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【江東区】富岡八幡、深川不動堂、永代寺

深川不動の護摩見学に行ってまいりました。

前回はこちら

そして護摩の時間まで時間があるので、公園を散策し富岡八幡にいきました。

前回の調べで明治維新までは永代寺がこのあたり一帯の大地主であり、門前も永代寺門前ということがわかりました。

それに永代寺に付属する形で富ヶ岡八幡がありましたが、実質は富岡八幡が江戸時代から江戸一の八幡宮と有名だったようです。神社のお庭も有名で絵になっています。

深川八幡山開き 安藤広重

この深川八幡山開きの様子を東京時層地図でみますと、一番高い山が富士塚(深川富士)として、池との位置関係、奥に描かれている建物からすると、現在の不動堂の境内から神社を東に見た時の図のようです。

東京時層地図 明治後期 明治39~42年 深川不動堂で撮りました

明治維新後に廃仏毀釈で、永代寺は廃寺。お寺かわいそうと思いきや、永代寺住職が富岡八幡宮司となるというウルトラC的な出来事があったようです。
其角せんべい様のサイトより
https://www.kikaku-sembei.co.jp/2018/07/24/fukagawanosusume-15/

裏技的な感じがするけれど、このあたりの話、近所の神社の別当寺だったお寺に伺ってみたい話ではあります。大体の寺は廃仏毀釈で衰退っていう感じなんですが、そうではない場合もあると。

もっとも永代寺よりも富岡八幡のほうが有名だったようで

国会図書館デジタルで調べると深川八幡(富岡八幡)関連が山ほど出てきます。伊能忠敬碑やお相撲さん関連のものもあるんだとか。

もっと回って写真を撮るべきだったのですが、この時は深川不動堂の護摩行をみたいというのがメインだったので気が回らなかったです。
これまた次回への宿題ですね。

御朱印をいただきました。七五三が数組お参りにみえていました
丸いのは力石でしょう。東京都無形文化財 力持碑 と書かれた碑があります。昭和31年に指定
江戸の民俗芸能として現在も受け継がれているようで、米俵を片手でさしあげたり色々な芸があるようです。練習が大変そうです。力石はいままでみた新宿成子天神の力石や、港区芝大神宮の力石と関係があるのかないのか、これも次回の宿題です。
こちらには末社が6社 位置的には末社の裏側あたりに深川富士があったようです。
傍らの公園で遊びました。ここも深川公園のようです。
園女歌仙桜之碑 松尾芭蕉の門下、渡会園女(わたらいそのめ)が36歌仙になぞらえて富岡八幡に植えた桜の記念碑。桜自体は関東大震災で焼失、その復興のために寄付をあつめて渋沢栄一に揮毫を依頼して昭和6年に造られたもの。なるほどたしかに江戸時代末期の地図には桜の名所的な書かれ方している。こちらも史蹟と呼べるようなものがぽつんと公園にあるというのは、歴史を感じますね。さすがは都内2番目に出来た公園。


さて、時間になりましたので深川不動堂へ。

本来はここの護摩を見学しにきたのでした。

深川不動堂は成田山新勝寺の東京別院。

成田山新勝寺といえば有名なのは939年の平将門の乱、平将門調伏のために成田山で不動明王像を祀り、護摩を行ったというもの。

もともと永代寺にあったわけではなく、明治14年 (1881年)にこの地に出来たとのこと。

といっても全く無関係であったわけではなく
江戸時代の地図上の永代寺の名前は

大栄山金剛神院 永代寺 で、真言宗
深川不動堂も 真言宗

で同じ宗派。

ここからは脱線ですが

深川不動堂は成田山の東京別院ということで、東京における反将門の急先鋒の寺院といえるでしょう。

僕もそろそろ親将門か反将門かをはっきりしなければいけない時期かもしれません。

平将門を祀る神田明神の宮司さんが著書で

「両方の神社寺院をお参りいただいても全く問題ありません」

とおっしゃっていても、うーんどうですかね。神様ですからね。

地縁的な感じでいうと、私が育ったところにある神社には将門が勝利祈願にお祈りしていたといういわれもあるみたいですが、将門討伐した藤原秀郷は数少ない栃木県出身の歴史上の人物といってもいいし、将門塚や将門を祀っていた酒井ウタノカミのお墓詣りした数日後には、コロナになったしでなんかタイミング良くない気もするし・・・。気持ち的には成田山に傾いてる気がする。

まあ、どっちつかずに宙ぶらりんでいくのもいいか。
坂本龍馬好きで新選組好きっていう人は多く存在するわけだし。

不動堂境内でパチリ
壁面には梵字がびっしり、たまに奥の野球場から野球少年がダッシュでトイレを使いに境内を横断、「はしらない!」と売店の方に怒られているのが可愛かったです。恒例なんだろうな。

不動堂をみた感想としてはお金周りがすごく良さそうな感じがします。

そして、なぜか初めて来た気がしない。
前にも来た事があるような気がしてきたんですよね。

雰囲気的にツアー観光客を誘致に積極的そうな感じもするし。
護摩を無料見学できるのだって観光客誘致の一環じゃないですか?
私もさそわれてきて、結局は御朱印やお守りを買っているわけだし。

たとえば子供の頃に東京観光に来た時にバスで立ち寄ったとか・・・そんなことないか。

護摩祈祷の時間は、9、11、13、14、17時というハードスケジュール。
お坊さんたちは護摩祈祷の他にもいろいろと雑務があるはずだから、朝から晩までそうとうキツイはずです。

堂宇内は撮影禁止。

椅子に座って護摩の開始を待ちます。時間になるとお坊さんが6名ほど現れました。お二人は若い女性の方。うちの娘もあ、女の人がいると反応していました。

いよいよ始まる護摩

ぱちぱちと燃える炎にお札が読み上げられ投げ込まれていく

突如、ドーンという太鼓の音とともに

かんじーざいぼーさつ ぎょーじんはんにゃーはらーみたじー

と始まる大合唱。スゴイ迫力だ。

ドーンドーン、ジャラジャラ、しきふーいーくーくーふくぜーしきやくぶーにょーぜーしゃりーしー、太鼓とジャラジャラと般若心経がシンクロしあって、トランス状態に突入

その光景はまさにライブハウス

宗教と音楽というのは密接に結びついているんだなと感服しました。

すると若い女性のお坊さんがこっくりこっくりと。
目の前の常連っぽいお婆さんもこっくりこっくり

このハードスケジュールでは無理もない。
いやこれは寝ているのではなくトランス状態に入っているのです。
トランス状態なのだ。

私は寝なかったですが、かくいう私も座ると寝ちゃうタイプで、会議に居合わせたりするともう眠くってしかたない。授業中なんて高校以降ほとんど寝ていましたね。だから気持ちはわかります。

また護摩見学させていただきたいです。

個人的感想としては、こういうものは無料で見学できるラッキーじゃなくて、こちら側も対価を払わないとと思いました。
お札の代金にそれが乗っているのだとおもいますが、私はケチってしまってお守りと御朱印しか買わなかったので次回は買わせていただきます。

娘に請われてお稲荷様のお守りを買いました。ところがつけた翌日に紛失。芝公園の宝珠院で買ったお守りも一瞬で紛失するし、言い方によってはお守りが身代わりになってくれたということなんでしょうけど、現実的にはつける場所を考えてほしい・・・バッグの外側につけるとすぐにひっかけてなくなっちゃうから・・・

深川不動堂の外壁は名前入りの壁があります。

おそらく明治期と思われる名前入りの壁です。というのも公園内にある石造燈明台と意匠が似ているからという推測からです。
赤坂区溜池 原田三治郎さん、同 原田考治さん 右側に竹原菊太郎さん 竹原菊太郎さんは調べるとそれらしき方がでてきました。四谷区南伊賀20 この時代の周辺の名士でしょう。現在の若葉町1丁目 服部半蔵の墓のある西念寺の北東、たい焼き若葉の西ですね。
『東京電話番号簿』昭和2年10月1日現在,東京中央電話局,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1024218 (参照 2023-06-22)

帰り道にふと寺院があったので写真をとりましたが、あとで見てびっくり。

高野山真言宗 大栄山永代寺

永代寺はここに移転していた!!

永代寺は廃仏毀釈でなくなったあと永代寺に残っていた吉祥院が永代寺となったということ。今ある深川不動堂は吉祥院の土地をそのまま利用しているということでした。(其角せんべいさんブログより)

江戸六地蔵の地蔵も唯一ないのが永代寺だけですし、やはり謎はあります。
不動堂を呼び込む計画の際に地蔵はあってはならない存在だったのか。

周辺を西暦でまとめると

1868年 明治維新廃仏毀釈で永代寺廃寺
1881年 旧永代寺内の吉祥院跡に深川不動堂完成
1896年 吉祥院が永代寺に。永代寺復活
1898年 深川不動堂敷地内に石造燈明台完成
1908年 渋沢栄一揮毫忠魂碑完成
1910年 深川図書館完成
1931年 わたらいそのめ碑完成

不動堂完成から永代寺復活、石造燈明台完成の流れ。永代寺を復活させるも燈明台を完成させ深川不動ここにありと知らしめたようにも感じます。

明治維新から30年。当初の思惑が通じるのもこの辺りまでかなとおもいます。

現在の永代寺 臆せず立ち寄ればよかったとちょっと後悔。次は伺います。

うーん、深い。まさに深川。
一回行っただけじゃ全然収まらない。
引き続き訪問探索が必要と感じました。

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