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【世田谷区】下馬近辺

現在の地図

所用で三軒茶屋から徒歩10分ほどの場所にいったので、思いついて東京時層地図をしてみました。

近辺は高度成長期の面影を思い起こさせる都営団地があって取り壊しされている最中でした。

都営団地があるということはなにかあるんでしょうね。

今回はバブル期から辿っていきたいとおもいます。

バブル期

比較的広範囲でみてみました。

国道246から南は昭和女子大を中心にけっこう広大な敷地があります。

都営住宅、区民センター、図書館、子供広場と、公共の施設が多い印象。

南側は明治薬科大学、日大農獣医学部、駒留中学校などです。

高度経済成長前夜

昭和女子大はもともとは文京区にあったのですが、戦争で焼けてしまってこの地に移転したようです。

周りはなんでしょう。この手のタイプだと新宿戸山公園近辺にみられたように戦後の住宅事情不足による都営住宅っぽく見えます。けっこう大きな範囲ですね。

下馬一帯に建ち並んでいた兵舎群は、終戦後、東京都の引揚者住宅「世田谷郷(ごう)」(写真)となり、満州からの引揚者など約1,100世帯が暮らすようになった。建物の老朽化などから、その一部は1958(昭和33)年から「都営下馬アパート」として建て替えられた。

https://smtrc.jp/town-archives/city/sangenjaya/p04.html

この地は都営下馬アパートと呼ばれていたようです。


昭和戦前

昭和期独特の白抜き改描 どうやら隠したい施設のようです。

それもかなりの広範囲。軍事施設ですね。

大正時代

北側が近衛砲兵連隊、南側は野砲一連隊、野砲一三連隊

野砲一連隊(野戦重砲兵第一聯隊)は1945年6月22日 沖縄にて連隊長以下玉砕という凄惨な最後・・・・

野砲一連隊の兵舎は現存していて、どういう経緯か世田谷区韓国会館となっているようです。

明治30年建築だとか。明治の木造建築なんて都内でお目にかかったことがない。ここは建て替えとかになる前に写真撮りに行きたい…

近衛師団にも歩兵、騎兵、砲兵があったことを今回で初めて知りました。歩兵は現在の皇居、赤坂TBS、騎兵は新宿戸山公園、そして砲兵は三軒茶屋のこの地。

国道246沿いは住宅がありますが関東大震災前なので他は民家もまばらです。三軒茶屋の南は軍の街ということがいえますね。

明治後期

明治39~42年

明治後期、近衛砲兵営、砲兵営と書かれています。

今現存している韓国会館は明治30年建築の兵舎といわれていますから、この時代の近衛砲兵営の兵舎だったということが見えてきます。明治30年って1897年だから125年前くらいですね。

ふと思い出しましたが、このあたりまでくる道中、古い韓国料理屋が何件かありました。このあたりは小規模のコリアタウンっぽくも感じます。

この旧兵舎は普通に考えて130年前の木造建築を使うという事はなかなか考えにくい。建て替えてしまったら何かが発生する案件なのかもしれません。

そのおかげで130年前の近衛兵の旧兵舎が見られると言うのは現代において稀有ですし、いままで地図巡りをしてきた中で明治のコンクリート建造物、構造物はあれど、木造建築物は本当に驚きです。
明治の近衛兵の兵舎ですよ 驚愕です。

明治初期

明治初期周辺は畑と雑木林と田んぼで家数軒。三宿村の街道沿いには家々があります。

周辺地域で一番古いのが西澄寺

1574年(天正2年)、隆向によって開山された。
幕末から明治初期にかけて、住職不在で荒廃していたが、1892年(明治25年)に慧荘が中興した。慧荘は高野山で習得した灸術を施したことで、「霊灸」の評判がたち、多くの人で賑わった。当寺の梵鐘は灸術を受けた患者から奉納されたものである。
当寺の山門は、1922年(大正11年)に旧徳島藩江戸藩邸の門を移築したものである。東京都の有形文化財に指定されている。

Wikipedia

旧徳島藩江戸藩邸

徳島藩は大名の蜂須賀家です。

大江戸今昔巡りをみると 江戸時代は今の田町駅の北側にあります。
江東区の北砂5丁目にもあるのですが、門は田町のほうかなぁ・・

でも明治維新後にどちらもガラッとかわるんですよね。

明治維新後は蜂須賀家は現在の在日オーストラリア大使館の場所と日本橋浜町に2か所ありました。移動したんですね。

江戸時代にあった門を移築したのか、それとも蜂須賀家が移動した先の元大名屋敷の門を移築したのかということも考えられるとおもいます。

終わりに

今回は何の気なしに東京時層地図を開いてみましたが、調べてみると再度訪れてみたいところが出てきました。

これらはまた訪問して写真をとってアップしてみたいとおもいます。




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