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【世田谷区】和田堀給水所

通りすがりで和田堀給水所を見てきました。

古い設備の解体工事中ですので遠巻きでしか見られない状態です。

京王線に乗ると古い設備が目を引く場所であります。設備は一見するとローマの円形闘技場のような感じ。南側は土手に囲まれています。

現代の地図

東西に甲州街道がはしり、代田橋の駅があり。
という感じです。
思ったよりも和田堀浄水場の敷地は広い様子が見てとれます。
敷地面積54,500 m²と東京ドーム46,755m²を上回ります。

明治初期

○ 北が玉川上水。

玉川上水は江戸時代前期1653年開通。
江戸時代からの先人が切り開いた文化遺産というべき場所です。

○ 代田橋付近で甲州街道が玉川上水をまたいでいたんですね。これは発見。

明治後期

○ 甲州街道から玉川上水をまたぐ橋、これが代田橋というわけか。
これが現在の代田橋の由来。代田橋の写真は見つけられませんでした。
そしてその代田は超巨人のダイダラボッチに由来するとのこと。

○ 江戸時代の地図をみると周辺は代田村になっているのですが
この時代は松澤村ですね。


○ 羽根木で玉川上水は分岐して、1898年 明治31年 現在の都庁のところにあった淀橋浄水場に水が運ばれます。現在の水道道路となっている場所です。

大正時代

○ 和田堀浄水池ができます。
大正2年 1913年着工
この地図の頃は1923年 大正12年に和田堀浄水池として完成したときのものでしょう。

○ 京王線は大正2年開業 和田堀浄水池は京王線にあわせて作られたように感じます。

昭和初期

○ 関東大震災後の住宅の増加がスゴイ。
関東大震災のみならず、人口も増加傾向だったことが人口統計を眺めていたらわかりました。
日本は戦後奇跡の復興といわれていますが、その下地のパワーはすでにできているのだなと感じています。
戦争突入に入っていったのも、欧米から追い詰められてというイメージをもっていましたが、地図と人口統計でみると国力高まり満を持してという感じもします。


○ 戦前の地図は重要インフラの部分も白抜き改描。


○ 西側には扶桑教という富士山信仰の神道系の宗教団体があります。都内にある富士塚とのつながりも深いのだとか。

○ 戦前から淀橋浄水場の機能を東村山に移転する話はあったようですが、戦局悪化により頓挫ということから、この時代も水道道路には水が通っていたと思われます。地震で破損したため道路にしたという記述もありましたが、昭和11年頃の航空写真だとまだ水が通っていた様子がありました。

戦後高度成長前夜1955年頃

○ 丸い形の和田堀給水場1号は1934年 昭和9年 竣工
戦時中の地図では重要施設だったので白抜きでした。

○ 北西に光生学園というのがあります。
1941(昭15)年 創立
1963(昭38)年 廃校  日本大学鶴ヶ丘高等学校に吸収

○ 戦後の1945年 昭和20~25年頃の航空写真をみると水道道路はすでになくなっていました。

バブル期

○ 北西に和泉水圧調整所ができます。
○ 首都高が通ったり環七が開通したりと、高度成長前夜からの開発著しいです。

工事中の施設


建築計画 標識設置が平成27年ですから2015年か もう9年前になるんですね。事故なく工事が完了しますように。

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