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【豊島区】染井霊園周辺

染井霊園に行ってまいりました。巣鴨駅から徒歩10分というところでしょうか。

目指すは徳川幕府最後の大老、酒井雅楽頭忠績(さかいうたのかみただしげ)のお墓

最後の大老の写真を見ると、明治のものですが眼光鋭く、鬼気迫る様子に徳川政権末期の重責を担った人物なんだなとの感想をもちました。実際に徳川から明治の移行期には所領を返上したいと申し出る等、新政府側も対応に苦慮したとか。

そんな人のお墓が縁者がおらず撤去予定であるという記事をみて、今はどうなっているのかを知りたいと思ったのがきっかけでした。

結論から言うとお墓も綺麗に整備されていて、お供えのお花もあり、おそらくだれかしら、お金を出している人はいるんだなとおもうにいたりました。

酒井家の当主は現在もおり(オーストラリアで牧場をしているそうです)群馬に酒井雅楽頭家の菩提寺もあり、そもそも墓所を守る後援会的なものもある。

どのくらい滞納しているかわからないけど、お金は払えるんじゃないですか。クラウドファンディングみたいなものでお金は集まりますよ。(多分)一般市民のお金のない私なんかが気に掛けることではなかったという事です。

話は染井霊園に戻りまして

染井霊園は1874年、明治7年に開園。

青山霊園とおなじように明治以降の墓地だったのだと。

霊園の入口には明治以降の著名人のお墓の場所が記されており、墓じまいや縁者がない状態になってしまったお墓は抜けているようでした。

お墓仕舞い、これはしょうがないですよね。(墓所代を払える人)いなくなったらもうしょうがない。

ただ、最後の大老のお墓は歴史遺産なので墓所代関係なく残して欲しいです。言ってることおかしいかな。

っていうか撤去って話が出ること自体、お役所っぽくて好きじゃないなぁ・・・

レガシーって言ってる割にはスクラップアンドビルドとか言って、そうだ思い出した、神宮外苑の木を切るって話もあれ一体なんなんすか・・・100年前の有志による献木ですよ。木は畳じゃない新しければいいってわけじゃない。

結局お金か、じゃあしゃあないか。

いかんいかん話がずれた

この辺りは江戸時代には染井村とよばれ、ソメイヨシノの起源としてしられています。奈良の吉野山じゃなかったんだ・・・・吉野山の桜はシロヤマザクラで遺伝子も一本一本違うので、咲く時期も木々によってちがうのだそうです。

ソメイヨシノは江戸時代に単一の樹から作られたクローンでソメイヨシノの花の寿命が短く感じるのは、全く同じ木なので一気に咲いて一気に散っていくからで、他のヤマザクラは咲く時期が微妙にずれるために咲いている時間が長く感じるのだとか。

実際にはソメイヨシノの花の寿命は他の桜より長いらしいです。単純に桜の時期にが寒いと長いですよね。


今回は東京時層地図とともに訪れたお墓と人物をご紹介したいとおもいます。

巣鴨門から。1時くらいなんですが、晴れていても建物が建っているために影になって薄暗いです。なんかこう雰囲気的にセメタリーって言葉がぴったり。
案内図があります。

そして紙の地図が置いてあります。ということは訪問者ウエルカムということですよね。ちなみに西側にある本妙寺には本因坊家、千葉周作、遠山の金さん、明暦の大火慰霊塔、慈眼寺には芥川龍之介、司馬江漢、谷崎潤一郎のお墓があり、訪れました。後でご紹介します。

確かに青山霊園と似た感じがします。同時期に作られた都立霊園だからでしょう
こちらが高村光雲、息子の光太郎、智恵子氏の墓。

高村光雲といえば、誰もが知っている上野公園の西郷隆盛像、皇居外苑の楠木正成像などが代表作。楠公像の躍動感は凄い迫力です。まさかここにお墓があるとは。高村先生の作品は楽しませていただいております。


次なるは・・・・

これですね、「ご縁者様は事務所にお立ち寄りください。」しかし整理番号は書かれていないんですよ。
巨大な石碑と正四位男爵の文字、お花も添えられて綺麗にされています。
こちらが最後の大老、酒井忠績公のお墓。お目にかかる日を待ち望んでいました。
こちらが石碑。

華族女学校 土屋弘 謹選 巌谷修 書 と書かれていました。土屋氏は漢詩文の、巌谷氏は 書家として当時の有名人。明治31年6月に建てられたようです。巣鴨邸から徳川慶喜が山手線ができるというので嫌がって茗荷谷に引っ越す時期あたりでしょうか。

石碑の内容は保存されているのでしょうか。やる人がいないのなら私がメモります。

愛宕神社の片隅にスレートが崩れ落ちて風化に任せてある西南の役の警官隊の戦没者慰霊碑を見た時、いたたまれない気持ちになりましたし、残しておきたい気持ちはあります。

まあ、でしゃばりすぎかな。

裏側には人の名前が書いてありました。
なんとなく読めちゃうから不思議。「皇政復幕府廃公」なんて言葉、なかなかお目にかかれないと思います。

また訪れたいと思います。

ここからは東京時層地図を見てまいりましょう。

国道17号中山道に隣接しているわけではないからかなり閑静です。西側にはお寺があります。
明治初期 何もないです。なんと西側のお寺もない。ということは遠山の金さん墓や明暦の大火慰霊塔は移転したものか。中仙道沿いは賑わってそうですね。周辺のお寺は真性寺のみ
明治後期 

染井霊園は1874年、明治7年に開園。

巣鴨と言えば「とげぬき地蔵」ですがその高岩寺は1891年 明治24年に下谷から巣鴨に移転してきました。

北側には下瀬火薬製造所 1899年 明治32年

海軍技官の下瀬雅允(しもせまさちか)の名前が冠してあります。下瀬は下瀬火薬を発明し、日露戦争の勝利の一因を担ったのだとか。

当時の天才発明家といったところでしょうか。

名前で検索していたら、絶対この人子孫でしょっていう方がおりました。
額の生え際、左右の目の形、耳の形、アゴの形、そっくり・・
めっちゃ優秀な方でした。あまりにも優秀だと隠しきれずに世の中に出ちゃいますよね。

1903年(明治36年)巣鴨駅開業 霊園はあるけれど慈眼寺、本妙寺はありません。

東側には藤堂邸というのがあります。

藤堂 高紹(とうどう たかつぐ)邸 藤堂宗家13代目

江戸時代の地図をみると、巣鴨駅周辺はひろく藤堂家の土地だったようです。

藤堂家は藤堂高虎が有名です。

外様大名だけれど家康の信頼もあつく、築城の盟主として、江戸城の桝形門を設置した人として記憶しています。

その子孫である藤堂高紹、Wikipediaによるとやらかしてますね。

皇族の北白川宮能久親王の3女と結婚するも、実は留学中にイギリス人女性と結婚しており、これによって結婚は破棄、一時、華族としての資格を停止。

その後は許され、伊達政宗の子孫と結婚、子供は岩倉具視の子孫や朝香宮家に嫁入り。

藤堂高紹 明治17年(1884年)~ 昭和18年(1943年)

イケメンなんですよね。

しかし、過去には北白川宮能久親王もドイツ人未亡人と婚約して、当時の政府に嫌がられて婚約解消するなどあったので、歴史が繰り返されてしまうあたりがなんとも不思議なところです。

北白川宮も若いころはとてつもないイケメン。

北白川宮能久 明治7年 ベルリンにて


もうこうなるとイケメンだからモテちゃうものは仕方がないとしか言いようがありません。

大正時代 関東大震災前 

ここで本妙寺と慈眼寺が現れました。

本妙寺と慈眼寺はのちにとりあげたいとおもいます。
両方とも明治後期に移転してこの地にあります。

昭和初期戦前

海軍火薬工場は改描されていますね。

昭和12年3月東京中央卸売市場豊島分場 開業

この時期に各土地の市場が統合されて都内11か所に市場ができたようです。

そういえば19~21歳くらいのころに巣鴨に住んでいて、夜間コンビニでバイトしていましたが、市場の人が3時ごろに何人か来ていたのはそういう事だったんだ。
当時は市場といえば築地しかしらないから、ここから築地は遠いななんて思っていましたが、わりあい近かったんですね。

1955年くらいの高度成長期前夜

海軍工場の後には東京外国語大学 戦後に移転したのですね。

2002年、平成14年になるまでは東京外国語大学があったようです。

天理教教会も出来ています。

染井霊園の隣にスイミングセンターがありますが、ここでオリンピック2連覇 北島康介が出身です。
このあたり三菱の施設が多いので、三菱が運営しているとおもったら、天理教が運営しているんですね。

白山通り沿いには創価学会の講堂もあります。

巣鴨駅西は明治以降いろいろな宗教が入り混じっている土地ということもいえそうです。

一歩外れれば拝む施設も多い。

巣鴨がおばあちゃんの原宿といわれるゆえんの一つをみたきがしました。

西巣鴨は明治以降の霊場なんだと。

さて、最後に見回ったお墓を紹介しておわりたいとおもいます。



幣原喜重郎

戦後の内閣総理大臣 本人は総理大臣に指名されることを嫌がって引っ越しを繰り返していたといわれています。たしかに戦後すぐの総理大臣なんてだれもやりたくないですね。

なんでこの方を覚えていたかというと、小学生のころに読んでいた日本の歴史というマンガに出てきたというのと、子供のころに昆虫好きで、普段よくみる昆虫に

「シデムシ」

というのがいたんですね。肉食性で幼虫のときも成虫のときも死肉をあさるという。

幣原さんの幣は神社のお祓いするときの神主さんがふりまわしてる御幣のことだから、意味合いが全然ちがうんですが、音として覚えやすかったのです。

だから、幣原喜重郎という名前をみたとき、おおお!!あの幣原喜重郎!とテンションがあがりました。


岡倉天心

日本が誇る美術家、思想家。この方が拠点としていた茨城の六角堂になぜか行ったことがあることを覚えていました。
いつ、どういう経緯でいったか全く覚えていないんですよ。
親といったのか、学校でいったのか、それともバイクでいったのか。

東日本大震災で崩壊してしまって再建されたようです。



そして最後をかざるのは・・・もう後光が差しちゃってまともに見られません。

墓所案内でこの方のお名前を発見したときにテンションと血圧が上がるのを感じました。

安岡正篤(まさひろ)先生です

今から10年くらい前でしょうか。まあ、だれもが持つ人間関係の悩みなんですが、どうしようかといろんな本を読んでいました。

生きるに厳しい時代の本にはヒントが隠されているかもしれないと、古代中国の本を読んだりしていました。孫子とか史記に始まって、論語、老荘、荀子、韓非子、詩経、菜根譚とかですね。ちなみに娘の名前は詩経より引用しています。

面白いもので、詩経とかの3000、4000年前の人間関係で悩んでいる様子が詩になっていたりして、妙に刺さってくるんですよね。

そんな鬱々とした中で読んだ本の内に安岡先生の著書もあり、影響をうけた面もありました。
有名無力無名有力という言葉にも力をいただきました。まあ、こちら側の都合よく解釈しているだけですが・・・

結論は悩みはどんな本を読んでも解決されないということになりました。逃げられない場合の対処方法はいまだにわかりません。

それにしてもまさか安岡先生にこんな所で出会えるとは。

ということで、同行していた娘(5歳)に

「うわーいまスゴイテンション上がっているよ!!100だよ!100」

といったところ

「私はゼロ、ゼロだよ」

と返答が返ってきました。



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