【墨田区】両国橋近辺
まだまだ隅田川釣り歩きは続きます。釣果はゼロです。
いつ釣れるかはお立合い(笑)
今回は両国橋です。
名前の由来はここを境に武蔵国と下総国が分かれていたからだとか。
それでは行ってみましょう
現在の地図
今回は両国橋の東の橋より東京時層地図を始めてみたいとおもいます。
東側にちょっとした広場のようなものがあります。広場の雰囲気はただの空き地という感じです。公衆トイレの個室の鍵が壊れているのがネック。人が入って来ちゃうよ。
広場付近に構造物がありましたので写真にとりました。
軽く解説致します。
この広場からほど近くに立て看板がありましたのでそれも軽く解説します。
明治初期
○ 両国橋は現在地と違いますがこの時代にも存在します。 明治8年 1875年 に木製の橋に
○ 北に藤堂邸、川を隔てた北には徳川邸があります。これらは旧大名の明治維新後の移動とおもいきや、藤堂邸に関しては江戸時代も伊勢津藩 藤堂和泉守高猷 とありますので、そのまま住んでいたようです。
○ そして、藤代町の川沿いの点々。これが百本杭か!!!まさに案内板の通り。
○ 西には回向院があって、両国橋のたもとが盛り場で、北は大名屋敷、この辺り、陰と陽が混じっている感じがしますね。
場の空気感が妙に感じることがあるけれど、そういう場所なんだろうなぁ
○ 回向院の始まりは明暦3年1657年 明暦の大火の死者10万人を弔うために幕命で作られたのが始まり。
明治後期
○ 両国橋は木橋が架けられていましたが、明治30年 1897年の花火大会で崩落 当時の新聞です。
橋の上で玉屋鍵屋とやっていると橋の西側から欄干が破れて200名あまりがが水中に落ち、死傷者数十名とのこと。これによって両国橋は鉄橋に架け替えられます。
○ 明治後期にはかなり開発が進んだようです。大名屋敷もなくなりました。
○ 両国橋の東に碑があります。この当時には忠魂碑は建てられていたものとおもいます。この辺りで変わっていないのはこの忠魂碑だけかもしれませんね。地震と空襲でほとんど焼けてしまっている地域なので。
○ 東側には回向院があって、国技館があります。
土俵上で力士が四股を踏んで、四股は地の邪悪な霊を鎮めるという意味合いがあるのは、回向院と関係しているのかもと思いました。
回向院で江戸時代後期から相撲が定期的に始まって、明治42年に旧両国国技館ができたということか。いかにもな明治建築が素敵。
こちらは現在の回向院 両国降りて両国橋に向かうところで、ブワッと鳥肌がたったので回りをみてみたら回向院でした。
スピな感じですみません個人の感想です。
大正時代 関東大震災前
明治後期にかけて激変した周辺ですが、明治後期からこの時代にかけては地図上ではあまり変化がみられないように見えます。
昭和初期戦前
○ 両国橋は関東大震災を乗り切りましたが、周りの開発と合わせて架け替え。 昭和7年竣工
○ 両国橋の北に総武線の橋ができています。この電車専用の橋は
隅田川橋梁 昭和7年竣工
戦後1955年頃
○ 忠魂碑の南には昭和初期から工場がありましたが、現在は駐車場になっています。
○ 隅田川は現在のようなテラスではなく、防潮堤だった様子がみてとれます。隅田川にテラスが当たり前にある現在からみると防潮堤はイケてないですね。現在は素晴らしいです。
バブル期 1990年頃
○ 両国橋の南に、首都高速がはしり、両国ジャンクションと呼ばれています。1971年供用開始。
今回も学びのある釣行?いや、東京時層地図でした。
隅田川沿い最高です。
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