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【江東区】東深川橋付近

清澄白河駅近く、小名木川沿いの東深川橋付近でちょっと釣りをしていたので、そこで東京時層地図を開いてみました。

中途半端に開いた地図でこれといったランドマークも場所ない場所なのでどうなるかわかりませんがやってみましょう。


現在の地図

小名木川にかかる橋の一つ。東深川橋です。

竣工は1931年 昭和6年
1978年 昭和53年に架け替え。

昭和6年に竣工ということは、関東大震災後の復興計画の一環なんでしょうね。

場所的に有名でない場所ですが、広範囲に及んでいる復興計画に毎回驚かされます。

小名木川は徳川家康の命によって小名木四郎兵衛さんが掘削した運河。隅田川と旧中川を結びます。綺麗に東西に走っているのが印象的です。

小名木四朗兵衛さんは天正年間(1573~1592年)に小名木村を開拓した人物のようですがそれ以外はわからないそうです。

この運河があることによって、千葉側からの物流は隅田川を通らずに荒川、小名木川から蔵前までいけます。江戸幕府の重要拠点です。

そう考えると小名木川の見え方も変わってきます。
1600年前後に生まれ幕末明治大正昭和、1960年代の都市大開発を免れ、2024年の今も姿をあまりかえていない運河(流れという意味で。神田川などは川の流れも変えています)うーん素晴らしいですね。

小名木川の運河
東深川橋

明治9~19年 1876~1886年


南側は寺院が点在します。寺院地帯です。

宜雲寺(ぎうんじ)
法善寺
泰耀寺
雲光院
善徳寺
雲光院
霊巌寺
浄心寺

江戸期の地図をみるとさらに多くの寺院があります。明治に入っての廃仏毀釈でもこれだけ残っています。

北側は田畑などが点在します。

江戸時代の地図をみると田安徳川家、大阪御城代 常陸土浦藩 土屋寅直(九万五千石)、高家 大沢右京太夫(三千石あまり)、火消し 神保三千次郎(六千石)等、武士の町だったようです。

深川区は下町町人街なんて思っていましたが場所によってさまざまですね。


明治39~42年 1906年~1909年

○ 現在地は東京紡績会社
明治19年 東京繰綿問屋組合一派が二十五万円で設立。
初代会長は田村利七氏 

現在のユニチカの前身の一つ。

○ 東側の消毒所とはなんでしょうね。
「明治三十年五月一日東京市ハ駒込病院ヲ以テ常設傳染病院トシ テ、之ヲ開院ス、同七月二十四日本所、廣尾、大久保ノ三病院 大學ニ 囑託セルニョリ入澤達吉教授醫長ニ任ゼラル。市ハ其ノ傳染病院ノ醫事ニ 關シテハ之ヲ東京帝國大學醫科 及ビ深川區東大工町ニ於ケル消毒所ハ府ヨリ市ニ引繼ヲ完了」
という資料がありましたので、コレラ対策のものだと思われます。

現在ではコロナで大騒ぎしていた世の中でしたが、この当時はコレラ。治療しない場合の死亡率は60% 現代だと治療するので1%ほどだそうです。

私の伯父は去年コロナがきっかけでなくなりましたが、私がコロナになったときは自宅待機しておれということで薬も無しでした。なんだよ結局のところ自分の力で回復待ちなら風邪で医者行く必要ないじゃんと思ってしまいました。


○ 南側は材木置き場となっております。以前東陽町近辺をしらべたときに明治期になってから材木商が隆盛を極めたということがわかりました。
東大工町という地名の通り、材木商と大工町の相性はぴったりです。

○ 全体的に住宅も多いです。下町っぽいイメージはこの辺りから造られたものでしょうか。

大正5~10年 1916年~1921年 関東大震災直前

○ 北側には石川島造船分工場とスレート会社

石川島造船工場は隅田川の下流の石川島にあった造船所で、現在のIHI。重工業の国内大手企業です。

スレート会社というのは浅野財閥のスレート工場。
スレートは屋根に使われているそうです。明治期の記念碑などの素材をスレートだとおもっていましたが、工場で作っているとなると人工的につくられた素材なのかなと思います。

○ 南側はお寺のお墓も多い場所。


昭和3~10年 1928年~1935年 昭和初期戦前

○ 関東大震災後に区画整理が進んだようです。

○ 東大工町が白河町と名称変更。

○ 北側が地震前からある程度整っていた場所ですが、南側も地震後に整地されたようです。石川島造船所も日本紡績会社もなくなってしまいました。(表記が消えただけかも)スレート工場は浅野スレート工場として残っています。

浅野総一郎が一代で築いた浅野財閥は戦後GHQによって解体も、浅野セメントは太平洋セメントとなり日本最大のセメント会社となっています。

○ 小名木川にかかる橋も一気に増えました。火災時の逃げ道を確保するためにつくられたこともわかりますが、北から南へ東から西へと、関東大震災の復興計画は現代東京の骨格を作ったんだなと。

復興計画の生みの親、後藤新平の墓参りにも行きたくなりました。お墓参りは体調悪くなる可能性があるから控えていますが・・・


高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年

○ 東側の丸八倉庫というのは昭和9年創業の物流会社

○ 消毒所だった場所は紀長伸銅所となっています。

「紀長伸銅所は、江戸時代の万治2年(1660)に、初代三谷長三郎が神田鍛冶町に創設した紀伊国屋三谷長三郎商店(通称「紀長」)を前身とし、当時から銅や黄銅の製造・販売を業務としていました。深川工場の設立は、明治34年(1901)で、赤レンガ工場もこのときの建設と考えられています」

https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/shuppanbutsu/documents/20471_222.pdf

となると、表記がなかっただけで明治建築の赤レンガ工場として2002年まで存在していたようです。

○ 北側は深川高橋町という名称。

バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年

○ 深川高橋町は森下町という名称変更。

○ 材木置き場だった現在の木場公園に当たる場所は、都公園予定地となっています。材木商は新木場に1976年に移転。

歩いた感じは北側にスカイツリーが見える下町という感じですが、古地図をみたところ、明治期までは400年の歴史ある運河、小名木川を挟んで北が武家や武士の家々、南が町人街。
明治期以降に工場が増え、一般的にイメージする下町となったようです。


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