2017年1月8日 440ランチライブ

8日の440ランチライブの感想。編成はタブラとドラムとエレキヴァイオリン、通常は音楽の土台を作るリズムが前面に出て、旋律は合いの手や伴奏、または通奏低音のようにその背後で鳴っている(ように聴こえる)不思議な音楽でした。かといって打楽器の音から旋律が聞こえてこないわけではないのです。

旋律的なリズムを生み出すことーータブラにしろドラムにしろ、旋律が聞こえてくるように太鼓を鳴らすのは、並大抵なことではないと思います。旋律とリズムの境で楽器が鳴っていたようでした。特にドラムは音が流れるようにつながって聞こえて、柔らかい響きから大音響まで一つの太鼓からこうも違った音響を生み出せるのかと思いました。一番大きな音を出しても、決して耳に突き刺さるようではないのがいいなと思いました。

面白かったところは色々ありますが、2曲目のある箇所で、3つの楽器の音が重なった時、ふっと懐かしい感じがしました。フリーリズムに近い部分だったのか、3つのどれが主とも言えない音響のなかで、ヴァイオリンの旋律がドラムスやタブラの響きに包まれながら聞こえた時の束の間の感覚ーー初めて聴く音楽の筈なのに懐かしさが感じられる、ということはたまにありますが、ここでもまたこういう感覚を味わえた、と嬉しかったです。

時々「懐かしさ」とは何だろう、と考えます。何に対して懐かしさを感じるのか、それは何によるものなのか。それまで耳にした音の記憶ーー風のざわめきや音楽の一節などの実際の音響の記憶の堆積から何かが呼び覚まされるのでしょうか。それともより根源的なもの、たとえば日本人としての、あるいは人間としての感覚の琴線に触れるからでしょうか。音響がもたらす場の雰囲気に懐かしさを感じるのでしょうか、それとも音そのものに懐かしさが内包されているのでしょうか。そもそも懐かしさ、とはどのような感覚なのでしょうか。厳密に言えば「懐かしい」という感覚はその時々で微妙に違っているし、懐かしさを感じるポイントや理由も場合に応じて異なるでしょう。今回の場合を言えば、その部分が特に日本的だと感じたわけではないし、親しみのある旋律でもなかったのです。でもどこか懐かしかった。何故だろう。自然な音響を音楽にしたもの、に近かったのかもしれません。自然な音響と言っても、日常的な生活空間で聞こえるものだったり、動物や植物や天文から聞こえるものだったり、色々ありますが…。この「懐かしさ」については折々考えてきましたが、今後も引き続き考えていきたい。かなり飛躍しますが、私が何故ガムランを好きかという問題にも通じると思うので。

演奏の話に戻ります。ユザーンさんのタブラで面白かったのは、同型リズムの反復でも一回ごとに微妙にリズムが異なっていたこと。またそこから最適のリズムを選び出してループさせ、音をずらせることで新たなリズムを生み出していたこと。そう、リズムや音程は時と場合に応じて変化するもの、一定不変ではなく常に微かに揺れているもの。感覚をひらいていれば、意図して、とか狙って、ではなく自然に最適のタイミング・音量・音質でその時の最善の音を出せるのかな。ガムランを好きなままずっと練習を続けていけば、それに近づけるのかな。何十年後になっても到達はできないかもしれないけれど、目指すことはできる。もちろん、まずは基礎的な土台をしっかりと築くことが必要なのですが。

それにしても、タブラとドラムスの合い方は面白かった。おへそとおへそがつながっているような合い方で、次々に色々なリズムが繰り出されて、そこにヴァイオリンの音が聞こえていて、ヴァイオリンとドラムスが同様にセッションしている部分もあり、楽しそうで、一体どんなリハーサルをしたんだろうと思いました。

そういうわけですごい演奏だったし面白かったのです。演奏してくださった方々、ありがとうございました。最後までお読みくださった方、ありがとうございました。

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