも言えません。ちょっと調べてみたら、名古屋市はほぼ全域区画整理しているんですよね。区画整理は、生活の移動を伴う。全域区画整理は、正直、正気の沙汰じゃないように感じてしまいます。
荒木 凄まじいですね。
伊藤 この世の全てのものは保存できないわけで、特に日本のような何もかもが崩壊する可能性がある場所では、何を残すかことが出来るのか、最近考えてます。きっとその方法は選択ではなく、圧縮なのだと、荒木さんとのやりとりで思いました。解凍し、フロー化する手法も同時に持たないといけないのですが。
荒木 おそらく、忘れるでも記憶するでもない別ルートがあり、日本はその別ルートの国だと思うんですよね。
伊藤 私も同意見です。その別ルートを探りたい。
荒木 そういえば「夜口笛を吹くと蛇が出る」というのは圧縮ですね。
伊藤 ほんとだ。圧縮ですね。面白い。実際に起きたことを圧縮し物語にするが、時代が経過すると、解凍方法が失われ迷信となってしまう。


「都市計画」
荒木 立案者の田淵寿郎が、戦前の中国でも都市計画を担当していたのも気になるんですよね。道を重視した人。
伊藤 土木史的に言うと、復興という概念は、明治初期に生まれます。江戸の街並みが火災により焼失した時、復旧により従前の機能を取り戻すのではなく、復興により、従前に無かった機能(火災への対応)を盛り込むのですが、江戸→明治という時代背景から、近代化という機能も盛り込みます。これ以降、復興は、もう一度被災しないための機能ではなく、被災をきっかけに都市を拡大する概念として使われます。その具体的手法として、大正8年に制定された都市計画法に区画整理が盛り込まれ、被災により消失した土地以外も改変できるようになります。そして戦後に東京等の大都市において、広域幅員道路を通す為の大規模な復興計画が立ち上がります。しかし、自然災害やインフレ、緊縮財政等により、規模が縮小され、区画整理への反対も相次ぎます。実際、東京都における区画整理は当初想定の6%しかできず、計画は見直されます。戦後の復興計画は、ドッジラインにより予算の大幅な削減を余儀なくされ、大きく見直されることになるのですが、この計画見直し時点において、名古屋市はなんと計画の95%の区画整理を実現していたのです。その後、計画は大きく見直され、最終的な達成率は78%となるのですが、それでも、戦後の復興都市計画における名古屋の達成状況は目を見張るものがあります。
荒木 個人的に押さえておきたいポイントに歴史的建造物があります。名古屋城がそれに当たりますが、街全体のシンボルになるやつですね。復興における再現という手法は諸刃というか、災害があたかもなかったかのような働きもしてしまう。このあたりはイメージの問題になりそうです。
伊藤 確かに。例えば、倒壊した高速道路がシンボルになった阪神淡路大震災後は、建物の耐震性が強化され、津波による平面がシンボルになった東日本大震災後は津波タワーの様な高い建物が作られるなど、災害のシンボリックなイメージにその後の自然災害対策が揺れ動きます。荒木さんのおっしゃったことの逆バージョンになりますが。


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名古屋市内の寺院・墓地地図
青(墓地)が密集していることが分かる。2ヵ所ある青の密集地の上側が平和公園。その下が八事霊園。


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平和公園墓地 配置図
区画は宗派ごとに分かれており、園内にはバス停もある。


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平和公園 万松寺区画


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平和堂


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万国戦没者墓地(ロシア人墓地)_1


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万国戦没者墓地(ロシア人墓地)_2


「平和公園ストリートビュー」https://www.mapillary.com/map/im/JqI3RcB8DsrgkSaNhO_obA


「平和公園」
荒木
 ロシア政府は今、スターリン時代に粛清された人達の名簿を発掘し、彼らの墓を新しくバンバン作っているそうです。その墓と平和公園のロシア人墓地は形式が同じだという話を聞きました。
伊藤 それもすごい話ですね。弔いとは。
荒木 平和公園のロシア人墓地も、名簿が発見されたことで作られたそうです。
伊藤 謎が1つ解けましたね。しかし、何故それを平和公園に作ったんだろう。
荒木 そう。あの記事でも違和感を感じたくだりがあった。最初の一つが見つかった場所。これだ。「平和公園で見つかった」とある。
(金子力『戦争を考えるための遺跡④◆ 陸軍墓地ロシア人兵士の墓』http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201107/vol_20-4.html
伊藤 確かに、おかしい。
荒木 どういう状況だったのか。90年頃は今とは違い、整備されてない部分があったのか。
伊藤 移動させる時、普通数えるはずなので、平和公園で見つかるのは、絶対おかしい。数えないで移したのか、何にもない山に元から陸軍墓地だけあったのか。
荒木 そう考えると、平和堂の土台問題とも関係してきますね。あそこには本来、何があったのか。
伊藤 もう少し調査が必要そうですね。陸軍墓地から調べるのが良さそうです。寺から移す時、魂抜きは絶対やっているはずなんですよね。共同墓地ならいざ知らず、あのように個々人で祀っていたのなら、一つ一つ魂抜きして運ぶはずなので、元の寺が気が付かないわけないと思うのです。


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法華寺(日蓮宗)


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永安寺(曹洞宗)


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寿林寺(浄土宗)


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玄周寺(浄土宗)


「誘致」
荒木
 『名古屋の寺院数の変遷』を見ると、つまりこれも都市計画ですね。「清洲越し」で寺院を名古屋城下に一気に移動させている。
伊藤 移動を繰り返しているのか。
荒木 江戸初期に寺院が名古屋城下へと大量に移動し、戦後そこにあった墓地が平和公園へと集中移転している。移動させた寺院は清洲からだけではなく、岐阜や三重の寺院までも含まれるみたいです。大量移動というより、集結と言った方が妥当な気もする。あと、平和公園の墓地区画のように、市街地の寺も宗派ごとにまとまっているように感じたのですが、つまりはそういうことなのかも。
伊藤 確かに。関連性がありそうですね。どちらも区画整理だったわけですし。
荒木 配置させることが可能だった。
伊藤 区画整理によって、寺から墓地が移転されました。これによって寺の機能は細分化され、墓参り、つまり慰霊の機能が外部に出力されることになります。また、名古屋市では寺の数が全国の中でも非常に多いことから、「寺の息子」が各地区にいる。このため、教え、教義といった方がいいかもしれませんが、こちらはコミュニティや教育の中に溶け込むことになります。つまり、建物としての寺には象徴としての機能のみが残った。データの解凍・圧縮で例えるなら、寺という構造物に圧縮されたものが、解凍されていることになる。この解凍が進みすぎているが故に、寺における慰霊や宗教性が希釈されている。
荒木 zipファイル破損。
伊藤 それだ。解凍し過ぎて寺がバグった。解凍は、フローとストックで言えばフローを象徴するものだと考えています。フローであるが故に行為としては移転になる。移転するということは、そこに何かが破損したり、細分化する可能性が常に含まれている。故に寺がバグるのでは。
今回の調査で気になったのが、100メートル道路を作るために墓を動かす理由があまり感じられなかったことなんですよね。本来は、災害からの復旧の為にあったはずの復興計画に、経済成長のような復旧以外の要素が紛れ込み過ぎている。
荒木 名古屋五輪計画、博覧会、愛知トリエンナーレは繋がっているという指摘が知人からありました。その指摘を受けて、都市計画や尾張藩成立時の寺院集結を考えると、これらは全て誘致ではないかと。誘致という原理(行動理念)で形成される街が名古屋。
伊藤 誘致を受け入れる場としての名古屋。実際にトリエンナーレ会場の近くには寺がたくさんありますしね。


構成・写真=荒木佑介
マップ作成=伊藤允彦
調査協力=伊藤文郎、大田明光(西蓮寺副住職)、田口薫、弓塲勇作


参考文献
『旧都市計画法』1919年
『都市計画法』1969年
名古屋市計画局『戦災復興誌』1984年
川口高風『名古屋の寺院数の変遷』1998年
木下直之『世の途中から隠されていることー近代日本の記憶』2002年
簗瀬範彦『災害復興と区画整理の制度・技術の発達』2011年
名古屋市住宅都市局『都市計画概要 2013 第2編 第6章』2013年
林上『名古屋圏の都市地理学』2016年
釜本健司『戦前公民科における「国土・領土」の取扱い』2017年
土木学会土木史研究委員会『図説近代日本土木史』2018年


「レビューとレポート」第3号(2019年8月)

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