1周忌に寄せて

久々に読んで、すこぶるおののいてしまった。自分はこんなにすさまじい作品を所持していたのかという事実に。

わたしが大島弓子さんの作品を知ったのは、ずばりこの『バナナブレッドのプディング』からで、そのころ、少女漫画ばかり狂うように読んでいた自分は、有名だからいちおう読んでおこう、というくらいの、非常に軽い義務感にも似た気持ちでこの本を手に取り、その結果、彼女の作品のほとんどすべてを読破するという体験に繋がるような、まるで得体の知れない作品でありました。

いまでも大島作品の多くは何故かうちの本棚にあり、読もうと思えばどの作品も読める状態になっているのだから驚きです。わたしは決してその状態を狙って作ったのはなく、いつのまにかそうなっていた、と言う他なくて、それゆえに、いつだって自分の理屈では説明しきれないところで、彼女の本を「必要としていた」と考えるしかないのだろうと、最近のわたしはとみに感じています。

十代の中ごろからこの歳になるまで、いちばんはじめに読んだ日から久々に読み返して"あのころ"の自分にまた出会うまで、わたしにはどうしてもこの作品が必要であり、必要であった。必要であったと言う他なくて、それはきっと、わたしがおそろしく孤独だったからです。わたしがおそろしく孤独であったからこそわたしにはこの作品が必要で、そして「自分は孤独であった」事実を知るためにも、わたしにはこの作品が必要だった。

そう、いまにして思います。

この作品の得体の知れなさ、そしてそのすさまじさを理屈をもって理解するために、わたしにはもう一冊の本が必要でした。

不登校児であり、十代のほとんどを図書館で過ごすことになった自分には、大島弓子と橋本治両者の本が、まさしく人生のテキストのようなものでした。

そのころ教科書や学校には一つも転がっていなかった「得体の知れない自分の苦しみ」の琴線に触れるようなものが、この両者の本からは驚くべきほどに読み取れて、それは自分にとって、まさに奇跡のような出会いであり、十代のわたしはそんな本たちを夢中になって貪り読みました。

そこに書かれていることが理解できなくても、理解しようととにかく読み、理解できなくてもとにかく読んだのは、「ここにはものすごく重要なことが書かれてある」「いまはすべてが理解できなくても、そのことくらいはわたしにもわかる」「だからしんどくても読む」と衝動に突き動かされるように感じていたからで、いま考えるとそれこそが、まずは必要な「本と出会う能力」「本を読む能力」だったのかもしれませんが、とにもかくにも、やっと出会った「話のわかりそうな他人」の影を、孤独で苦しいわたしが、みすみす手放せるわけもないのでした。

十代の中盤のほうで『バナナブレッドのプディング』や橋本治に出会っていたわたしは、当然のことながら、橋本治が大島弓子論を書いた『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』も読んでいましたが、ほとんどその意味を汲み取れないままに終わっていました。ものすごく重要でとても大切なことが書かれてあり、もしかしたら"これからの自分"に必要なことが書かれてあるのかもしれない、くらいのことは感じましたが、そのときは、本を読み通すしんどさのほうがずいぶんと勝ってしまった。

橋本治さんの本というのは、わたしにとってはいつだってそういうものです。大事なことが書かれてあり、必要なことが書かれてあるからこそ、読むのがとてもしんどい。しかしそれは裏を返すと、それだけのことは察知できていた、とも取れるのかなと、いまになって改めて考えたりもします。

そのときその大島弓子論を読み通して思ったのは、わたしはここに書かれてある"知っている少女"なのかもしれない、くらいのもので、そしてそれに気づかされることさえ、胸に杭を打たれるような痛みを伴っていました。

とても面白いことですが、渦中の最中の、真っただ中にいる人間は、どんなにそこに自分のことが書かれてあろうとも、あからさまに自分に向けられたような言葉であっても、それをキャッチする能力が著しく乏しくなっているように思います。おそらくそれが「渦中にいる」ということであり、わたしはやはり、間違いなく"無垢な少女"でもありました。無垢な少女は、普通の少女であり、"気づこうとしない少女"でしたから。

一方、虚ろな衣良は、自分が虚ろであることには気がつきません。もし自分が虚ろであることに気がついてしまったなら、その時衣良は完全に崩れ果ててしまうでしょう。衣良の目は、決して虚ろである自分の内部には向けられません。衣良の虚ろな意識は自分の外に向けられるのです。だから衣良には、"自信がある"のです。
"わたしは だれにだってすんなりとけこめるのよ"と言う衣良の、"だれにだって"の最悪なパターンが"世間にうしろめたさを感じている男色家の男性"なのです。何故ならば、世間にうしろめたさを感じているのは、男色家の男性よりも誰よりも、三浦衣良自身なのですから。

わたしがこの文章を自分なりに噛み砕けるようになり、そうしてまた、橋本治の大島弓子論の論旨を自分なりに汲み取れるようになったいま、わたしはもう、"無垢な少女"ではなくなりつつあるのだろうと思います。

"気づこうとしない少女"ではなくなり、気づこうとする人間になろうとしています。それが、自らの虚ろさや孤独を知ることであり、「自分はどうしようもなく孤独であった」事実に気づく、ということでした。

作中、『バナナブレッドのプディング』の主人公をつとめる、おそろしく孤独な少女であった三浦衣良は、結びに向けてこう言います。

夢にも思わなかった
わたし 薔薇の木は好きだった
でも 薔薇の木から好きだよなんて
いってもらえるなんて
夢にも思わなかった 
夢にも思わなかったわ……

少女漫画がすなわち"少女の夢"の結晶であるのなら、こんなに美しいモノローグは後にも先にもこの世に存在しないだろうと、わたしはこの漫画をはじめて読んだ日からいままで、ずっとそう思ってきました。

衣良の"他者との出会い"がこれなら、わたしの"他者との出会い"はこんなに美しいものではなかったのですが、それが現実と言われればそれまでで、そしてわたしはいま、そんな現実を自分なりに生きようとしています。

明日に向かって。

白状すると、衣良にとっての薔薇のしげみとは、つまるところ、わたしにとってのアイドルでした。

よく、ファンは無力だと言われますが、当たり前だろうと個人的には思います。「だって無力である立場を進んで選んでいるんだから」と。

人と人間同士として関わり合わず、向き合わない、けれども一方的に見つめて好き勝手に解釈し、ときとして「その対象を支え、力になっているはずだ」とまで錯覚できる立場を取るというのは、つまりそういうことで、そして、そういうことでしかなかったのです。

少なくともわたしにとっては。

わたしは彼らの、彼の孤独に惹きつけられ、寄り添っている気になって、ときには理解できている気にすらなり、その実きっとまるで一つも理解などできていなかったし、理解する気すらほんとうはなく、そこにあったのは、自らのどうしようもない孤独と、そのうしろめたさでしかないのでした。

そのことに気づいたわたしが、だから言える言葉はただもう一つだけで、わたしはほんとうは、君と関わり合いになれるくらいの人間になりたかった。

ほんとうは、君と友達になれたらどんなにいいだろうと思っていました。

会って、話がしたかったし、自分がそんな人間になれていたらよかったと、一年前もいまも、こんなに思う日はないです。

それでも、産まれてきて、精一杯生きてくれたことに感謝しています。

それをいまだってずっと、ずっと、感謝しつづけているのです。


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arama

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コメント1件

大島弓子さんも亡くなっていたのですね。存じ上げずに、ごめんなさいm(_ _)m
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