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【港区】高橋是清公園の謎

新国立美術館前と六本木ミッドタウンを結ぶ道。

距離的には150mほどなのですが、やけに立派な道路です。車通りもないのに、この道路の大きさは不自然とも言えます。

(道路から六本木ミッドタウンを見る)

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(同じ場所から新国立美術館方向をみる。奥に映っているのは政策研究大学院大学)

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広い。そして短い道路。

この場所から東京時層地図をポチリと。

(1916-21年 大正5-10年)

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この道路は(六本木ミッドタウン)歩兵第一連隊と(新国立美術館)歩兵第三連隊をつなぐ道路だったんですね。道路は軍事的な重要性を持っていたんです。

(ここまでやっておいてなんですが、226事件の記事で書いていたことを忘れてました・・・

歩一連隊と歩三連隊といえば、1936年(昭和11年)2月26日に起こった226事件の主な主導者が所属していた所です。

226事件の被害者となった当時の大蔵大臣、高橋是清。

軍部への財政縮小で恨まれていたと言われています。

総理大臣の岡田啓介も襲撃されますが、人違いによって難を逃れています。元総理の斎藤実、陸軍大将の渡辺錠太郎も殺害されています。まさに昭和史に残るクーデター事件であり、これによって軍国主義へと進んでいくきっかけとなったと言われています。

さて今日はここからが本題。

この歩一連隊から髙橋是清邸までの距離は1・3kmで徒歩で15分ほどあれば到着。

髙橋是清邸跡をみてみましょう。現在は公園になっています。この碑は昭和13年に東京市に寄付され、高橋是清を追慕するために公開しているということが書いてあります。

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昭和初期(昭和3-11年 1928-1936年)の地図。

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青印が今いる場所で、高橋是清邸跡です。今でいうところの青山通り沿いで北側が赤坂御所になります。

高橋是清邸は邸宅があったと思われる場所は滑り台と砂場が設置されていました。

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公園を囲む壁はかなりの年代物です。

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石積みの壁とコンクリの壁の間。当時からあるもののようにも見えますがどうでしょうか。

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高橋是清の銅像。戦中撤去されていましたが戦後に復活。

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戦中に撤去されて戦後復活する銅像ってなかなかないです。芝公園の小菅銅像、大隈銅像は戦中に金属供出して、その後復活はありせん。

当時はそのせめぎ合いもあったんでしょうね

「お国の為だ、銅像を弾丸にして敵をうちやぶる。銅像をだせ。」

「いや まかりならん高橋是清はそもそもお国のために生きた人だ」

等々。


この公園で不思議なのは、李王朝9代大王成宗の後宮である淑容沈(スクヨンシム)氏の墓碑がこの場所にあったこと。

没年が1515年なので、日本でいうと戦国時代の真っただ中。一体どういう理由でここにあるのか?経緯は不詳と書かれています。

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よくよく見ると庭にある何体かの石像も朝鮮半島風なんですよね。

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わざわざ墓碑を持ってくるということは、赤の他人では考えにくい、なにか縁のある人が祀り、その守護として石像を置いたのかもしれません。

しかし、違和感があります。なぜ淑容沈の墓標があるのか。いつ誰が何のために持ってきたのか。

江戸時代末期1860年ごろの地図も見てみました。(アプリ大江戸今昔巡り)

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住んでいたのは5千500石の御小姓、青山幸敬 と書かれています。

周辺には青山という地名の通り青山一族が軒を連ねており、青山幸敬氏もその1人だったのでしょう。

ちなみに5500石は、1石は150kgですから、お金に換算すると計算がややこしくなりますが、私の場合5kg 1800円のお米を買っていますから、1石だと5万4000円。

それで計算するとザックリと年収3億くらいですね。

当時が5kg1800円かどうかはわかりませんし、今よりもお米はもっと主食だったから安かったと思われます。

半分としても年収1億は下らないお金持ちなわけです。

小姓は当時のエリート階級ですね。ちなみにこの青山さんは、他はさらに大きい大名の本家と分家があります。

莫大な資金を背景に、青山氏が何らかの方法で墓標を持ってきたのか。

さらには明治後期の写真をみてみると、226事件時と建物が変わらないです。南は青山邸です。

(明治39-42年 1906-09年)

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この1905年当時は髙橋是清は日銀副総裁だったので、当時からここに住んでいたことも十分に考えられます。

李氏朝鮮時代は1897年に終わり、1910年(明治43年)に韓国併合になっているので、その辺りの出来事なのかもしれません。

後に日銀総裁となる高橋はなんらかの方法で手に入れた墓標を庭においたのか。

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(ニコニコ写真館・日銀総裁時写真 小さいときアメリカで奴隷に売られたのに今は中央銀行総裁とあります。んなわけあるか笑 と思ったら本当でした・・・。)

しかし、冷静に考えると庭に墓標は置かないと思います。

血縁者ならともかく、1515年の何のゆかりもない人のお墓を庭におきますかね。庶民感覚だと置かないですね。

となると青山氏、高橋氏、次にこの土地の所有者となった東京市の線。

当時の歴史的背景からするとありそうな気もしますが、仮に東京市が設置したとなると、記録は残っているとは思うのでこれは微妙。

となると、戦後のどさくさで何処かから持ってこられて祀りあげられたもの・・・戦後のどさくさっていうのはこれもありそうな気もしますけど、空想の域を出ません。

そして返還されたのが墓標だけで石像の方はそのままとなると、石像は後付けなのか。

韓国側で「壬辰倭乱の時に持ち去られた」という記述を発見しました。

これは文禄慶長の役(1592~98年くらい)の事のようです。

青山氏は徳川家康の家臣から始まっていて、徳川家康は海を渡っていませんので、徳川家康臣下の青山氏が持ってきたとは考えにくい。

1590年代後半に、朝鮮半島に渡ったいずれかの大名が墓碑を持ち帰り、それが徳川家康にわたり、そこから青山氏にわたり、祀られていたと考えました。

主君からの承りものであれば間違いなく大切にするでしょうね。


******5/6追記****


壬辰倭乱というと日本では文禄の役(1592年)にあたります。

淑容沈墓碑のあった場所と、朝鮮半島に渡った大名を照らし合わせてどの大名が持ち帰ったか想定します。

墓碑は韓国側の新聞によるとソウル近郊の高陽郡津寛里というところにあったそうです。 

ググったところ高陽郡津寛里は見つからなかったですが、ソウルの西の京畿道高陽市の事でしょう。

ここからはWikipediaでの武将の進路なのですが

ソウル(漢城)に入城した大名は

小西行長
加藤清正
黒田長政
毛利吉成
福島正則
小早川隆景
毛利輝元
宇喜多秀家

その中で京畿道への侵攻をすることになったのは宇喜多秀家。となると宇喜多秀家が持ち帰ってきたと考えました。

豊臣政権末期には家康とならぶ五大老となる宇喜多秀家ですが、年齢は家康よりも30歳ほど若く、のちに関ケ原の戦いで戦うことになりますが、そもそも年齢が違いすぎるために当時はライバルのような関係ではなかったのではないかと思います。手土産的な感じで五大老の有力者家康に贈ったのではないかと。

墓碑だけでも1トンになる大荷物なので、書類等の記録は残っているのと考えるのが普通ですが、宇喜多家は関ケ原の戦いに敗れて改易、そして逃げのび、落ち武者狩りに逆に匿われ、薩摩の島津に匿われ、前田利家の力で死罪をまぬかれ、八丈島に流刑。長命で84歳没。ものすごい人生を送っています。興味が湧きました。

宇喜多側に書類は残っていなくて当然で、徳川側の書類等は残っていなくても不思議はないでしょう。

さて、運搬方法です。墓碑だけで1トン、石像等の付属物を考えるととてつもない重さになります。

江戸のおもな輸送手段は水路だったことを考えると、どこか近くに水路があってもおかしくないかも。

ありました 笑 江戸の水路恐るべし。

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以上、スクヨンシム墓碑は 宇喜多秀家→徳川家康→家康家臣団の青山氏→高橋是清と400年にわたって流転を続けたという仮説です。


***追記***

5500石は年収に換算すると

1石20万~25万円とすると五公五民で年収6~7億円くらいのようです。庶民とは歴然の違いがありますね。


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