【中野区】中野氷川神社周辺
先日、新宿の鎧神社に行った帰り道に見つけて立ち寄りました。
山手通りから一本入った場所に参道があります。
住所は中野区東中野1ー11ー1
私は以前、20代後半から6年ほど東中野に住んでいたことがあります。
落合浄水場の横を通る道と早稲田通りが交わるT字路にあるマンション。
同じ東中野内ではありますが、私の住んでいたのは5丁目で、どちらかというと高田馬場で降りてバスに乗った方が当時は行動しやすく、1丁目と5丁目の距離感は海より遠く、幹線道路以外はよくわからない・・・ということで存じ上げませんでした。
東中野を引っ越す際にはなんだか知らないけれど自然と涙が出てきたんですよね。引っ越しは10代後半から30代前半にかけてかなりしていましたが、一番おセンチになったかもしれません。
結構良かったんですよね。
さんざん引越しを繰り返して来た僕の最重要点といえば壁の厚さだったので、それもクリアしていて、ワンルームの7畳でオートロックで7万円。一人暮らしの拠点とするにはこれ以上ない住まいでした。
しかしあの時、東中野に踏みとどまっていたら結婚も出来なかっただろうし、東中野を出ることが30代前半のターニングポイントでありました。
ゴルフと日サロで日焼けしまくってたオーナーさん元気かな・・・
江戸時代の地図を1850年代後半を見たところ、
氷川神社宝仙寺持ち
と書かれて居ました。
宝仙寺は真言宗のお寺で、中野区屈指の有名なお寺。
訪れたことはありませんが、ここで知ったからには後々訪れたいと思います。
以前、中野長者伝説で取り上げた成願寺とほど近い場所にあります。
住宅っぽいものがほとんどないです。
下に流れているのは神田川に流れ込む川で、一本は桃園川と思われます。
高円寺を訪れた際に暗渠になっているのを確認できました。現在も桃園緑道として存在します。
明治後期には現在の中央線である当時の甲武鉄道が開通しています。
東中野近辺には甲武鉄道の重役さんが居を構えていたというのも、新宿区の鎧神社編で発見しました。
それ以外は何もなく、川に沿って田んぼがあったことがわかるくらいです。
1477年に太田道灌が社殿を造営したということで、地形的にも台地になって居ますから、古くは湿地帯を見渡す小高い丘だったのではないでしょうか。
Wikipediaによるとこの辺りは明治以降から戦前にかけて旧日本軍の高級将校が住んでいたため軍人町と呼ばれていたそうです。
明治後期の段階ではこの近辺に家々は見当たりませんが、大正時代に入り、北側には通り抜けできない行き止まりの道路が結構あるので、そういった家々に将校が住んでいたのかもしれません。
軍人町とはいっても軍人宅の家の表記がないじゃんよと思ってしまいましたが、名前付きで邸宅を持っている軍人はそもそも明治政府成立時の要人が多かったので、世代的にちょっと下の世代、明治生まれの将校達が住んでいたのでしょう。
関東大震災後の都市計画で街は一変。
田んぼは潰して住宅が建ち、川は整備され、道路、学校もできます。
関東大震災から数年でこうなっているのですから、担当者だった後藤新平の熱意もさることながら、100年前の日本の国力自体はかなりあったのではないかと推測できます。
ここも復興計画の全体像から見たらほんの一部分に過ぎませんが、それでもこの変わりっぷりには毎回唖然。
南に塔ノ山町という表記が現れました。
現代の地図を見るとこのあたりでも謎の塔山推しが見られます。
塔山小学校、塔山医院、塔の山公園、果ては塔山の石棒さま
昭和に入ってからの新興地名をここまで推す理由はなぜか
と、塔山というのはもともと宝仙寺にあった三重塔の仏塔のことを指すようでこれが江戸六塔と呼ばれたんだとか。
空襲で塔乃町のシンボル、宝仙寺3重塔は焼失。
現在の地図上でやたらと目に入ってくる「塔の山の石棒様」
私は知ってるからね石棒が何を意味するかを。
と思いながら検索してみると
庚申塔(江戸時代に流行した民間信仰。60日に一度、眠らない日を作る。最初は猿の石像、のちに青面金剛像、のちに庚申という文字だけ)が空襲によってバラバラになった際に、地元の人々が破片を拾い集めてくっつけた戦争遺跡だったのでした。
こちらも後ほどお参りして写真アップしたいと思います。
山手通りの原案は関東大震災後、そして戦後に現在の山手通りの形となったようです。
1860年4月!!!桜田門外の変 井伊直弼暗殺の翌月!!!これはすごい!!!当時は大変な騒動だったかそれとも庶民には全く知らない話だったかどうか。ほど近い現在の山手通りと甲州街道の交差点にあるNTTにあった井伊家下屋敷ではどんな騒動だったか。空想の域を出ませんが大変な騒動とざわつきだったことでしょう。
ブラリと立ち寄った氷川神社。
御朱印はコロナ禍によって受け付けて居ないとのことで、お参りのみとなりました。山手通りの喧騒とはうって変わってピーンと神聖な雰囲気。
周辺より少し小高い位置にある神社はかつては縄文人の聖地であり、ときを流れて現代人の聖地としても存在しているという中沢新一アースダイバー説をなんとなく受け入れてしまえるような場所でした。
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