【小説】ゆうちゃん

 「こうして右と左の髪を少しずつ取ってクロスさせるでしょ、ここで中央の髪も少し取って左右の毛束にさらに足して、こう。これを繰り返して編んでいくの」
「へー」
 ゆうちゃんはぼくに背を向けて上の空でそう言った。……覚える気なさそう。
「これで先まで編んでいって……、ゆうちゃん、ゴムちょうだい」
「はい」
 ふたりでベッドに腰かけている正面に大きな鏡がある。人が立ってふたり余裕に映るぐらいの大きな鏡だ。ぼくの部屋にあるのはその大きな鏡とピンクのクッションが乗ったシングルベッド、小さな丸いテーブル、そして白いクローゼット。
「これで留めて……、はいできた」
 ゆうちゃんが後頭部に手を這わせる。
「ぼこぼこしてる」と言いながら鏡を背に手鏡を持って合わせ鏡をし始めるゆうちゃん。 複雑に髪の毛が入り組んだ編み込みヘアができあがっているのが鏡に映る。
「わあ、すごい」
 目を丸くしたゆうちゃんは、口を鮒みたいにあんぐり開けてそう言った。
 ゆうちゃんは素直。そしておばかさんだから情熱的に付き合った男とセックスをたくさんしてすぐに赤ちゃんができて結婚してもらえず捨てられて誰にもいわずにひとりで病院に赤ちゃんとサヨナラしにいった。だってどうしようもなかったんだもんと僕の前で泣きじゃくった。そうなんだ、恋愛ベタでどうしようもない。
「誰でもできるよこれぐらい」
「できないよこんなの。私がやるとダンゴムシみたいになっちゃう」
「どうやったらダンゴムシになるのさ。むしろそのダンゴムシヘア見てみたいよ」
「うん今度やってあげるよ」
 ゆうちゃんは笑いながらぼくに持たされていた余ったヘアピンとヘアゴムを差し出した。受け取りながらぼくは言う。
「手先が器用なんだ。マフラーだって編めるよ指で」
「え? 編み棒とか使わずに?」
「うん。太めの毛糸でざくざく編むの。簡単だよ」
「すごいなぁ、ヒロは。私より女らしい」
「当たり前だよ。気合いが違うからね」
 得意げに口角をあげてどや顔して見せる。大きな鏡の中の自分が目に入ってぼくは自分の顔をまじまじと見詰める。ぼくが自分の顔の中で一番気に入っているのは二重で大きな目だ。小さな鼻の下の唇は薄いけどおおきな口が優しい色のグロスをのせて結ばれている。うんやっぱこの色ぼくによく似あう。気がつくと隣でゆうちゃんも一緒になって鏡の中のぼくの顔を見ている。今日のメイクのノリをチェックされているのかと思ってぼくはちょっと慌てる。
「なに? なんか変?」
「ううん。ヒロはかわいいなぁと思って」
「うん、知ってる」
 ぼくが茶化してそう言うとゆうちゃんは真正面からウケてくれて声を上げて笑う。女の子としてもとてもかわいいのにどこか大きく自信が無いところがあってゆうちゃんはいつもその落とし穴に足をすくわれている。
「あ、ゆうちゃんもう時間だよ」
「うん。あーもうやだな、仕事」
 ゆうちゃんはベッドの上で両手をバンザイして伸びをしながら大きなため息をついて嘆いた。ゆうちゃんはフリーター。最初に就職した仕事をやめてからもう三つめのバイト先だ。幼稚園のときにゆうちゃんはぼくの住むマンションの隣の部屋へ引っ越してきた。おどおどしたゆうちゃんはいつだって男の子にいじめられて泣いていた。たぶんかわいいがゆえのちょっかいだったのだろうけれど、ゆうちゃんはかわすこともできず真正面から受けとめて自分のふがいなさに泣く。ぼくはいつもそんなゆうちゃんをなぐさめた。
「もうってまだ一週間じゃない」
「うん。でもなんか雰囲気が好きじゃないの。あそこの苺ジェラートは好きなんだけどさ」
「まかないも美味しいんでしょ」
「まあね」
 ゆうちゃんは今イタリア料理のレストランでバイトしている。食べることがすきなゆうちゃんのためにぼくが探したバイト先だ。ゆうちゃんはまかないを思い出したのか行く気になってきたようだ。ベッドからのそりと立ち上がりバッグを手に取る。ぼくも立ち上がって着ている黒のワンピースのしわを直す。今日はこのワンピースでゆうちゃんを送っていこう。ゆうちゃんのスカートのしわも手で払って直してやる。

 ぼくはいわゆるトランスジェンダーだ。男の子だけど体もぜんぜん男の子なんだけど心は女の子……、のような気がするんだ。小学生に上がるときに、男の子をやめようって思った。ガサツで半ズボンで鼻たらして走りまわる同い年の男の子たちにはうんざりした。うんぼくには女の子として生きるのがしっくりきている。体は直そうとはおもわない。直すっていうかぼくのこの体は産まれてきたときにいただいたものだし、女の子でいたいとおもう心も自然ないただきものだから。ぼくは逆らわない。自然の摂理なんだ。
 今は住んでいたマンションから一駅離れたところにひとりで暮らしていてこの部屋では大好きなかわいい服を着てつるんとした顔にメイクして綺麗な女の子でいるんだ。知らない人はぼくを男だと思わない。まだ二十代に入りたてのぼくの肌は白くてきめ細やかで美しくて、ぼくの女装は完璧だから。
「行こう、ゆうちゃん。送るから」
 ぼくはヒールの低い赤い靴を履いて玄関のドアを開ける。ぼくは小柄なので靴のサイズも女性用で選べる。昼間の太陽の熱気が残る初夏の夕暮れ。今日は金曜日。自転車で駅までゆうちゃんを送っていく。それからぼくは大好きな人に会いに行くんだ。

 ぼくのアパートが紛れ込む住宅街を抜けると大きめの商店街がある。パン屋さんや和菓子屋さん、八百屋さんやクリーニング屋さん。昔ながらの店がまだ立ち並ぶ商店街だ。女の子になるずっと前から通っている駄菓子屋さんがあってぼくはそこの笛ラムネが大好きでよく買って自転車に乗りながら笛を鳴らした。ゆうちゃんは下手くそでうまく吹けない。おかしいよね笛ラムネなんて誰だって吹けそうなもんだけど、ゆうちゃんは唇でうまくラムネを挟めないんだ。すぐに横になっちゃって笛が吹けずめんどくさくなって食べちゃうんだって。不器用にも程があるよ。ぼくが上手に笛を鳴らしてたらいつもすぐにゆうちゃんが「もういっこちょうだい」って自転車の後ろから手を伸ばすんだ。おかげで大半はゆうちゃんにとられてしまう。何個入りだったかももう思い出せないけど。ひさしぶりに笛ラムネが欲しくなってきた。またあの駄菓子屋に行ってみようかな。

 自転車を駅前で停めてゆうちゃんを先に電車に乗せる。
「じゃあねぇ」浮かない顔で小さく手を振ってゆうちゃんは改札に向かう。ゆうちゃんを見届けてから駅のそばにある駐輪場に停めてぼくも改札へ向かう。ゆうちゃんはひとつ前の電車にのった。いつもギリギリの時間でゆうちゃんは重い腰を上げるんだ。
 改札からは階段を降りてホームに行く。ふんわりとホームから生暖かい風が吹いてぼくのワンピースをさらさら揺らしていく。ぼくはその風が好きでこれから電車に乗ってかわいいワンピースで颯爽と街に出る自分に酔いしれてしまう。電車がホームに入ってきていい気分で乗り込む。帰宅時間の車内には会社帰りの人や学生服が溢れていてぼくはするりとその中に紛れ込んだ。スーツ姿の男の人の横に立ってぼくも吊り革を持つ。電車が揺れるたび、その男の人の半袖のシャツから伸びた吊り革を握る浅黒い腕の筋が出たり引っ込んだりする。ちょっと肉が付きすぎだな。あの人のほっそりとした筋肉質の腕を思い出して頬が緩む。ぼくより十五センチ背が高くて余計な肉は付いてない。週末はフットサルをしているんだって。金曜の夜、あの人の仕事帰りを待ってデートをする。だから金曜日のぼくは仕事をしていても朝からそわそわして落ち付かないんだ。

 ぼくは商社に勤めている。これでも大きな会社の事務員さんなんだ。大学に進学した兄とは違って勉強嫌いで出来の悪いぼくは高校を出てからさっさと就職してしまった。ぼくは目的も無くふにゃふにゃしていると自覚しているけどそれを柔和で真面目、と良いように思われて採用してもらったんだと思う。本田さんはその会社の営業部で働いていて外回りが多くなかなか社内では会えない。本田さんはやり手の営業マンで誰よりも営業成績がいい。すらりと背が高くて薄茶色のさらさらの髪が綺麗で小顔の本田さんはテレビにでている俳優さんみたいだ。ぼくは事務室から外出する本田さんが通り過ぎるのをこっそり見送るのが好きだった。ある時、本田さんはそんなぼくの視線に気付いてしまったのか声をかけてきた。給湯室でドリップコーヒーを作っていたときだ。
「あ、コーヒー。俺にも作って」
 ぼくの横にひょこっと立ち手元を覗きこんで甘えるようにそうお願いした。ぼくは焦りながらもごもごと頷いてじゃあこれどうぞ、ぼくまた後で作るんで、と作っていたコーヒーを差し出した。
「いいの? ありがとう」
 本田さんは人懐っこく微笑んでぼくの手に少し触れながらコーヒーを受け取りその場でひとくち飲んだ。本田さんの長い指がコーヒーカップの取っ手に絡むのをうっとりしてぼくは眺めた。
「おいしい」
本田さんはそう言ってぼくの目の奥を覗き込むように見詰めた。
「戸倉くんだよね」
 微笑みをたたえたままの本田さんの口元からぼくの名前が出てきて慌てる。
「はい」
「俺は本田和哉。外回りが多いんだけど疲れたら喫茶店に逃げ込むんだ。そしてこうしてコーヒーを飲む。至福の時間だね」
ぼくはどう答えたらいいのかわからずバカみたいに神妙な顔して共感をアピールしながら頷く。
「君のコーヒーも至福の味だ。お礼に美味しいコーヒー屋さんに行こう。ご馳走するよ」
 本田さんは流れるように自然にぼくのコーヒーを褒め、誘いの言葉をぼくにくれた。ぼくはまたバカみたいに声も出せずに頷いた。きっと媚びたような上目遣いをしてしまっていたに違いない。恥ずかしい。それから本田さんはコーヒーをすっかり飲んでしまって「ごちそうさま」とぼくの手を取って広げた上にカップを乗せた。帰り外で待ってる、と本田さんは言った。笑顔はもう消えていて鋭い眼差しがぼくを射抜く。そしてまた微笑んで給湯室をでていった。本田さんの足音が消こえなくなるまでぼくの心と頭と体は硬直して動けなかった。仕事のやり取りの会話と職場を行き交う他の人の足音が聞こえてきてぼくは、全身が耳になったように本田さんの足音を追っていた。あぁどうしようこんな日が来るなんて。

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