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掌編小説『不自由な織田信長』

【文字数:約四四〇〇 初稿:二〇一九/九/一】

  ***

「おう、おう、ようやっておるわ」
 晴天なりし都の空の下、そう、弾んだ声で嬉しそうに呟《つぶや》いたのは、今や都の主でもある織田信長である。信長はすでに齢《よわい》五十に近いが、その肉体は今でも壮健にして痩身《そうしん》である。もし顔のしわを化粧で消せば若武者と呼ばれても不思議では無い。だが、今の信長は四方《よも》を剄敵《けいてき》[*1]に囲まれていた若かりし頃とはかけ離れた立場に有る。もはや武田を滅ぼし、上杉も恐れるに足らず、毛利も禿鼠《はげねずみ》が上手くやろう。丹波《たんば》には律儀な日向守《ひゅうがのかみ》が居るから安心だ。信長はようやく天下に比類無き大大名として思うがままに君臨できる立場になりつつある。
 だが、それにも関わらず、今日の信長はひどく軽装であり、帯刀すらしていない。つまり、いかにも若隠居の旦那様が家の金を使って遊んでおります、と云いたげな風情を演じている。信長がやってきたのは寺の脇に作られた相撲の取組場である。広間の中央には台の形をした立派な土俵が作られており、それを大きな櫓《やぐら》が囲っている。土俵の上では見習いらしき力士たちが前座なのか稽古《けいこ》なのか分からないが、すでに相撲を取り始めている。客席はまばらだったが、まだ朝の早い時間なので当たり前だ。客席の後ろ側は地べたになっているので藁《わら》の莚《むしろ》[*2]が用意され、その上に質素な座布団がびっしり並べられている。信長はそのような何処《どこ》の誰が来るかも分からぬ不穏な場所にお供を一人連れただけでやってきたのだ。なので、豪放な信長はともかく、連れとしてやってきた美少年の方は極度に緊迫した様子である。それを見た信長は親しげに笑いながら少年の背中を遠慮無く叩いて曰《いわ》く、
「お蘭よ、今日は祭りぞ。楽しうしておらんでは、かえって不思議に思われるぞ。何せ今日の儂《わし》らは只の道楽な旦那と小僧なのだからな」
 そう云われても、お蘭と呼ばれた少年は真顔のまま、やや緊張の震えを宿しながら、信長の傍《そば》へ影のごとく張り付いている。彼曰く、
「楽しうことは旦那様の役目でございます故、私は厳《いか》めしう方をやろうと思います。いかなる時も旦那様を命がけでお守りするのが、お蘭めの生きる意味でございますれば」
 それを聞いた信長は大らかに苦笑いをしつつ、
「お蘭らしいのう。かような所も愛《う》い事よな」
 そう云いながら、彼の白く美しいうなじを撫《な》でると、お蘭は嫌な所を触られた猫のように信長を恨めし気に見つめてくる。曰く、
「お屋形、いえ、旦那様、お戯れは屋敷へ帰った後に……」
 信長はその反応に満足すると、さっさと座敷の中へ入り込み、迷う事無く座敷の一番前へ座った。不意を突かれたお蘭は焦った様子で信長の後を追ってきて傍《そば》へ座る。そして、
「旦那様、せめて一番後ろの席へ。ここでは御身の御背中を守れませぬ」
 そう訴えてくるが、信長は莞爾《かんじ》[*3]として腕を組みつつ、
「そう云うだろうと思ったから、こうしたまでよ」
 と、云ってやる。

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掌編小説『不自由な織田信長』

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荒木免成

主に東洋の歴史や哲学を主題とした随筆や小説などを投稿する。

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