見出し画像

【世田谷区】豪徳寺

松陰神社に行った後に豪徳寺へ行ってまいりました。

松陰神社と豪徳寺の関係はといいますと

幕末の1859年に安政の大獄に連座して処刑された吉田松陰を神として祀った松陰神社

安政の大獄を主導し、1860年に桜田門外にて襲撃されて殺された井伊直弼、井伊家の菩提寺がこの豪徳寺となります。

それにしても、こんな近隣にまさに幕末の敵味方同士がいて大丈夫なのか、はたまた運気的には両方お参りしちゃって大丈夫なのかと思ったりもします。

井伊家の上屋敷跡は訪問して過去に訪問しています。旧憲政記念館でした。


また、お二方の生き方を見ていると、ヤルとヤラれるというか、行動や思想が自分に返ってきてしまうというか、そんなことを考えずにいられません。(吉田松陰が処刑されたのは、間部詮勝(まなべ あきかつ)要撃計画露見によるものですし、井伊直弼が元水戸藩士に殺されたのも安政の大獄での、水戸藩主徳川斉昭への処遇が引き金になっていますし。)

今回は豪徳寺で東京時層地図で周辺をみて、そのあと豪徳寺を詳しくみてみたいとおもいます。


現代の地図

現代の地図 小田急線豪徳寺駅から徒歩13分ほど 世田谷線では宮の坂駅側 宮というのは西側にある世田谷八幡神社を指しているようです。豪徳寺前駅ではないんですね。周辺はお寺と神社が多い印象。

地形図

地形図 南側は戦国時代は吉良家の世田谷城。往時は南北に川があったので城としてはうってつけの見晴らしの良い場所だったのでしょう。


明治時代初期

明治初期 当時はいまでいう豪徳寺北側の豪徳寺一丁目あたり区役所通りに民家が集まっていたようすが見えます。このあたり松原宿と呼ばれていたそうです。
豪徳寺の墓のマークが井伊直弼墓でしょう。同じ時期の松陰神社にも神社はないものの同じマークがありました。北西にも常徳院にも墓のマークがあります。南側の勝光院にも墓のマーク。これは吉良家のお墓があるのでそのマークかもしれません。

明治時代末期

明治後期 ちょうど地図の境目です。周辺、田んぼが広がる場所です。北側に病院ができました。この時代もお寺の周辺には民家はあまりない様子ですね。

大正時代関東大震災前

大正時代 関東大震災前 豪徳寺西の世田谷八幡に碑のマークがあります。これもなんでしょうね。世田谷八幡は土俵があったり厳島神社があったりと、普通の八幡様とはちょっと違った趣。詣でていないので宿題ですね。
地図の切り替わりの場所ではっきりとはわかりませんが、松原宿、竹之上に住宅があるだけでほとんど住宅がないように見えます。また、世田谷の松原とは場所が違うようです。


戦前昭和10年頃

昭和初期戦前 井伊大老墓との表記が。豪徳寺内にも池があった様子が見えます。小田急線と世田谷線(玉川電鉄)が開通。世田線の山下駅、なんで山下というのかと不思議だったのですがここから南下すると豪徳寺周辺が山みたいになっているからでした。
関東大震災後の人口増加、線路の開通で一気に宅地化した印象。この時期、小田急線と世田谷線で豪徳寺駅が二つ。南には青葉実践高等女学校という学校が。2004年廃止。学校っていつまでもあるイメージがありますが、存続するのは大変なことなんですね。

戦後1955年頃

1955年頃 戦前から戦後にかけてかなり人口が増えた印象です。戦後にますます宅地化していくというわけですね。訪問前のイメージでこの辺りは豪徳寺があるだけの単なる住宅街だと思っていましたが、もともとお寺や神社が多い。ひょっとするとこのあたりの大地主の可能性もありますね。たしか高円寺、上野のアメ横、門前仲町も社寺仏閣が大地主。他は世田谷線(玉川線)の宮坂駅が南に移動して豪徳寺駅がなくなりました。

1990年頃バブル期

1990年くらいのバブル期 豪徳寺南にあった烏山川が緑道化。ものすごい住宅地化。高い所から眺めれば、「甍の波と雲の波 重なる波の中空を 橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり」という感じかぁ。大正時代の歌だからこの辺りで発祥した歌ではないけれど。

では、豪徳寺の写真を見てみたいと思います。

豪徳寺の写真

増上寺の山門 まだ午前中でしたが、外国人観光客が多数。現地のガイドブックに載っているんでしょうね。欧米系東南アジア系と様々。皆さんなにが目当てかというと・・・
こちらの招き猫。

非常に可愛かったので一つ購入させていただきました。願掛けをして叶ったらこちらに奉納するようです。一年の家内安全を願おうかな。いまのところなにも願掛けしていません・・・


招き猫の由来によると昔はこのお寺は非常に貧乏で、和尚さんが飼い猫に「私はお前たちを可愛がっているんだから、恩返しをしろや」
といったところ、夏の日の昼下がりに寺の門前が騒がしくなり、和尚さんが出てみると鷹狩り帰りの武士が5.6人。
「お寺の前を通ったら、一匹の猫が手挙げて我々を招いている、しばらく休憩させよ」
と。和尚さんはお茶などを出していた所、雷が鳴り響き夕立が降りだした。
和尚さんは三世因果の説法をしたところ、武士は喜んで
「我こそは井伊掃部頭直孝、猫に招き入れられ、雨をしのぎ、法談にあずかることこれ仏の因果、以後は心安く立ち寄る」
その後、この貧乏寺は、井伊家の菩提寺になり繁栄した。

というもの。

うーむ。スゴイ話だ。しかも聞いたことある気がする。豪徳寺の話だったとは。

彦根のゆるキャラ、ひこにゃんってそういえば猫でしたよね。
彦根藩は井伊家だった・・・ひこにゃんってこの猫由来だったんだと今更ながら知ってゾクっとしました。

そしてこちらがその井伊直孝さんのお墓

彦根藩2代目藩主 井伊直孝 1590年~1659年 大阪夏冬の陣で活躍


そしてこちらが桜田門外の変で亡くなった 13代目藩主 井伊直弼墓

彦根藩13代目藩主 井伊直弼 1815年~1860年

単純に家としての体裁がずっと続くってスゴイなと思ってしまうのです。
直孝から直弼まで200年以上。


そしてこちらが昭和初期戦前から地図に表記されているとおもわれる石碑

明治38年 忠正公神道碑 井伊直弼次男の 井伊直憲さんの碑のようです。書は日下部東作 日下部東作さんの父は、井伊直弼暗殺時に殉死しているという彦根藩ゆかりの人物 大久保利通の神道碑の書を書いたのも日下部東作さんのようです。
そしてこちらが日下部先生の別名、鳴鶴先生碑銘 昭和8年なので亡くなってからの碑のようです。題字は西園寺公望 日下部東作は書の先生として非常に著名で門下は3000人
こちらは日本大学教授 山田孝雄さんによる太平洋戦争戦没者慰霊碑

他に桜田門外の変で亡くなった彦根藩士の慰霊碑もあったようですが後から知ったので確認できず。


こちらは三重塔。2006年建築だそうです。めちゃくちゃ最近じゃないか。見た目結構年季が入っていると思っていたのですが。やはり豪徳寺それなりに潤っていそうです。さすがは招き猫の御利益。

そしてこの三重塔には秘密があり、豪徳寺の名物招き猫が潜んでいるのだとか。

居たっ!!!

こちらは招福寺 令和4年改修

招き猫様様です。


仏殿は世田谷区指定有形文化財1677年完成


こちらの梵鐘も1679年に完成してから移動することなく豪徳寺に伝わっているものだとか。区内現存梵鐘最古。
こちらが本堂。比較的新しくて1967年建築 60年代建築っぽい意匠ですね。

豪徳寺は古いもの新しいものが混ぜ合わさり、見どころ一杯でした。木々に覆われているので涼みやすい。
外国人観光客が多いのも納得です。
招き猫が可愛いのもあいまって効果は絶大です。

松陰神社と豪徳寺の安政の大獄関連の因縁は大丈夫なのかと思いましたが
よくよく考えれば

吉田松陰は他の老中の間部詮勝をどうこうしようとしていたわけだし、井伊直弼は水戸藩士にやられてしまったわけだから、直接的な因縁はないのかな。
檀家でも氏子でもないから大丈夫か。という結論になりました。

また行きたいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?