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【渋谷区】金王神社近辺

渋谷区にある金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)の御祭りに行ってまいりました。

お祭りの日でした。

平安時代の1092年に鎮座。

名前の由来ですが、金王丸という人物は源義朝(1123~1160年 頼朝の源頼朝の父)に仕え、その死を常盤御前に伝え、その後全国行脚の旅にでたということのようですが、伝説的な人物で実在を示す史料はないとの事です。

江戸名所図会 廿四・渋谷 金王丸昌俊 豊國 1852年

金王丸と目される土佐坊昌俊は大河ドラマ鎌倉殿にも出ていました。密命をうけて源義経を襲撃し返り討ちにあっていました。

金王丸は渋谷では大変な人気者で近年、金王丸を題したカブキ踊りも開催されていました。(2010年~2021年)松本幸四郎出演、演出、監修という豪華さ。このポスターは見たことあります。

2018年

史実としては、源頼朝に仕えた渋谷氏がこの地を治め、鎌倉時代になり1247年の宝治合戦(鎌倉幕府執権北条氏と三浦氏の戦い)の恩賞として薩摩国(鹿児島)の領地があたえられ、それらに渋谷氏の子孫が移り住んで治めることになったとのこと。薩摩で渋谷氏の子孫は5家にわかれます。

そんな渋谷氏ですが、室町時代の1524年の上杉と北条の高輪戦いの中で、北条方に攻められて落城、滅亡します。

この戦いで北条はこの近辺の支配力を高めます。

世田谷城の吉良家が北条方の縁者なのもそういった戦いの末なんでしょう。

その北条氏も1590年豊臣秀吉に滅亡させられます。まさに戦国時代といったところ。

いかに豊臣秀吉が強大だったかというのがわかると同時に、歴史は長いスパンで動いているんだなと思いました。結局は個人の頑張りではなくて、歴史の流れなのかなと思います。

渋谷の渋谷氏は滅亡しますが、鹿児島で5家に分かれていた渋谷氏のうちの東郷氏からは明治の軍人、東郷平八郎がでていて、没後に神となるわけです
(娘の七五三は東郷神社で行いました。なにとぞよろしくお願いいたします)

東郷神社があるのが渋谷区。

東郷神社ができたのは1940年で約700年の時を超えて渋谷氏ゆかりの人が里帰りしたということになります。

さらには先日取り上げた薩摩の軍人、大山巌の邸宅があったのも渋谷隠田。

そういえば、渋谷区東の常盤松のあたりにも薩摩藩由来の石碑がありました。

このブログでも昔に調べていました。渋谷区と鹿児島のつながりは深いですね。

御祭り当日には示現流(剣術)の演武があり、やはりこれも薩摩繋がり。

示現流

示現流は薩摩藩を中心に伝わった古流剣術。流祖は東郷重位。

演武ではマンガの影響かチェスト!と言うのかと思っていましたが、きぇーい!と剣道の掛け声に近いものでした。

示現流は最初の一撃が有名で、戊辰戦争時では相手方が一撃を受けた自らの刀や鍔が刺さって死んでしまったこともあるようです。

稽古風景をみると一撃を加えんとするときに、前足が上がっていて、足を降ろすと同時に刀も振り下ろされ、まさに一撃必殺の渾身の一撃が繰り出されるのでしょう。パンチでいうならスーパーマンパンチというか。

ジョルジュサンピエールのスーパーマンパンチ

示現流の稽古、良いものをみさせていただきました。

神社には渋谷城の砦の石と言われるものも残されています。

渋谷城の砦の石と言われています。

金王丸の名前を冠した桜もありました。

金王桜
金王丸を忍んで頼朝から贈られたものをが代々伝わっているのだそうです。

存在を表す史料のない金王丸ですが、どういった行動をしたかというと源義朝に仕えて主君死後に常盤御前に死を伝え、僧侶となって全国行脚。
または源頼朝の密命をうけて義経を襲撃するも返り討ちにあってしまう物語。

その金王丸を題材とした浄瑠璃、歌舞伎などが爆発的にヒットして、古くは渋谷八幡と称されていたようですが金王丸の人気によって金王神社と名前が変わったようです。

江戸末期の地図(1860年)頃には東福寺別当 金王八幡宮 と表記されていましたので、その(古く)というのはけっこう古いですね。東福寺は神社の北側にあります。


現在の地図

2022年の地図から1872年頃の150年前の明治初期の地図。

東福寺、八幡社という表記があります。南側の川は渋谷川です。

江戸時代の東福寺別当八幡社というのを引き継いでいるように思えます。

宮益坂というのがこの時代にもある歴史ある街道です。


明治後期 明治40年頃

北と西に長井邸 長森邸という表記があります。どうやら明治以降に移り住んだ様子。

この宮益坂からつづく長森、長井邸ですが明治からの華族かとおもいきや、その名前はありませんでしたが、おそらくは・・・

長森邸

長森敬斐 
長森敬斐(天保3年~明治35年)は佐賀藩士族で江藤新平の勧めで五等議官として出仕し法律起草に当たった。明治20年の官報で法制局参事官として名前がありました。

長井邸

長井長義(1845~1929年)

阿波徳島藩出身。
明治政府の第一回国費留学生、ドイツで科学薬学を学び、エフェドリンを発見し、エフェドリンからメタンフェタミンの分離に成功するなど、日本薬学の父と言われる人物。日本薬学の祖ですね。

おそらく業績と生没年あたりでこの辺りの人かなとおもいます。

と、おもったら、日本薬学会長井記念館は246沿いにありました。長井邸敷地内だったんですね。


大正時代 関東大震災前

長森さんは明治後期になくなったので大正時代には邸宅の表記はなくなっていました。長井邸は健在。長井長義は昭和4年に83歳で亡くなります。

長寿ですね。一概にいえませんが、当時の平均寿命から考えると倍近く長生きしています。

昭和初期 戦前

地名も金王町となっています。

神社近辺が金王町になっているのがわかります。

明治大正は堀内、並木という地名でしたが・・・

堀内というのはおそらく渋谷城のお堀の内側ということからの地名だったとおもいます。

並木はいまも並木橋などで残っていますね。

ご時世的に金王丸の主君に対する忠義ということで人気があったのでしょうか。全国に金王丸の墓はあるようです。

国会図書館デジタルで少年向けの本で源義経のことを書いた本にも登場していました。


1955年頃高度経済成長期前夜

これはすごいインパクト。
明治通りはまだ存在せず、国道246号線が工事中。
東京オリンピックを境に周辺は激変します。
渋谷から恵比寿の明治通りは戦後に開通したようです。

バブル期

現在のような街並みができあがりました。

このあたりの明治通りは万年工事中でしたが、最近工事が西側にうつりました。渋谷駅近辺は大きな変革を遂げつつあります。

昔ながらの御祭りはおもむき深かったです。

来年も訪問できれば良いなと思います。


本人が得意だと自信満々の射的
わたあめを買うのに30分並びました
示現流の稽古 
射的で得た景品。

僕は根本的にケチなので、やれヨーヨーすくいだ、やれ射的だ、とせがまれるのはキツイかったですね。結局これで小銭がなくなって、帰りにジュース買えなくなって泣かれましたが、うまく伝えるにはどうしたものか・・・。

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