見出し画像

【豊島区】目白駅付近

徳川ビレッジに行く前に目白駅の移動販売車でクレープを買い食べ歩き。帰りに寛永堂で甘味を食べました。(全部娘)

そして目白駅前で思い出して東京時層地図を開いてみましたが、今見ると範囲が狭すぎて目白駅付近だけの地図となってしまいました。

私は昔、目白通りを行ったり来たりする生活を送っていましたので目白駅を単なる通過点としか認識していませんでした。通りを一歩入ると色々な世界が広がっているのでしょうけれど、またあらためて。


2023年の地図

〇 現代の地図をみると南北に山手線が東西に目白通りが走っている状態。

〇 南東には学習院があります。
学習院の敷地内には血洗池という今時珍しいぶっそうな名前が。

〇川村高等学校、川村学園ということは同じ系列なのかな。

明治初期 1880年くらい

○谷地に田んぼ、その他は畑、現在地は雑木林という図。

〇地形図ではちょうど入江のような谷地になっている部分があり、そこに血洗池もあるようです。傾斜地から染み出した水が集まって池になっていたものとおもわれます。

明治末期 1810年くらい

〇 山手線が通って、学習院ができています。
学習院は天皇家も通う学校として有名ですが、元は江戸時代後期の公家の教育機関で、明治10年の華族学校開業式で明治天皇より賜った名前が「学習院」
もともと一般人はアンタッチャブルな学校。

なにかのYouTubeで見た事がありますが、真田幸村の子孫が学習院に入った所、周りは大名の子孫ばかりで、真田幸村は大名でないからコンプレックスがすごかったと言っていました。どんなコンプレックスなんだい…
コンプレックスとは他者との比較により自ら作り出すものなんだと思いました。

明治末期に華族女学校と合併して1808年現在の目白に移転。近くに近衛邸がありますが、近衛篤麿が校長だったときは学習院はここにはないので、近いから住んでいたわけではなさそうです。


〇 面白いのは巣鴨という表記。現在の巣鴨はここより北の池袋の先ですが・・・

大正関東大震災直前 1920年頃

○血洗池の由来は、赤穂浪士討ち入りの重要人物、堀部安兵衛がこの池で血を洗ったということにして、学生がつけたとのこと。
学習院の南東の早稲田には堀部安兵衛記念碑もありますから、当時の忠臣蔵人気は高かったのでしょうね。今でも忠臣蔵をモチーフにしたドラマは作られていますから、物語として使いやすいんでしょうね。


昭和初期戦前 1935年くらい

○学習院の向かいに川村女学校ができました。大正13年に川村文子さんという方が創設。

関東大震災をみて復興には女性の力が必要と思い翌年に学校設立したのだとか。ということは今年で100年か。私立学校が100年続くのは大変な事だと思います。
夫は、官僚で政治家の川村竹治。犬飼内閣時の法務大臣、5.15事件で罷免、その後は学校経過に携わるということから夫のバックアップも大きかったのでしょう。

川村夫妻は秋田出身の叩き上げエリートのようですし、学校を学習院の真ん前に建てるというのは華族階級に対する対抗意識もあるのかもしれません。


高度成長期前夜 1955年くらい 

この辺りは戦争焼失地域ではない所もあります。
高低差があるので、直接爆撃を食らわなければ、低地には火の手が回りにくいのかもしれません。
地図的には戦前と変わらないようにみえます。

バブル期 1990年くらい

バブル期、このくらいの時期には私も目白通りを走っていたと思うのですが、学習院も川村学園も同じ施設だと思っていましたね。
学習院についてはまた後ほど訪れてみたいと思います。
子連れでも中には入れる感じではないと思うので周辺という事になるでしょう。

今回は地図の範囲が中途半端になってしまいました。

帰りに目白通り沿いの寛永堂さんでお茶をしました。
白玉ぜんざいにオレンジジュースというキテレツな組み合わせです。最近私のスマホを奪ってゲームばかりで一緒に歩きにくい状態です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?