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恋の様相ー歌謡曲とJポップからみるその変化ー(番外)

 きょうふとつけたテレビで星屑スキャットが「北酒場」(1982年 作詞:なかにし礼、作曲:中村泰士)を歌っているのを見て心を撃たれてしまった。YouTubeの細川たかしが歌うのとまた違うのはアレンジの時代性なのか歌い手の感性なのか。

 昭和の爛熟の手前の軽妙な感じがいい。時代劇のなかでみる清冽な潔さみたいな古めかしいお洒落感。

 「北」とは北海道の意ではない。ここでは非日常の比喩だ。「酒場」という非日常をさらに修飾している、そういう世界。

 男女の恋はここではフェイク。真面目な現実世界には持ち越さない。男女格差はあっても女性でも普通に働いて自立できる時代。お互いの責任と領域を自覚して結果はすべて受け入れる、そういう前提の一時の恋らしい。
 そんな恋ができるのは「お人よし」みたいで「口説かれ上手」で、でもしっかり自立してる女子。そして「おんな好き」な雰囲気で「瞳で口説ける」高等技術を習得した男子。

 どっちも「たばこの先に火をつけてくれた人」と運命の恋をする気でいる。「絡めた指」がセクハラにならないのは、上記の前提があるから。そんな出会いを「さだめ」と受け入れ「心を許す」。執着も後悔もなし。そんな恋が簡単でないのは、今ではみんな知っている。

 知らないのはそんな昭和ファンタジーの夢だけをみて、フェイクな恋が安易に手に入り、少しの時間で真実の愛に代わると思ってきた勘違いおじさん。彼らにとって恋とかは酒場の世界、つまり非日常の世界にあり、それは不思議なことに自分の思い通りになるものだと信じている気配がある。それはあたかも現実の家庭の「主人」としての役割からの逃避のように思える。

 もちろん「瞳で口説ける」ような技術はないし、指を絡めて相手との距離感を知るほどの経験もないのに、どこか既得権としての男性優位観を捨てられないから、たちまちハラスメントおじさんとなる。

そんなのは被害者にとって気の毒としかいいようがない。恋はコミュニケーション技術と洞察力の訓練の賜物なのだ。安易に扱うのは人権軽視の犯罪なのだ。
 
 しかしながら、恋が他人との関係性ならお互いが傷つき後悔することも避けられない。だれにだって自分の恋を手に入れるのに学習が必要だとしたらお互い自覚的なフェイクな恋で慣れていくのはいいんじゃない?
 
 「フェイクな恋」とは単なる概念にすぎない。お互いが了解済みのなかでの、継続を求めない一時的関係性。結局それは友情や恋のトライアルになってしまうのかもしれない。しかし婚活や合コンが求めているものの息苦しさを感じる時もあるはず。なんの見返りもなく「心を許す」瞬間のめくるめく快感こそが人の優しさの始まりかもしれないから。

 「北酒場」のような非日常は今、どんな別世界にあるのだろうか。そこでは指を絡めるきっかけのたばこの火に代わって何があるのだろう。

 しかし、そんな世界を生きてみるには、自律的で互いの尊厳を認めながら高度なコミュニケーション技術を学習する覚悟が必要なのだ。そしてその結果に潔く責任がとれるかどうかだ。

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