【小説】断崖

ぺったぺったという音が近づいてくる。なんだっけこの音。薄く目を開けるが水平線を離れて上昇する太陽の放つ朝日が刺すように眩しく、慌ててまた目を閉じる。痛い。膝を抱えた姿勢でぐらりと横倒しになりそのまま固い岩の上で眠ってしまった。頭が重く喉もピリピリ痛い。鼻先に何かが触れた。ふんふんと鼻息荒く私の顔を嗅ぎまわる。そっと目を開けると私を覗き込む真ん丸の黒い目が視界いっぱいに見えた。子犬だ。薄茶色の毛に包まれた子犬が私の鼻や口をベロベロ舐めている。いろんな匂いが入り混じる犬の口から慌てて顔を離そうと身を起こして気付く。犬の首輪から伸びるリードを持って立っている男がいた。この寒いのに古びたビーチサンダルを履いた素足。毛がぼうぼうに生えた分厚い足の指が目に入る。

「ああびっくりした」

男は犬と同じぐらい目を真ん丸にして言った。色黒の四角い顔には太い眉毛の下に小さな目。剃る前なのか後なのか分からないような短いひげが口元に散らばっている。背は私よりちょっとばかり高いぐらいで、小太りでずんぐりとした体つきは思いがけず人間になってしまった熊のようにも見える。私よりひと回り以上は年上だろう。中年のそのおじさんは強い海風になびくわずかな髪を頭になでつけながら続けた。

「そんなところで寝てたら風邪ひくぞ」

そう言って連れていた犬のリードを引っ張りながらくるんと背を向けた。確かに喉が痛いのは風邪を引いたのかもしれない。またぺったぺったと音を立てながら歩き始める。私が地面に這いつくばり、両腕を立てたままぼんやりしていると「ほらいくぞ」とおじさんは振り返って言った。いくぞって……。戸惑いつつ言われるまま固い岩の感触を側頭部に残したまま私は身を起こす。犬もおじさんももう前しか見ていない。よろよろとゾンビのように立ち上がった私は考える余力も無くおじさんと犬について歩き始めた。足が痺れて上手く動かない。

ぺったぺった、ハアハアトコトコトコトコ、ずりっずり。

三者三様の音を立てながら昨晩歩いてきた岩の道を戻っていった。頭と体全体がずしりと重い。深い眠りの中で私は波が岩に割れる音にしっかり浸されていたようで耳の奥には止むことなく波音が響いていた。


 昨晩海に向けて辿った遊歩道を戻って行くと駐車場に出た。私が昨日借りたレンタカーが主人を待つかのように律儀にぽつんと停まっていた。他に停まっている車はない。おじさんはずんずん駐車場を通り過ぎようとする。「あ、私、車が……」おじさんの歩くスピードで開いた距離を届くぐらいの声を出して言ってみた。

「歩いて行けるから」

おじさんは止まらない。止まったのは足元をちこちこ歩いていた犬で、止まらないおじさんにリードを引っ張られ苦しそうにまた歩き始める。おじさんは歩きながらちらりと私を見て「停めてても誰も気にせん」と言い放った。ああそうかと私は簡単に納得しておじさんと犬の後についていった。私が死んでもきっと誰も気にしないのだろう。この場所で放置されたレンタカー料金がどれぐらい膨れ上がったとき、私の死は発見されるのだろうか。それとも発見もされず行方不明者として処理されるだけなのかもしれない。まだ痺れる足と重い体を引きずって歩く私に、子犬は時折ハアハアと舌を出しながら振り返る。そしてまた止まらないおじさんのリードに引っ張られ前を向いて歩き出す。そういう時ってレンタカー料金って誰が払うのだろう。やっぱり父と母なんだろう。それはそれでなんかとてもカッコ悪いなと自分の不甲斐なさにため息をついた。


 おじさんと犬の後について四、五分ほど歩き、着いたのは古ぼけた一軒家だった。駐車場を抜けたところに三叉路があって、温泉街へと通じている道ともう一方の道は隣の県へと結ぶ国道に続いていた。その三叉路に軒を構えるその一軒家は片付け忘れたのか「氷」と黒いペンキで書かれた錆びたブリキの看板がぶらぶら揺れており、どうやら喫茶店のようだった。旅館や土産物屋が立ち並ぶ温泉街からは少し離れていて、断崖に一番近い店がその喫茶店だった。

ここは日本海沿いの温泉地で、以前家族で旅行に来たことがある。その時、宿に着いてすぐ母と兄夫婦と妹は温泉に向かったが、父は海を見に行くと言って部屋を出て行くので着いて行くことにした。いつもなら私もすぐに浴衣に着替えて温泉に向かうのだが部屋の隅に荷物をおろした時、ふと窓の外一面に広がる海に太陽の光がキラキラと弾けるように水面を踊っているのが目に入った。もっと近くでそれを見たいと思ったのだ。その宿は大きく古く、改装を重ねているので廊下が入り組んでいて外へ出る道はわかりにくい。従業員にも聞かず父と私は宿中を探検しながら歩き続け、裏口に辿り着いた。父が迷いもなくさっさと外に出て歩き始める方向を見ると、けもの道のような細い道がほんの少し草を分けた間に続いている。父はこっちだと言ってずんずん歩いていく。足もとは宿のスリッパのままだ。まるで初めから知っていたかのように迷いもなく進んでいく父の背中を追った。突堤には釣り人が数人釣り糸を垂らしていた。釣りが大好きな父は釣り人がいたら「どうですか?」と知り合いのように声を掛けながら寄っていく。私は海風に吹かれながらはるか遠くの水平線を眺めた。大きな岩壁が囲む日本海の海は、瀬戸内海や太平洋なんかの広く穏やかなイメージとは違って荒く猛々しい印象だった。ふと、高く切り立った断崖が目に入る。海面から百メートル近くありそうな、そびえたつ断崖。平らに広がる海よりも私はその断崖をしばらく眺めていた。

 

おじさんは店先で子犬のリードを外して犬小屋の方へ放り投げ、ドアを開けた。カランカランとドアについたベルが鳴り、おじさんと犬が中に入っていく。平屋一戸建ての木造でドアは深緑色に、壁はクリーム色に、屋根は赤色に塗られていた。どれも長い時間が経っているようでくすんだ色をしている。三叉路にある大きな木はその喫茶店を覆っていてたくさんの落ち葉が屋根や通りに散らばっている。クリーム色の壁には窓がふたつ。窓ガラスは曇っていて中が見えづらい。おじさんが勢いよく開けたドアから室内の暖かい空気が流れてきて私は思わず足を踏み入れた。

「座んな」

短く言っておじさんはカウンターの奥に入っていく。室内は暗く、目が慣れるまで自分がどこへ行っていいのか分からないほど間取りが掴めなかった。もそもそとさっきの子犬が私の足元に近づいてくる。私は子犬を抱き上げてカウンターに近づいた。頭上にはべっ甲色のガラスの傘をかぶった電球は暖色の光をぼんやり灯している。入口近くには黄ばんだ古いレジスターを乗せた小さな台があり、その隣からカウンターが店の奥へと伸びている。近づくとカウンターは身長一六〇センチの私の鎖骨辺りまで高さがあった。添えられているいくつかの小さな背もたれがついた丸椅子は同じく足が長い。喫茶店のカウンター席ってこんなに背の高いものだったかしら。つるつるしたカウンターに手をつき子犬を片手に抱いたまま、丸椅子によじ登る。カウンターの真上には天井から二十個ほどワイングラスが下がっていた。丸椅子に腰を落ち着け後ろを振り向くと、フロアには丸いテーブルが四つ並んでいてそれぞれに深く濁った赤色のソファが配置されている。フロアの真ん中には小さな台があり青色の少し錆びたレトロな型のかき氷機が鎮座していた。今も使っているのか飾りのつもりなのか。ところどころに深い傷があって年季と存在感を感じさせる。おじさんは店内を見回す私に対して気を配って声を掛けてくるような様子は一切無い。カウンターの中にはいろいろ床に物が落ちているようで、おじさんはガシャガシャ音を立てながら無表情でエプロンをつけ、深い鍋に水を張って火にかけた。腕の中で子犬が身をよじっているのに気付く。床へ降ろしてやるとブルっと体を震わせ、カウンターの中に入って行った。床は学校の教室のような板張りで子犬が歩くと乾いた爪音を立てた。おじさんは近づいてきた子犬に無言でごはんを与えているようだ。なんせカウンターが高くておじさんは見えど足元にいるだろう犬の姿は伸び上って覗き込まないと見えないのだ。私はおじさんがカウンターの中で動き回るのを焦点も合っていない目で眺めていた。目玉には丸一日以上外していないコンタクトレンズが乾いてへばりついている。喉は痛くて頭はぼんやり、目の前の出来事がすべて現実より三メートル先ぐらいで起こっていることのように思われてこの店内に確かに自分が存在している気がしない。

おじさんが私の目の前に水の入ったグラスを置いた。そしてくるりと背を向けてキッチンに立つ。ステンレス製で簡素な作りのキッチンは、ワンルームマンションにあるようなのが少しばかり広くなったようなもので、使い勝手は悪くはなさそうだが収納が少ない。使っていない鍋やフライパンがそこらじゅうに転がっているのだ。冷蔵庫と流しと調理スペースにコンロ台。キッチンに続いてガラス戸がついた木製の食器棚が二つ並んでいる。おじさんは沸騰した水が忙しい音を立てる鍋の中になにやら切り刻んではドボドボ入れていく。おじさんはあの断崖で遭遇したときと同じ格好だ。薄茶色のダッフルコートと元・青色といった濃い灰色にも見えるような履き古したジーンズ。ダッフルコートを腕まくりする人は初めて見たな、と思いながらおじさんの背中を見守る。入れてくれた水は常温でレモンの風味が微かにして、この豪快で混沌とした空間の中で逆に異質だった。おじさんの作る料理は美味しいのではないだろうか。そういえばここは喫茶店。きっと私は客だろう。だがオーダーを聞いてくれる様子もない。また私は居心地が悪くなり店内をきょろきょろ見回す。どのテーブルにもメニューのようなものはなかったが、フロアの壁に「スパゲッテイ」とか「エビピラフ」とか書かれた木の札が並んでいるのが目に入った。他に「チョコレートパフェ」や「ミートドリア」、「シーフードピザ」など、全部で二十程のメニューの札が掛けてある。一通り並んでいるメニューを眺めていたが、違和感を感じて思わず二度見する。木札には金額も書き添えてあるのだがすべて「五百円」と書いてある。「コーヒー」も「五百円」で「セットコーヒー」は「百円」と書かれている。なんて分かりやすい金額設定だろう。おじさんの性格が知れるようだ。あ、お金。財布を入れたバッグは車の中に置いたままだった。会社に向かおうとして私は昨日の朝いつも通りに弁当を作りスーツ姿で家を出た。そうだ弁当だ。バッグに入れたまま車の中にある。車内は日中、温度が上がって慌ただしい朝にいそいそと作った弁当はもうすでに腐りつつあるだろう。

 

 昨日の朝はいつもの出勤の風景で私は駅のホームに立っていた。通勤バッグには毎朝の習慣となった手作り弁当が入っている。就いてもう十年が経つ職場へは寝ぼけていても足が自動的に動く。契約社員で勤めてきた大手の予備校だった。何をしても続かない私が教師だった父の影響なのか教育業に勤めてみたら思うより続いて十年が経っていた。景気が良かった頃はざっくりした雇用形態の中で何度となく契約延長を繰り返して続けてきたのだが、今年度で雇用期間が終了することが昨年決まった。正社員登用の試験も受けてみたが駄目だった。父とは違い教職免許も持っていなかったが生徒と受験に一緒に向き合って道を探っていくこの仕事は私には合ったようで居心地の良さとやりがいを感じながら年月があっという間に過ぎた。いつまでもこのままで続けていけると思ってはいなかったけどそれでも私はその間、現状を無防備で続けてきただけだった。電車に乗ろうとした足が止まる。惰性のように体は動くけど考え始めた途端、足が動かなくなった。肩にかけた通勤バッグが急に重みを増してだらりと落とした腕を滑り落ちて行った。


ふわっと鼻先に漂う湯気とコンソメの香りに我に返る。背中を丸めて両手を膝の上で固く握りしめ、私はじっと目の前の木製の食器棚を眺めていた。食器棚には四角や丸、平たいものや深めのもの、いろんな形やサイズの皿やカップが並んでいた。それも同じものが整頓されて重ねられてはおらず、使用頻度の高い順に出しやすい場所に重ねられているようだ。小さな平皿の上に大きなボウル皿が載っていたりして棚に入りきらない食器は鍋やフライパン同様、棚の付近の調理台に溢れていた。食器はすべて無地の白色。そのせいか雑然と散乱はしているが積み上げられた白い塊は濃淡の緑で統一されたキッチンの壁タイルに映え、なんだか芸術作品がオブジェのごとく置かれているようにも見えてしまう。

「冷めるで」

おじさんが目の前でぼそっと言い放った。手元を見下ろすとカウンターの上には白い大きめのボウル皿が置かれている。薄黄色に濁ったスープにはパセリが散らしてあり、ほかほかと湯気が立っている。眼下に置かれているそのボウル皿から湯気が私の顔を直撃しており、強張った頬をほんわり包んだ。ボウル皿のそばには大きめの丸いスプーンが添えられている。私はじっとスープを見下ろしていた。せん切りされた野菜とピンク色のベーコンがスープの海の底に山となっているのが見えた。親しみのあるコンソメの匂いに私の腹が低い音を立てて鳴った。そうか昨日の朝からなにも食べていない。夢中であの断崖にやってきたのだ。昨日見た眼前に広がる荒い海を思い出した。波が高く寄せるたびに白波は闇夜の中でも鈍く光って目に見えた。海面から高くそびえ立つ断崖。遥か下で待ち受けている海面から潮の香りがする生ぬるい風が吹き上がってくる。今、このスープの湯気の柔らかな生ぬるさと比べると、あの冷たい場所の生ぬるさはとてもこの世のものとは思えない。思いだすだけで寒気を感じて身震いしてしまう。あんなに勢い込んであの断崖に行ったのに足がすくんでしまって動けなかった。

ドカッと音がして、再び我に返る。見るとカウンターの中に置かれた椅子に座り、私に向けて真正面からじっと視線を送るおじさんに気が付き、私は身構える。

「冷めても旨いけどさ」

またぼそっと低い声でおじさんはつぶやいた。私はおそるおそる両手をカウンターの上に乗せる。握りしめ続けていた両手を開くと爪が食い込んだ跡が見えた。右手にそっとスプーンを持つ。少しとろみのついたスープを掬うと細かくせん切りされた野菜とベーコンがスプーンに入ってくる。丸く大きなスプーンは深みがあってたくさんのスープが中に入った。スープを口に注ぎ入れる。口から喉、食道を通って胃の中へと熱が通り抜けるのを感じた。思いがけず大きく喉がごくりと鳴って思わずおじさんの方に目をやると、カウンターの中からおじさんは私の様子をまだじっと見ている。食べなきゃと焦り、スープとせん切りの野菜やベーコンをまた口に入れ確認するように噛み締める。野菜はスープの味が染み込んでいるのにシャキシャキと歯ごたえがある。生姜のせん切りも入っていて痛んだ喉を刺激した。生姜を食べていると思うだけで体が芯から温まるような気がしてくる。

「野菜、何が入っているか言うてみ」

突然ものすごく近くで声が聞こえた気がして思わず目を上げる。おじさんは組んだ腕をカウンターに乗せて顔を突き出し、私の目を正面から覗き込んでいた。

「野菜……」

ぼうぼう生えた眉毛の下で、ツヤツヤ光るおじさんの小さな目はなんだか怒っているようにも見える。私は慌ててスプーンを持ち直し、スープを口に含む。受け止めた舌でたどるように具材を触って歯に送り咀嚼する。考えながらゆっくりと飲み込み、私はおそるおそる答えた。

「生姜、と、人参、大根、カイワレ、セロリ、……セロリと……」

「セロリ、よくわかったなあ。かなり細かくしたのに」

 まだある、まだたくさん野菜は入っている。なんだろう、味を触感を頭の中に伝えながら考えるがもう野菜の名前が出てこない。

「わかりません」

「考えろ。わからんなら食べろ。そして考えろ」

 もういいやどうせただの会話の取っ掛かりだろう、そんなことを投げやりに思った私を見透かしたのだろうか、おじさんは腕を組んだ姿勢のままで畳み掛けるように言う。怖い。そういえば中学の頃入っていたバレー部のスパルタコーチに似てる気が……。私は必死でスープの中に沈んでいる野菜を凝視する。色が違う野菜はわかる。困ったのは同色で歯ごたえの違う野菜だ。もう一度スープを口に入れ、目をふらふらと泳がせて天井を仰ぎながら考える。まだまだいろんな野菜が入っていることだけはわかるのだけどそれが何か判別できない。というかこの世に他にどんな種類の野菜があったかさえも目の前でガンと構えているおじさんの前ではこれ以上思い浮かぶ気がしない。なぜ私はこんなことで詰問されているのだろう。混乱してきた私が目を白黒させていると、

「まいど!」

 高らかに声を上げて誰かがカランカランとドアベルを鳴らした。反射的に入口の方に目をやると腰をくねらせて来店してくる背が高い、ド派手な女が視界に飛び込んできた。どう派手かと言うとまず腰の位置で履いた蛍光の黄色のぴったりしたパンツ。この寒いのに薄いスポーツジムで履くような素材で裾が広がっており歩くたびにサラサラ揺れる。靴は赤いハイヒール。上半身はこれまた蛍光でピンク色のカットソーにショート丈の黒い毛皮のジャケットを羽織っている。毛皮はやけに毛が長い。真っ黒な髪の毛は頭の上でぐるぐる巻きにされてでっかいお団子になっている。緑色の太いゴムでくくられていて、よく見るとそれは弁当箱を止めるような太いゴムバンドだった。化粧も施されていないと見える顔は血色が悪いがつるんとした卵型で小さな目と鼻と口が等間隔に上から順に並んでいる。ひっ詰められた髪に吊り上げられた目でじろりと私を一瞥して持っていた煙草を一息吸い込み煙を私の方に吹きかけた。そしてゆっくりと窓際の席に向かう。床板は赤いハイヒールに蹴られるたびにコツコツと乾いた音を立て、赤い皮製のソファは女に勢いよく乗られてばふんと音を立てた。

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