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【世田谷区】世田谷学園

こどもが世田谷学園附近のスイミングスクールに通っていたとき(過去形)
送迎がてら東京時層地図を開いてみました。周辺は住宅地ですね。

住所は三宿となります。

Wikipediaには三宿の由来は周辺が水にまつわる土地が多く、水宿が三宿になったと書かれていました。江戸時代末期には大きな池があったとも。

江戸時代末期の地図には三宿と書かれていて、東に池尻村、西に太子堂村、南に下馬引沢村と字三軒茶屋村、北に代田村、下北沢村とあります。


現代の地図

現在地は世田谷学園、南は三宿交差点で、三宿交差点は90年代のトレンディスポットとして存在していたそうです。

現代の地図でいうと三宿の中心地はこの三宿交差点ではなく、現在地の北側の交差点を指しているようにみえます。

たしかにWikipediaにあるように川沿いですから大きな池があって水宿→三宿となってもよさそうです。が・・・



明治初期

○ 池があるとしたら北側の川沿いだとおもいますが、それらしき跡なし。

この時代、住居がたくさんあるのが東の池尻村ですが、大山街道沿いに赤い印の建物が3つ。
これが三宿の由来とはいわないまでも、宿なんだから街道沿いにないとしっくりこないですよね。

この時代は北の三宿神社も神社の表記があるのみであまり有名ではない感じ。場所もむしろ三宿というより代田村。江戸時代初期から三宿の名前はあったということを考えるとやっぱり大山街道沿いなのでは?

○ 現在地から南北に通っている道路はこの時代からあるようです。
バス一台通れるくらいの狭い道路でしたが昔から代田村から大山街道への道だったようです。

明治末期

○ 南は近衛砲兵営、近衛砲兵旅団令部。

三宿といえば僕は自衛隊くらいしかイメージができないのですが、このころから軍の施設の縁があったようです。

駒沢練兵場が東にあることもあり、この時代は近衛砲兵営砲兵営、北東には近衛輜重(しちょう)兵営騎兵営騎兵実施学校など、一大軍事拠点だったようです。

ここまできて思い出したことがあります。

近衛兵というのは天皇を守るために配属されている軍人の中でもよりすぐりの優秀な軍人のあつまり。それがなぜ皇居近辺ではないのか。

明治11年に西南戦争後の処遇を巡って、近衛砲兵団が反乱を起こした竹橋事件が起きたからでした。

竹橋事件の処刑者は55名、これは226事件の処刑者を4倍ちかく上回る数。昭和の国家を揺るがす大事件が226事件なら明治の国家を揺るがす事件は竹橋事件。

その近衛砲兵団の移転先が世田谷のここだったのか。

これだけの事件、竹橋事件の慰霊塔はないものかと探していたところ、時代は下って昭和62年に事件を追っていたノンフィクション作家の方によって青山霊園に作られているようです。


○ 街道沿いは繁栄していた様子がみてとれます。

都心部と違うのは、たとえば市ヶ谷の陸軍士官学校近辺の四谷などはスラムが存在していて、士官学校の残飯を払い下げてスラムで売る仕事を潜入取材したルポルタージュもあったりしたのですが、(日本の下層社会・横山源之助)このあたりはもともとの人口の少なさかスラムの存在はない様に思います。

○ 三宿の表記は大山街道沿い。やはりこの辺りが三宿なんですね。


大正時代 関東大震災前

1924年(大正13年)

東側に学校は明治期にはできていましたが
この時代に西側に曹洞宗中学ができます。

ちょっとまてよ、曹洞宗大学=駒澤大学になるわけだから、曹洞宗中学=世田谷学園となると、この2校は宗教系の姉妹校ということになるわけか。

○ 北の神社の表記、三宿神社近辺ですが、南北と東に川がながれており高台になっているので、城にするにはよさそうだなとおもったのですが、実際に室町時代には三宿城という城があったのだとか。えーとするとやっぱり三宿の由来はこのあたりなのか。

昭和初期 戦前

○関東大震災後、大正13年 1924年に世田谷中学と改称

校名から宗教色を消すというのもおそらくこの時代の学校生き残り戦術の判断だと思われます。

この時代は国は天皇を中心とした神道による国民の統一を推し進めている時代。神道以外の宗教は表立てなかったのでは?

大正14年4月には治安維持法公布されていますし。

治安維持法(ちあんいじほう)は、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。

Wikipediaですが間違ってはいないですよね。

陸軍大将の息子(大山柏)が考古学を研究しているということで貴族院議員で50歳過ぎているのに戦地に送られる時代です。

となると今現在、宗教法人の名前を冠している学校は戦後設立なんでしょうね。

そして

○ 周辺住宅地はおもわずうわぁといってしまうほどの住宅地の増えっぷり。
三宿の表記もこの時期を境として三宿の中心地が動いたといえるとおもいます。
三宿の中心が三宿神社、烏山用水近辺なら、川沿いに過去に大きな池があって、水がたくさんある宿、水宿、三宿というも納得できます。


戦後 高度成長期前夜 1955年頃

○ 1955年の高度成長期前夜、近衛砲兵営だったところは昭和女子大へ。
昭和女子大は大正9年 1920年設立。創設者は詩人の人見円吉。
これは珍しい。詩人が学校創設者というのはいままでお目にかかっていませんでした。

○ 北に流れていた二本の川は北沢用水、烏山用水という名称だったようです。

バブル期 1990年頃

○ 地図に三宿1丁目、2丁目の表記がみえます。

○ 世田谷学園の東の学校は三宿小学校、明治41年4月設立。このあたりでは一番古くからある施設なのではないでしょうか。

○ このあたり行き止まりの道が非常に多い。赤坂や北新宿近辺でもお目にかかりました。古い町並みが残されているということは関東大震災や空襲でも被害が少なかったのかもしれません。と改めてWikipediaをみたら三宿神社の神輿は関東大震災、空襲を免れているとのこと。

○ 三宿の名前の由来ですが地図からみると、江戸時代~明治時代は大山街道沿いが三宿といっていたように思えますが、室町時代までさかのぼると現在の多聞小学校あたりが三宿城という名称だったとのこと。

そうなると結局、水に囲まれているから水宿、三宿なのかなぁ。


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