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【千代田区】赤坂見附(赤坂御門跡)

赤坂見附にいってきました。

江戸城36見附の一つで、見附とは枡形門で櫓があって番兵が見張っている場所です。

敵が直進して入れないようになっている仕組みになっています。現存する形だと桜田門が分かりやすいです。

現在の写真 門の土台の部分が残されています。

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明治期取り壊し前の写真 向かって左側の石垣が現存しています。門は高麗門、右側には矢倉があったはずです。

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木で見難いですが、上の写真のこのあたりの距離だとおもいます。いいですね。

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幕末・明治・大正回顧八十年史(昭和10年)

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これは絵ですが向かって右側に櫓が建っていたことがわかります。


こちら側の石垣は後年復旧されたものだと説明書きがありました。

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こちら弁慶濠側の石垣は江戸時代のまま残っている様子です。いいですね。

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現在の地図です。

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北は複合商業施設である東京ガーデンテラス紀尾井町、西武グループの所有。南は衆参議院議長公邸という場所。


アプリの大江戸今昔巡りで江戸時代末期からみてみましょう(1860年以前)

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赤坂御門の北側にあるのは

紀伊和歌山藩 紀伊中将慶福(第14代将軍 徳川家茂

徳川家茂は脚気による心不全で21歳で早逝、甘いもの好きでほとんど虫歯だったことがお墓の発掘でわかっています。正室の和宮仁考天皇の娘です。

後にこの場所に住むことになる北白川宮能久親王仁考天皇猶子(ゆうし、実の子ではないが親子関係がある)となっていて、なんらかの繋がりを感じます。

南側にあるのは

出雲松江藩 松平出羽守定安

赤坂御門は大山道の到達点で、防衛の拠点なので御三家の紀伊徳川を配置、出雲松江藩も松平の名前がついているので、かなりの譜代大名なのだろうと辿ってみたところ

初代の松平直政の父は結城秀康徳川家康の次男でした。

松平といっても名前をもらって名乗っているだけの毛利や鍋島とはちがい、いわば家康の血縁者一族で赤坂御門を守っていたことがわかります。

それだけ重要な拠点だったのですね。


明治文明開化時期 明治9~19年

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徳川家茂邸は皇族の北白川宮邸になりました。建物は江戸時代の徳川邸ものが残っているとおもわれます。(建て替えの時期が微妙かも)

前述しましたが、旧紀伊徳川徳川家茂邸であり、正室の和宮は仁考天皇の子で、北白川宮能久親王は仁考天皇の猶子となっているので、現実のつながりはわかりませんが、実質的にはきょうだいで所有していたことになります。

南側の松平邸は宮内省用地となりました。

明治7年 北白川宮能久親王 ベルリンにて 29歳くらいの時 イケメンですね 

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この留学時にドイツ人夫人と結婚、政府に認められず帰国し婚約破棄。正室側室妾さん合わせて5人で10人の子女 長男の竹田宮恒久王は現在元皇族で一番露出度が高い竹田家の祖。北白川家は2018年に男系は断絶しています。


明治後期

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明治17年に洋館を中心とする邸宅が築かれ、設計はジョサイア・コンドル。明治政府のお抱え技師です。前回の岩崎邸もコンドル設計。

宮内省用地は閑院宮邸へ 当主の閑院宮載仁親王は復籍した皇族で皇族貴族議員として54年の長期間在籍(活動実態はなし)1945年の山手空襲で屋敷は全焼。閑院宮家は子息の春仁王(純仁)が1988年になくなり断家しています。

明治22年に弁慶橋も復旧。日本之名勝 明33.12

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他には外堀が埋めたてられ外堀通りができ、都電が走っています。ものすごい環境の変化ですね。現地民だったら困惑する変化です。

こうやって地図をみると、自動車ができるよりも先に都電が走っていたんですね。

関東大震災前

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昭和10年 戦前

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白抜き改描されています。

大東京寫眞帖(昭和10年頃)赤坂見附から弁慶橋がみえます。

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明治後期とそれほど変わっていません。

こちらは現在の弁慶橋と弁慶濠 この写真の比較もいいですね。

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戦後、高度成長期前夜1960年頃

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1952年に現在の西武グループが土地取得し、1955年10月1日 赤坂プリンスホテルができます。現在も西武グループが土地を持っています。

西武グループの創始者は堤康次郎

数々の逸話を残す昭和のドンですね。

ウィキペディアによると

関東大震災には焼野原になった他人の土地に「堤康次郎の土地」と書いた杭を立てて回って訴訟が起こればお抱え弁護士が書類をみせろといい、強引なやり方に日本刀で襲撃してきた暴漢にピストルで応戦したためついたあだ名がピストル堤だったりと、

女性関係は華族からお手伝いさんまで手をつけて、子供は100人あまり、葬儀の際には堤康次郎そっくりな子供をつれた女性が行列をつくっていたり。

さすがにもりすぎだとおもいますが、混乱期には生き物として強い人が、ひときわ強いですね。

バブル期1980年後半

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旧閑院宮邸跡には衆議院議長公邸、参議院議長公邸ができました。


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赤坂御門は黒田長政の子、黒田忠之が1636年が石垣をつくりました。外様の大名に普請させるというのは力をそぐという意味合いもあったというのが通説です。この時の黒田藩は43万石という大きな藩。

石垣を作る前には黒田騒動といわれるお家騒動がおこっています。忠行は1637年に島原の乱に出陣していますので、お家騒動に御門普請に戦にと大変です。

石垣には文字がきざまれていました。

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赤坂方面をみた図

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個人の時代だとは言われていますが、個人に権力が集中している時代から、集団の時代になっているのだなと感じました。


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