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もっとザラザラした荒野へ 『レッド』と後期ウィトゲンシュタイン

8/29追記:以下は大して調べ物をせずバッと書いた文章だったのだが(noteではだいたい思いつきをそのまま文章化してます)、書き終わってから山本直樹自身が私的言語と連合赤軍を関連づけて語っているインタビューを見つけて(いくらnoteだからってネット検索ぐらいしろ。はいすいません)、あながち的外れでもなかったなとホッとした。

以前『フィルカル』という雑誌で『論理哲学論考』特集があり、関連書籍を紹介する記事が掲載された。


私も山本直樹の『レッド』について書いた。連合赤軍のマンガで、当然あさま山荘事件も出てくる。

実は山本自身がとあるトークショーで、『論考』と『レッド』の併読を勧めている(『マンガ論争20』「DONDEN祭vol.2」レポート)。『フィルカル』でもその話をした。

このトークショーには私も行っていて、『論考』への言及も直接耳にした。「なるほど!」と思うと同時に、「なんで?」とも思った。「ウィトゲンシュタインとの併読、なるほど!」だったのだが、「なんで『論考』?挙げるなら後期ウィトゲンシュタインの『哲学探究』じゃない?」となったのだ。『フィルカル』の記事の補足として、その話を書きたい。

言葉が意味を失う

『レッド』と後期ウィトゲンシュタインは、似たような現象をテーマにしている。例えば、『レッド』を象徴する次のコマを見て欲しい。

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(『レッド』第七巻から)

連合赤軍の指導者である森恒夫、をモチーフにした北が、革命の議論で仲間を圧倒する。過剰に言葉を詰め込むことで、言葉がまともに使われていない、滑っていく印象を与える。その印象は、ウィトゲンシュタインが『探究』で問題にしたことに通じていそうな気がする。

というのも我々は次のように問いたくなる。「言葉の意味を経験していないとしたら、我々は何を失っているのだろう?」
例えば、「sondern」という語[引用者注:接続詞としても使えるドイツ語の単語]を、動詞としての意味を込めて発音しなさい、という要請を理解できないとしたら、何を失っているのか?あるいはある語を10回以上繰り返しても、語がその意味を失って単なる音と化すようには感じないとしたら?
「詩や物語を感情を込めて読み上げるとき、単に情報を求めてナナメ読みしている時とは異なる何かが、自分の中で起こっている」ーー私はどんな過程の話をしているのだろう?ーー文章に違った響きがあるのだ。

(以上どちらも『哲学探究』第二部から)

「共産主義化」と「私的言語」

あるいは、「共産主義化」の問題。連合赤軍メンバーは、仲間に自らの問題を「総括」するよう求め、果てに暴力に行きつき、多数の死者を出す。糾弾の根拠となるのは「共産主義化」なる概念である。お前はきちんと「共産主義化」できていない、問題を総括し「共産主義化」しろ、といった具合だ。しかし、一体「共産主義化」とはどういうことで、何をすれば「共産主義化」したことになるのか、基準はよくわからない。わからないから、糾弾する側の胸先三寸によって、思い通りに人を断罪し殺害することができる。少なくとも外部からはそう見える。

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(『レッド』第八巻から)

私が思い出すのは、ウィトゲンシュタインが「規則遵守」あるいは「私的言語」について語った部分だ。彼がそこでつまるところ何を言っているのかは、解釈上の一大問題だから深入りしない。大雑把に言えば、概念を適用する基準が客観性を失い、単に俺が正しいと決めたから正しいのだと言っているに過ぎなくなってしまう事態が、これらの箇所の主題である。

我々のパラドクスはこうだった。規則によって一連の行為が決定されるということはない、どんな一連の行為だって規則にしたがっているように解釈できるのだから。答えはこうなる。なんだって規則に従っていることにできるなら、従っていないことにもできる。だから規則に従うとか従っていないということは存在しない。
次の例を考えよう。ある感覚が繰り返し起こるので、日記につけたい。そのために感覚に「E」という記号を結びつけて、感覚が出てきた日には毎度カレンダーにその記号を書く。(中略)[引用者注:感覚に注意し、心の中で「E」と結びつけようとしても]この場合、[引用者注:「E」の適用基準について]正しさの基準がない。こう言いたくなるだろう。正しいように思えるものはなんでも正しい。

(以上どちらも『哲学探究』第一部から)

連合赤軍という共同体の話で「私的言語」?と思われるかもしれない。特にクリプキの有名な本(『ウィトゲンシュタインのパラドクス』)では、ウィトゲンシュタインは私的言語や規則遵守の問題への解決として共同体説を持ち出したのだ、と解釈している。それを知っていると違和感が強いだろう。だがマッギンはクリプキを批判して、共同体を持ち出しても共同体単位で私的言語問題が持ち上がる、というような応答をしていたりする(『ウィトゲンシュタインの言語論』)。

『レッド』と『探究』の関係

もちろん、ここで本格的にウィトゲンシュタインを論じるつもりはないし、その用意もない。とりあえず、『レッド』と『探究』の断片をネタに、連想ゲームを遊んでみたにすぎない。アニメやマンガを学問で権威づける、インテリ気取りのクソダサムーブじゃんと言われると、きちんと反論する材料はない。

だが悔しいのでこの連想から意義らしきものを捻り出してみよう。ウィトゲンシュタインと山本直樹は同じ現象を問題にしていた、ととりあえず言い切ってみる。だとしても両者の手つきはだいぶ違う。ウィトゲンシュタインは、体系的ではないものの、比較的純粋に・理論的に、言語とは、規則とは、といった問い方をしている。一方『レッド』の山本直樹は、淡々とした語り口ではあるが、「言語現象」としての連合赤軍の背後にどんな人間関係があり、一人一人のどんな欲望があったのかを描いていく。

だから『レッド』は、『哲学探究』が取り扱った問題を現実的・具体的な文脈においた「実践編」と考えられる。もちろんただ一般理論(『探究』にそういうものがあるとして)を当てはめたわけではなく、社会や欲望といったより生々しい要素との関連も視野に収めている。だとすると『哲学探究』は『レッド』の「理論編」にあたる。『レッド』のグロテスクさは、「異常集団連合赤軍」の特性と言い切れず、言語の原理にまで食い込んでいる、と論じた本なのだ。従って『論考』のみならず『探究』もまた、『レッド』と併読する価値がある、一方の読者はもう一方をぜひ読むべき……、というようなことは、連想ゲームから引き出せるかもしれない。

理想的な体系としての言語を記述していた『論考』に比べ、『探究』のウィトゲンシュタインは実践としての言語に注目する。その変化は、『探究』第1部の「ザラザラした大地へ戻れ!」というスローガンに要約される。『探究』を追い越し、もっとザラザラした荒野へと突き進んだ先に『レッド』がある、そんな絵面を私は思い描いている。

(『哲学探究』の引用は英語版から自分で訳した)

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