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【墨田区】両国橋近辺

まだまだ隅田川釣り歩きは続きます。釣果はゼロです。
いつ釣れるかはお立合い(笑)
今回は両国橋です。
名前の由来はここを境に武蔵国と下総国が分かれていたからだとか。

それでは行ってみましょう


現在の地図

今回は両国橋の東の橋より東京時層地図を始めてみたいとおもいます。

東側にちょっとした広場のようなものがあります。広場の雰囲気はただの空き地という感じです。公衆トイレの個室の鍵が壊れているのがネック。人が入って来ちゃうよ。

広場付近に構造物がありましたので写真にとりました。

軽く解説致します。

狂歌絵本 両国両岸一覧の一枚 手前が当時江戸屈指の盛り場の両国広小路 絵と地図を照らし合わせると、この対岸の両国広小路の様子です。両国広小路には西と東があって、西のほうが5倍くらい大きくみえます。
表忠碑 元帥公爵 大山巌 書 と彫られた巨大なスレート 日露戦争の慰霊塔。東京時層地図では大山巌さんはおなじみの存在。田安門の大山巌像に始まり、表参道の大山邸跡、大山は薩摩出身ですが奥さんは会津の山川捨松(岩倉使節団で海外留学、津田梅子の親友)、息子の柏さんは貴族院議員だったのに、史学を研究していたせいか戦地に送られるなど、なかなかドラマチック。
広場の全体像はこんな感じです。左側の石碑には 日の恩(おん)や たちまち砕(くだ)く 厚氷(あつごおり)と彫られています。こちらは赤穂浪士の大高源吾の作った歌と伝えられています。赤穂浪士は両国にあった吉良邸に討ち入り、打ち取った吉良上野介の首を掲げて両国橋を渡ったのだとか。
両国近辺の隅田川は流れがきつかったのでそれを和らげるために杭が打ち込まれていて、100本杭と呼ばれたとのこと。明治17年1887年の地図には両国橋北側に細かく点が刻まれて、それが杭を表しているとのこと。ここで鯉を釣る人は非常に多かったということが書かれています。
石の字が薄くなっていますが、昭和59年の石碑で現在の橋は昭和7年1932年に完成したということが読み取れました。その他は両国橋の歴史が書かれています。

この広場からほど近くに立て看板がありましたのでそれも軽く解説します。

右側 片葉の葦 駒留橋に生える橋は同じ方向にしか葉がでないので、片葉の葦と呼ばれ、その由来は本所横網町に住んでいた男が、女の子に惚れますが、相手にしてもらえなかったので、殺害して、片手片足を切り落として駒留橋の堀に投げ捨て、そこから片葉の葦が生えるようになったとのこと。逸話が怖すぎ。
真ん中 藤代町跡 かつてのこの近辺の町名 享保年間に紀伊生まれの毛利藤左衛門が西葛西猿江を自費で開発し、毛利新田とよばれましたが、幕府にめしあげられ、代わりにこの地域を与えられたとのこと。藤左衛門が代わりに与えられたから藤代町 そういえば西葛西のほうに毛利新田ってあったなぁ
左側 駒留橋跡 駒留橋付近は盛り場付近にありながらも、人通り少なく寂しい場所だったので夜鷹が人の袖を引いていたとのこと。 駒留橋っていうのは地図でいうとまさにこの辺りの場所。


明治初期 

○ 両国橋は現在地と違いますがこの時代にも存在します。 明治8年 1875年 に木製の橋に

○ 北に藤堂邸、川を隔てた北には徳川邸があります。これらは旧大名の明治維新後の移動とおもいきや、藤堂邸に関しては江戸時代も伊勢津藩 藤堂和泉守高猷 とありますので、そのまま住んでいたようです。

○ そして、藤代町の川沿いの点々。これが百本杭か!!!まさに案内板の通り。

○ 西には回向院があって、両国橋のたもとが盛り場で、北は大名屋敷、この辺り、陰と陽が混じっている感じがしますね。
場の空気感が妙に感じることがあるけれど、そういう場所なんだろうなぁ

○ 回向院の始まりは明暦3年1657年 明暦の大火の死者10万人を弔うために幕命で作られたのが始まり。 

明治後期

○ 両国橋は木橋が架けられていましたが、明治30年 1897年の花火大会で崩落 当時の新聞です。

新聞集成明治編年史編纂会 編『新聞集成明治編年史』第十卷,林泉社,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1920411 (参照 2024-03-28)

橋の上で玉屋鍵屋とやっていると橋の西側から欄干が破れて200名あまりがが水中に落ち、死傷者数十名とのこと。これによって両国橋は鉄橋に架け替えられます。


○ 明治後期にはかなり開発が進んだようです。大名屋敷もなくなりました。

○ 両国橋の東に碑があります。この当時には忠魂碑は建てられていたものとおもいます。この辺りで変わっていないのはこの忠魂碑だけかもしれませんね。地震と空襲でほとんど焼けてしまっている地域なので。

○ 東側には回向院があって、国技館があります。
土俵上で力士が四股を踏んで、四股は地の邪悪な霊を鎮めるという意味合いがあるのは、回向院と関係しているのかもと思いました。

日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。
やがて天保四年(1833)より当院は春秋二回の興行の定場所となり、明治四十二年の旧両国国技館が完成するまでの七十六年間、「回向院相撲の時代」が続いたのです。

回向院のホームページより

回向院で江戸時代後期から相撲が定期的に始まって、明治42年に旧両国国技館ができたということか。いかにもな明治建築が素敵。

明治42年 旧両国国技館 

こちらは現在の回向院 両国降りて両国橋に向かうところで、ブワッと鳥肌がたったので回りをみてみたら回向院でした。
スピな感じですみません個人の感想です。

こちらが山門となっています。
明暦3年1657年 振袖火事による死者10万8千人、1855年 安政大地震2万5千人、1923年 関東大震災 10万人分骨 生あるものすべて、ありとあらゆる生命が埋葬されています。おもわず背筋が伸びます。
回向院がもつ重厚な歴史とは裏腹にポップな看板です。こういったところにも回向院の懐の広さがうかがえます。機会を見つけて行ってみたいです。

大正時代 関東大震災前

明治後期にかけて激変した周辺ですが、明治後期からこの時代にかけては地図上ではあまり変化がみられないように見えます。

昭和初期戦前

○ 両国橋は関東大震災を乗り切りましたが、周りの開発と合わせて架け替え。 昭和7年竣工

○ 両国橋の北に総武線の橋ができています。この電車専用の橋は
隅田川橋梁 昭和7年竣工


戦後1955年頃

○ 忠魂碑の南には昭和初期から工場がありましたが、現在は駐車場になっています。

○ 隅田川は現在のようなテラスではなく、防潮堤だった様子がみてとれます。隅田川にテラスが当たり前にある現在からみると防潮堤はイケてないですね。現在は素晴らしいです。

バブル期 1990年頃

○ 両国橋の南に、首都高速がはしり、両国ジャンクションと呼ばれています。1971年供用開始。

両国ジャンクション下 

今回も学びのある釣行?いや、東京時層地図でした。

隅田川沿い最高です。

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