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【文京区】須藤公園の由来がわからなく戸惑う


点と点の物事をなんでも結びつけちゃうのは人間のサガなのかもしれませんが、染井霊園に行った後にコロナに罹患し年末をボンヤリと過ごしていました。

年明けから働いていますが、今ひとつ頭がハッキリしません。
ずっと元気じゃなきゃいけないというのは幻想ですからこんな時もある。

ただひとつ思うのは、東京時層地図というのは文字通り時間が層になっている。やっぱりいわくがついちゃってる場所には行かないほうが良いのかなと思ったり。

しかし、そんな事言い始めたら東京はこの100年でも関東大震災、東京大空襲で何十万という方が亡くなっているので、行く場所ないじゃんという事になっちゃうのですが・・・関係ない、でもやっぱり関係ある、その狭間にいます。

話をもどしまして、

コロナ療養期間中一週間はすでに過ぎているのですが、出勤停止期間があったので、谷中銀座に親類のお墓詣りにいった帰りにふと見つけてよってみた先が千駄木にある須藤公園です。

須藤公園

山があって滝があって池があって祠がある。

これって大名庭園によくある構造なんじゃないかなとおもったんですよね。

過去訪れた大名庭園も六義園、小石川後楽園、芝離宮、池があって築山がありました。

構造的に山があって滝の流れがあるあたり、小石川後楽園に似ている。

ということで江戸時代末期の地図を見てみると(1855年頃)

加賀大聖寺藩 松平飛騨守利鬯(まえだ としか)
1841~1920年

前田としか

大聖寺藩は加賀100万石の前田家の支藩。

前田としかは加賀藩藩主の7男として産まれますが、藩士の養子になっていたところ、支藩である大聖寺藩の跡取りが相次いで亡くなったために藩を継ぐ。
このあたり血よりも家が大事の江戸時代っぽいですね。

前田としかは漢学者の東方芝山(ひがしかたしざん)を重用して、芝山は有能な若者を各地方に留学させ、地域発展の礎となったとして

なんと2022年、石川県加賀市大聖寺駅前に二人をたたえる石碑が出来ております。

ということで、ここは江戸には大聖寺藩の大名庭園だということがわかりました。

公園内を軽く見てみましょう。

公園には石碑があります。表面には歌が彫られています。

石碑から従二位為守と読めるところから

入江為守 1868年~1936年 貴族院議員、官僚、歌人、ひらたくいうと元公卿ですね。

入江為守

彫られているのは

かしこくも 親王ありませり 九重の 御そのの松に 日の昇る頃

という歌です。


裏側

裏にはこう彫られています

東京市連合青年団本郷区林町分団
皇太子殿下御降誕を慶祝し奉り
御歌所長 入江為守閣下に和歌を乞い
ここに碑をたて公孫樹を植え以て記念とす
昭和10年2月11日
団長 子爵 大給近考

大給近考

大給近考は大正天皇のご学友で、入江為守は大正天皇時代の侍従長ということでそういった繋がりがあるように思います。

ここでいう皇太子御降誕というのは、現在の昭仁上皇。
時代を感じますね。

植えられた銀杏の樹はおそらく入口にあったもので、枯れたのか切り株になっていました・・・


池から滝のある山を望む
藤棚から見える弁天様の祠
築山だとおもっていましたが、どうやら高低差を利用して作られているようです。
高低差10mの滝
滝から弁天様への眺め
なかなか良い眺めだと思います。
こちらは西側、高低差を利用しているということがわかります。

東京時層地図で見てみましょう。

明治初期

須藤公園の来歴をみると、明治維新後は長州の品川与次郎邸になったようです。

品川与次郎、長州の有力者。

田安門の横にある二体の銅像のうちの一つが品川与次郎像です。ここに与次郎のお宅があったんですね。


明治後期

屋敷は須藤邸となります。

どなたでしょう。

文京区観光協会のホームページにあるのは

実業家 須藤吉左エ門が 明治22年 1889年 に品川与次郎邸を買い取り

とあります。

しかし、この須藤さんがどんな人かわからない。

実業家といってもどんな仕事をしていたのかもわからない。

いままで東京時層地図で地図に人名をみつけて検索して出てこないことなんてなかったです。

この規模の名士でこんなことある??

そもそも須藤吉左エ門って実在しているの??

しかも須藤吉右衛門という表記もある。

国立国会図書館デジタルで検索しても資料がない。

嘘でしょ??

うわー気持ち悪い・・・ありえるのかこんなこと。いや無いですよ。

実業家っていってもなんの事業かも出てこない。

須藤さん名で明治の名士ということになると

須藤時一郎 1841~1903年 

幕末の旗本、明治期の官僚、実業家、政治家。東京府会議長。

この人じゃないでしょうか??

でも住所は東京市淺草區北富坂町一九 だから今の蔵前だからちがうか。

品川与次郎邸を買い取るくらいだから相当な富豪じゃないと無理。

人事興信録データベースにも載っていない 須藤吉左エ門 なぞの人物。

私の頭の中は混乱したのでありました。


大正時代 関東大震災前

この時期の人事興信録 に須藤吉左エ門という人物は出てこない・・・

でも地図に須藤という名前もある、現在にも須藤公園はある周辺に須藤さんという豪邸もある。だから存在しないなんてことはない。でも過去の資料からは出てこない。

じゃあ一体何なんだ・・・・・

この時代の住所から逆引きしてみました。

須藤公園あたりの住所は林町、人事興信録で検索をかけてみると

須藤恭平 第4版 [大正4(1915)年1月] の情報

埼玉県出身 久米良作の弟にして明治38年 ツル の夫となり家督をなす 資産家としてしられる。

このツルの父が 須藤吉右衞門!!

やっと来た!!!実在した!!

須藤恭平の兄久米良作は日本鉄道副社長、東京瓦斯社長、その他の電気ガス保険会社の取締役、あまたの会社の監査役。渋沢栄一関連会社の役員だったようです。

またツルの妹は分家せりとかいてあるので、現在ある須藤公園周辺の須藤さんはその方々なのでしょう。

須藤吉右衞門の名前で検索すると出てきました。

東京株式取引所仲買 いまでいうところのブローカーですね

『日本全国商工人名録』[明治25年版],日本全国商工人名録発行所,1892. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/994140 (参照 2023-01-11)

須藤公園は一般市民とくらべたらめちゃめちゃお金持ちだけれど、財閥ほどではないお金持ち一家が、庭園を公園として都に提供したからその名前が残されているというところでしょう。
だから名前が出てこなかった。

日本紳士録という本に須藤恭平の名前があって所得税41とかかれており、同じページの貴族院議員 男爵 東京府知事 千家尊福は所得税394
出雲大社の宮司家と比べるとささやかなもの

ということは須藤家は篤志家なのではという側面が浮かんできました。

昭和10年頃

昭和8年(1933年)に須藤家が公園用地として東京市に寄付。
石碑が地元青年団の手によって昭和10年に建てられます。

1955年高度成長期前夜

須藤公園は昭和25年(1950年)に文京区に移管。

1990年バブル期

昭和47年に須藤公園に。

旧大名庭園が富豪の手で保存され、そのまま都に移管という流れは柳沢吉保邸が岩崎の六義園になって都に移管という流れと同じ。

須藤公園の周りのお宅も須藤家が散見され、今でも御子孫の方がいらっしゃると思います。旧大名庭園が一般開放とは有難い話です。

大抵はマンションとか駐車場になっていますから。

無料でいける大名庭園が千駄木にはあるという結果になりました。

個人的に須藤公園の須藤吉右衛門さんの一次情報に当たれて良かったです。






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