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【新宿区】新宿二丁目、内藤新宿と新宿将軍・濱野茂。江戸が残る太宗寺。

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今回は新宿二丁目北の交差点からスタート。

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写真の正面にある木々のある場所は成覚寺。

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成覚寺:江戸時代に新宿御苑の北は内藤新宿として甲州街道沿いの宿場町として発展し、それに伴って岡場所も多く、亡くなった女性の投げ込み寺だった。埋葬された人数は2000人とも3000人とも言われています。

江戸、明治を紐解いていくと、宿場町には遊郭的なものが存在し、その他にも岡場所は多く、性に対する感覚が今とは違っていたと感じます。今のようにネットもテレビも本もないので、そこに行きつくのだろうと思います。なにもなければ自分のいじるか他人のをいじるかしかないですからね。

「東京今昔巡り」江戸時代(1860年代)

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ひときわ目立つのが成覚寺、三途の川老婆王 正受院、閻魔 太宗寺 

太宗寺に行ってみました。新宿二丁目の雑居ビルに突然開ける広大な敷地。

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入口には巨大なお地蔵様と閻魔堂 マンションとの対比がすごいですね。

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閻魔堂には閻魔像は1814年(文化11年)奪衣婆像は1870年(明治3年)に安置されています。

閻魔堂はボタンを押すと1分間限定で電気がつき、中のお姿をみられます。ピントが金網にあっちゃって不鮮明ですがその先には閻魔様が鎮座。

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こちらは塩かけ地蔵尊 願掛けして願いが叶ったら塩をもってきてお地蔵様に盛るのだとか。 雰囲気がスゴイです。

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銅造地蔵菩薩坐像

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江戸の出入り口6か所にあった江戸六地蔵の一つ。1712年建立。

こちらは甲州街道からの江戸の入口にあったのでしょう。ちかくに江戸への出入り口である四谷大木戸があります。

その他、太宗寺は新宿区の文化財が多数あります。訪れておきたい場所の一つです。

場所はちょっと変わって、三越伊勢丹からの道は両側が過去に内藤新宿仲町として発展した場所です。

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「甲州屋呉服店」というお店もあり、甲州街道を想起させるものもありますね。

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内藤新宿の錦絵があります。

1852年 嘉永5年 江戸名所図会 二十・内藤新宿

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街道の両側が内藤新宿仲町でしょうか。繁盛している様子が見てとれます。女性は旅人っていう感じではないですね。いわゆる女郎でしょうか。乱れ髪がセクシーとも思えます。

1857年 安政4年 名所江戸百景 / 広重

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馬のお尻が斬新な構図です。

1858年 安政5年 江戸名所百人美女

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3代目豊國、歌川国貞の作品です。内藤新宿をテーマにした美人画のようなものは2つ発見しました。こちらはみるからに遊女ですね。呼び込みしているような様子が見てとれます。

明治初期

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明治になっても甲州街道沿いに内藤新宿周辺には宿場町っぽく、家家が軒をつらねている様子が見てとれます。太宗寺と北の二つのお寺もみえます。

江戸時代から続いている色街としての性質は、明治になってからも続き、明治の文豪、夏目漱石は幼少期に養子となってこの街で生活していたようです。前述の銅造地蔵の上の登って遊んでいたのだとか。


明治後期

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現在の新宿二丁目北交差点の北側に濱野邸という邸宅があらわれます。

この時期の明治維新の勝ち組の邸宅でしょうか。華族となった旧大名の邸宅でしょうか。

いいえ、一発当てた大金持ちが住んでいたのです。

ここに住んでいたのは 浜野茂 (1852-1914)

明治42年 財界名士失敗談. 上巻

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米相場で巨万の富を得て、新宿に邸宅を建て新宿将軍と称され、明治27年衆議院議員。

後に濱野の企業していた鋳鉄会社が、淀橋浄水場関連の水道管に不良品を納入しているという疑惑がかかります。

これが明治後期の大事件となった水道管事件です。結局無罪となるもの新宿将軍も多少はおとなしくなりましたが、依然として財政界とのパイプも太かったようです。この水道管事件に関して、かの渋沢栄一が巻き添えをくって暗殺未遂される事件もおきました。

濱野は投機家として成功する前にありとあらゆる商売屋に奉公し、70件以上の仕事を変え、本人は100件仕事を変えるつもりだったけれど、だいたい商売のコツを覚えたので70件くらいで転職をやめたと語っています。

転職の理由が業務が合わないから人間関係が嫌だからという現代の一般的な考えとは図太さがちがいますね。

職を転々とする人も3日で仕事を覚えるつもりで転職を100件繰り返していけば、物事を違った視点からも見ることができるんじゃないですか。

だからこそ投機家としても機運をつかめたと。博徒が一発当てたという形なんでしょうけれど個人的にはそういう図太さが欲しいですね。

広大な敷地の濱野邸には鴨池があり、こちらは池から南にある新宿二丁目側をみた写真。高低差があるのが分かります。

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そして同じ場所から北側をみた写真。

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突き当りまで濱野邸は続きます。これが一つの個人宅敷地なのですからスゴイですね。華族でもここまで大きいのは徳川家、前田家並だと思います。ちなみに北側には前田邸があります。


1921年(大正10年)くらい 関東大震災直前 

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濱野茂は大正3年に亡くなりますが、その後、10年ほどたった関東大震災直前の地図でも濱野邸はあります。

内藤新宿は(徳川家に仕えた内藤家が由来)新宿2丁目となりますが、依然として内藤新宿以来の遊郭として発展していたとWikipediaには記述がありました。

が、

大正5年の東京府豊多摩郡誌によると

「いまや引手茶屋は全く衰退していて、当年の面影見るに故なし」

と書かれていました。文化(1806年)の頃は62軒の引手茶屋があったそうです。大正5年には健全であるという様子が書かれているんですね。

そういう一方、同じ時期には遊女が陳列されているのが問題になって写真見せになったという記事も多数あるので、内藤新宿をよく見せようとした本なのかもしれません。

大正7年東京史蹟見物には、太宗寺の閻魔像は聖堂(湯島聖堂かな?)から盗み出された孔子像が回りまわってモデルになっているという記述もありました。


1935年 昭和10年くらいの地図

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関東大震災を経て、濱野邸の広大な敷地はなくなりました。旧濱野邸の住居になっていると思われる部分は今のNTTドコモのビルになっています。

Wikipediaには

新宿二丁目は関東大震災では被害を受けなかったため、被害をうけた吉原の変わりとして新宿遊郭街はその絶頂を迎えた。

とのことでしたが、太宗寺には震災の慰霊碑もあります。

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高度成長前期

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戦後は合法・非合法の売春地帯だったようです。そのあたりについては詳しく研究しているホームページはたくさんありますので、そちらにお任せで・・・

バブル期

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新宿二丁目はゲイタウンとして1960年以降発展していったようです。現在は新宿三丁目の再開発でゲイバーも減りつつあるみたいですね。

品川もそうですが、街道の宿場町は色街になりやすいのだなと思いました。旅と性とはセットなんだなと。



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