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【文京区】小石川後楽園

小石川後楽園に行ってまいりました。

後楽園には遊園地、競馬、格闘技観戦などで行ったことがありますが、ここは行ったことがありませんでした。

周辺の後楽園という名称はこの小石川後楽園発祥なのだと知りました。

由来は「岳陽楼記」(1046年)の

「士はまさに天下の憂に先んじて憂い、天下の楽に後れて楽しむ」

から取っているのだそう。先憂後楽ですね。

一歩踏み入れるとなんだかどこか遠くに旅行に来たような感覚になります。人間の感覚って木が生えていて池があって草が生えていて石があったら
「あれここって自然だな」って思うようになってるのかな。

東京ドーム周辺にいくなら必ずおすすめです。

デートコースとしても非常に良いと思います。というか、400年近い歴史を持つこの地に対して、いまさらいう事じゃないんですけど・・・(78歳の義母は昔デートコースによく使っていたとのこと)


現代の地図

現代の地図

よくみかける「東京ドーム何個分」の東京ドームが東にあります。

東京ドームってわりと小さいんだなって思うんですよね。小石川後楽園はぱっとみた感じ東京ドーム2個分くらいでしょうか。

小石川後楽園は1629年に水戸徳川初代藩主の頼房が造った庭園を、息子の光圀が改修。明の朱舜水によって「後楽園」と命名して完成。園内は中国の文人が好んだ西湖や廬山もあり、中国趣向が濃い庭園。

現在残っている建造物に光圀が読んで感動したといわれる「史記」の伯夷と叔斉の像を祀っている得仁堂もあります。

伯夷と叔斉の話は

ある国の3兄弟の2人の王子が、弟に王の座を譲って国をでて、評判の良い国(周)にいこうとしたところ、その王は亡くなっており、後継ぎ王の息子(武王)は主の国(殷の紂王)を攻め滅ぼそうとしている、そこで伯夷と叔斉はそれは違うのではないかと意見するが聞き入られずに、武王は紂王を倒し新しい王朝(周)をつくる。
2人は周の食べ物なんて食えるかと山に逃れて最終的に餓死するという話。

水戸藩といえばゴリゴリの尊王攘夷で外国を参考になどしないと思っていたのですが、根底には中国(明国)趣味があったということは意外でした。

そこからは

1869年 明治2年に版籍奉還で水戸藩邸は政府に接収、東側には東京砲兵工廠ができる。庭園部分は保存。

1872年から陸軍省が管理。

1923年 大正12年 国の史跡名勝指定

1972年 都立公園無料化でマナー悪化によって有料化

というのが小石川後楽園の流れです。

個人的には「(仁人は)天下の楽しみに後れて楽しむ」というのが気に入っています。僕が超絶時代遅れなだけですが・・・

今回は写真を先にみていきたいとおもいます。

大きな池に島が浮かんでいます。

2022年6月

下の写真は1900年 明治33年出版の「日本之名勝」です。122年前。
鬼滅の刃より昔の話。

1900年
2022年

全く偶然ですがアングルがほとんど一緒でした。今度はアングルを合わせて撮りたいですね。

122年前は当然のように着物。船を浮かべていたんですね。
当時は陸軍省の管轄なので簡単に入れる場所ではなかったとの記述がありました。

藤棚の近くで記念撮影
この後ろに滝がありました。
清涼感のある滝。かつて明治後期に新宿公園に会ったと思われる滝を彷彿させます
茶室庭園画帖 大正5年
明治33年 日本之名勝
睡蓮の池 7月ごろの昼前が見頃だそうです 咲く頃に行きたいです。
屏風岩 家光が訪れた際にこの岩の近くで休んだとの逸話
目に鮮やかな緑がとても良いです。

江戸末期1860年頃 水戸徳川邸の真ん中にありし庭園がこの小石川後楽園。

1860年


明治初期

明治9~19年 1876~1886年

東側は軍事工場の砲兵工廠となったと書いてありましたが、東側どころか水戸徳川邸は庭園を残してすべて砲兵工廠になっています。その範囲は思っているより広いですね。

砲兵工廠の中に庭園がある。という感じですね。確かにこれは気軽には入れそうにない。

とすると明治33年の「日本之名勝」は意図的に作りこまれた写真ということになりますか。

明治後期

明治後期

北野神社の北にある三井邸も気になります。

三井家は11家あって小石川三井家はNHKの朝ドラ「朝がきた」のヒロイン(はるちゃん)の実家の今井家のモデル。日本女子大学の創始者としてしられています。三井家は政府に接収された水戸徳川邸の一部を払下げたという形ですね。

大正時代

大正時代関東大震災前

当時は園内にいろいろな建造物があったそうですが、それらはほとんど関東大震災で壊れてしまっています。

残っているのは件の得仁堂だけ。

得仁堂
円月橋。どこか山の中に来たような錯覚を覚えました。


昭和初期戦前

昭和初期

この時代の特徴の「白抜き改描」これも味わい深いです。逆に白抜きしちゃったらそこが重要施設だっていうことがバレバレ。

現実的には空撮されて地図を作られてから空襲されているのでもはや無意味だったのですが・・・

地図だけみると結果論ということになるから、ペリーが来航して慌てて台場をつくっても、実は黒船のほうが砲の射程が長かったり、地図を改ざんしても、空撮されて地図を作られたりしているのです。

この歴史を自分の人生に活かそうと考えた場合に考えらることは物事は自分の想定をはるかに上回るってこと。

近年でいうと、原発爆発したときに放射能を逃れて南に行くとか、コロナが流行っても人と交流を全く遮断することなんて、全く出来なかったわけだし。

前にファクトフルネスという本に、事実ベースで多くの国は良くなっているし、悪いことは確率的にほとんど起こらないから安心していい みたいな話で、いやそんなことあるかよと思ったりするけれど、いざ事が起こってもお前にはどうしようもないから。っていうある種の思考法みたいな感じがしますね。

高度成長期前夜(1955年頃)

東京オリンピック前

こうやってみると、水戸徳川邸はけっこう広かったということがわかりますね。南は神田川から北は春日通りまで東は白山通りまでという広大な敷地。

東京オリンピック前は後楽園は競輪場だったんですね。競輪場の流れが今の後楽園WINSといった競馬の博打場につながっているのかもと思いました。

バブル期

バブル期

今回は小石川後楽園を散策、素晴らしい庭園でした。ぜひまた行きたいです。一度行ったくらいでは語れませんね。(語ってしまっているけど)

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