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【台東区】蔵前橋付近

隅田川釣り下りで南下していっております。
今回は蔵前橋。
以前にも浅草橋周辺で蔵前橋近くにある「首尾の松」のことを少し取り上げたことがありました。
名前の由来は諸説あって、徳川家光時代に侍が台風災害報告の首尾を報告した場所であるとか、北に吉原遊郭があるので松の生えているここで待ち合わせて、遊女との内容がどうだったかをお互いに報告しあった場所ともいわれています。

蔵前橋のイルミネーションはなんとなく黄金のおコメっぽくてカッコイイです。


2023年の地図

このあたり西側が下水道局や薬局などの大きな建物が多いです。対岸は安田庭園や国技館。

江戸時代末期 1855年頃

○ 現在の安田庭園は この当時は
丹後宮津藩 松平伯耆守宗秀 七万石。
老中になっている幕府のお偉方ですね。
数多くの大名庭園が無くなっていますが、お金持ちに拾われて後世に伝えられるのは価値あることだとおもいます。
人間どうしても坊主憎けりゃ袈裟まで憎いになっちゃいますけれど・・・


○ 現在地は御米蔵となっています。天領地から集めたお米を収蔵しておく場所で、敷地面積は3万坪強、蔵は67棟、8本の堀を張り巡らし、四方を堀で囲って火災から蔵を守るシステム。

米は、年貢米として全国各地から江戸に運ばれました。江戸幕府が開かれた直後の江戸城下の米蔵は、 江戸城に近い日本橋川沿岸に集中していました。し かし幕府の政治体制が安定してくると人口も米の需 要量も増え、日本橋川が混雑し日本橋周辺の蔵だけ では手狭になりました。
そこで元和6年(1620)に、幕府は隅田川沿いの蔵前に米蔵を建設し、日本橋付近の米蔵を移転させ ました。全国各地の諸藩から菱垣廻船や樽廻船で運 ばれてきた米は、隅田川河口付近の江戸湊で舟に積み替えられてから、蔵前で荷揚げされ、米蔵に保管 されました。蔵前には、米を保管する倉庫だけでな く、問屋街も形成されて、次第に江戸時代の経済の 中枢になっていったのです。

(東京海洋大学) 船が育んだ江戸 : 百万都市・江戸を築いた水運 (1) 海 : 海流・海難・海損


なるほど、だから御米蔵にちなんで今では川沿いの壁が米蔵の絵がずーっと続いているんですね。

対岸の両国船着き場より奥に蔵前橋を望む。壁が蔵の意匠になっています。


この当時は橋はないけれど蔵の前にある橋だから、蔵前橋というわけか。

〇 隅田川は上げ潮の時はともかく、下げ潮のときはかなりの激流になります。

大潮の下げ潮は体感的に人の歩くスピードより速い流れになっています。
下げ潮の時に下流から上流にいくのは大変だろうなぁ さらに北風なんて吹いたときには無理でしょうね。

もしかすると潮の満ち引きにあわせて船を運行していたのかもしれませんね。

お米は江戸湊で詰め替えて蔵前に向かったということで、江戸湊は石川島の対岸ですから今の霊巌島あたり。なるほど港区というのは江戸湊が発祥か。

明治初期 1880年頃

〇 大蔵米廠?庫?米蔵は明治以降も政府用倉庫として使われていたということです。南側は見切れていますが東京職業学校となっています。

〇 現在の安田庭園は池田邸 池田といえば姫路城の池田輝政。明治に入って池田家は岡山、鳥取池田家と4つの支藩があって華族となっているようです。
明治維新後には老中の松平家は追い出されて、この邸宅には備前岡山藩の池田家が入ったようです。
明治維新後に大名でも華族になった人とそうでなかった人がいるんですね。
最後まで官軍に交戦した大名は華族にはなれずという感じでしょうか。
混乱期の身の振り方で子々孫々まで決まっちゃう分岐点。

長いものに巻かれよ 勝ち組に乗れ という言葉が頭をちらつきますね。


明治末期 1910年頃

○ 蔵の跡は

電燈会社(東京電燈株式会社、東京電力の前身) 渋沢栄一が設立にかかわり、明治29年(1896)に浅草発電所が完成。関東大震災で被害があり閉鎖。

専売局第三製造所 タバコの工場です。たしか新宿のビックカメラの所も専売局だったと記憶しています。

高等工業学校 東京工業大学の前身。

電気にタバコに工業にと、明治期の日本の商工業に大きな関わりを持った場所だったようです。

○ 池田邸は安田善次郎が買い、安田邸へとなりました。

大正関東大震災前 1920年頃

○ 電燈会社、専売局、工業学校と、明治後期とほとんど変わらない感じです。

○ 南に御蔵橋渡 があります。

○ 大正10年に安田善次郎が刺殺され、邸宅は東京都に寄贈したものの、関東大震災で被災。

昭和初期戦前 1935年頃

○ 蔵前橋 1927年 昭和2年 竣工 関東大震災の復興計画によるもの。

○ 関東大震災で旧陸軍被服廠に避難した38,000人もの人達が火災旋風によってなくなり、跡地には震災記念堂が建てられています。

○ 電燈会社の工場はなくなりました。

○ 旧安田庭園は昭和2年に庭園として開園。

○ 安田邸跡地にはアメリカの震災援助で同愛病院が建てられます。

となると、戦争時にはここは空襲にあっていないのでは??
と、戦災焼失地域を調べてみると
やはり同愛病院はここは免れています。
本所のこのあたりはほとんど焼野原なのですが、ここだけポツンと。
明石町の聖路加病院もそうですが、空襲は無差別爆撃ではなく綿密な計画に基づいたもので余計に怖さを感じます。

○ 小林歯磨工場 さあ、これはなんだ。

なんとライオンの前身、小林富次郎商店の工場。
小林富次郎(1852~1910年)は埼玉出身新潟育ち 1893年にライオン歯磨きを販売。

小林家は日本の商業、工業、政界と婚姻関係を結び、平安時代の「光る君へ」の藤原氏の世界観。創業家一族はそういった繋がりが大切なんだなと思いました。


戦後高度成長前夜 1955年頃

○ 専売局跡地に国技館ができています。

こちらは蔵前国技館 1954年開館。
ちょうどできたばかりの頃の地図です。

相撲は栃錦・若乃花 柏戸・大鵬 輪島・北の湖 時代
プロレスは力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木
ボクシングはファイティング原田、ガッツ石松、具志堅用高などの昭和のスポーツを支えた面々。

蔵前国技館は1984年に閉館。
この年の幕内優勝者は隆の里、若島津、北の湖、千代の富士、多賀竜。十両優勝は小錦に北尾。
僕も覚えているということは、蔵前国技館の相撲をテレビで見たことがあるようです。1985のつくば万博で巨大テレビジョンで千代の富士と大乃国の相撲を見たのは鮮明に覚えているから確実に見てますね。

バブル期 1990年代

○ 蔵前国技館は1984年に閉館。

江戸時代の御米蔵は明治大正昭和平成令和で様々な形に変遷しています。歩いて、見て、調べて、ますます隅田川loverになりつつあります。

川と時代は流れるけれど大勢の人の生活が確かにこの地には刻まれているんだなぁ・・


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