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【中央区】築地市場跡地

ある日ある時、歩いて築地市場跡地近辺を通りすがりました。

今日はここから東京時層地図をみていきます。

築地市場は関東大震災後の昭和10年 1935年に日本橋河岸などから移転。
昭和30年 2018年に営業終了。市場は豊洲に移転。

築地については以前やったような記憶がありましたが、3年前にやっぱりやっていました。

場所の重複になりますが、前回取り上げていない部分を見ていきたい&築地大橋からの眺めもありますので、ご勘弁・・・


現代の地図

今回はここから東京時層地図をみてみます。3年前に訪れた時は警察関係者のコロナワクチン接種会場でした。今は工事をしています。

青印から月島側を向いた写真がこちら。築地市場の跡が残っていました。

東京魚類容器株式会社 昭和23年設立 現在は豊洲に移転。


築地大橋 つい最近架けられた橋で平成30年 2018年開通 シンプルでとても美しい橋です。橋からの眺めは素晴らしく、東京名所となるのではないでしょうか。

築地大橋についてはこちらのホームページに詳しく載っていました。

築地大橋からの眺め。

これから取り壊しを待つ築地市場の遺構と奥の超高層ビル群 釣りが好きになった私はここで釣りをしたいなぁとのんきに考えてしまいました。

築地大橋からの眺め 橋からの眺めはいつも素晴らしい。

隅田川と芝浦近辺のビル群と東京タワー 自分が水鳥になったかのような視界を楽しめます。素晴らしい東京の景色です。私は東京が好きなんだと奥さんに熱弁しています。


築地跡地については2023年10月の段階では2つの案があって2024年3月に方向性が決まるようです。楽しみですね。あんまり混まないところがいいな(笑)

▼1つの案では、およそ5万人を収容でき、野球やバスケットボールといったプロスポーツの公式戦を想定し、さまざまな競技の開催が可能な多機能型の屋内施設を中心に、国際会議の開催を念頭に置いたホール、築地場外市場や豊洲市場の食材を活用し、食文化を発信する施設などを整備するとしています。
▼もう1つの案では、日本のアニメやゲーム、マンガに特化したエンターテインメント施設としておよそ2万8000人を収容でき、展示会やコンサートなどの開催が可能な多目的ホールやホテルなどを整備するとしています。

https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20231031/1000098681.html

明治初期 1875年頃

築地一帯は海軍用地となっています。

この時代の築地市場跡は

兵器局製造所
旧兵器局
海軍兵学校
海軍倉庫

といったところ。

江戸時代末期の地図によると

尾張中納言義勝(徳川慶勝 尾張徳川藩主 1824年~1883年)六十一万石

松平安芸守斎粛(浅野斉粛 広島藩藩主 1817年~1868年) 四十二万石

松平越中守猷(松平定猷 桑名藩藩主 1834年~1859年) 十一万石

稲葉長門守正邦(稲葉正邦 山城淀藩藩主 1834年~1898年)十万二千石

らの大名の用地だったところを明治政府が1971年に海軍省に改修。

寛政の改革(1787年~1793年)で有名な老中の松平定信(1759年~1829年)が引退後に住んだ浴恩園(よくおんえん)があったこととしても有名のようです。

『江戸浴恩園全圖』,小沢圭 写,明治17 [1884]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9367513 (参照 2024-02-09)

明治17年(1884年)出版なので松平定信の時代とは50年の時代の差がありますが明治期の地図と符合しているように思えます。

隣の浜離宮に負けず劣らずの御庭という印象。
老中の庭なので歴史的にいえば六義園のようなものでしょう。

2021年の東京オリンピック後に遺跡調査をするという話がありましたが、今はどうなっていることやら。

地図上の青印の場所から新橋方面をみています。

なにげなく撮った築地市場跡の写真でしたが、150年前は海軍用地でこの辺りから軍艦浮かべていたのですね。

築地市場が現役だったときは見れないアングル。
この近辺も再開発でガラっと変わるでしょう。
写真って貴重なんだなぁ。
最近思う写真の貴重度は一番が人物、二番が建物、街並み。


明治末期 1910年頃

築地は

造兵廠工場
軍医学校
海軍大学校
経理学校
水交社

などがあります。

北側には農商務省 大臣官邸

橋は采女橋というようです。采女とは天皇の食事などのお世話をした女官とのことなのでそういった由来のある場所なんですね。

築地というと単純に魚市場という庶民的なイメージをもっていましたが

軍事施設、省庁、国の重要拠点であることがわかりました。

大正時代関東大震災前1920年頃

築地内部は

造兵廠工場
造兵廠
経理学校
軍医学校
東京市施療院
海軍大学校
参考館
水路部
水交社

まさに海軍の重要拠点。

南側の勝鬨一帯の埋め立ても進んだようです。

しかし、1923年の関東大震災により罹災。
海軍大学校は上大崎に移転。

近くに水路と線路がある絶好の土地でしたが、地盤の弱さがネックだったようです。

昭和初期戦前1935年頃

1935年昭和10年に日本橋魚河岸から築地に市場が移転。

今いる青印はこのころ埋め立てられたもの。

水路部は残っているようにみえます。(改描)

西本願寺の南西に有楽町からつづく都道304号 晴海通りができたのもこのころ。

地震のインパクトとその後の都市復興計画は毎度のことながらスゴイ。国力もかなりあったのだろうと思われます(毎度の事の感想ですが。)

以前、佃島渡付近をしらべたときに聖路加病院のある明石町は空襲にあっていないということでしたが、築地市場もそれほど被害にあっていない様子でした。

市場移転前の軍事拠点だったらやられていたでしょうね。
対岸の越中島は完膚なきまでにやられています。

〇 北側には新橋演舞場があります。大正14年1925年 開場

高度成長前夜1955年頃

〇 この当時の出来事としては第五福竜丸がビキニ環礁でおこなわれた核実験に巻き込まれて被ばく、その他の船も被ばく。獲ってきたマグロなどの魚も被ばくし、大変な騒動になったという事件がありました。

この事件をキッカケとしてできた映画がゴジラなんだとか。

〇 南側の月島には水産研究所となっています。昭和7年 1932 ということなので戦前からあったようです。


バブル期1990年頃

バブル期のこのころが築地市場華やかなりし頃で、1990年には取り扱い量が年間75万トンあったそうです。(2021年豊洲市場33.3万トン 3800億円 それでも世界ダントツ一位)

その後、築地再整備計画は頓挫し、2001年豊洲移転決定 2018年移転。

当時は取り扱い量が30年で半分以下になるとは想定外だったのかもしれませんね。

世界一の魚市場。なんだかんだで一番おいしい魚は豊洲に集まるんだとか。

私は釣りが好きになったことによって、魚も好きになりました。
以前は魚をさばけなかったですが、今は三枚おろしをしたいです。
今晩はなにか頭付の魚を買ってきて調理しようとおもいます。

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