インド音楽ライブ二夜

2017年6月4日(日)19:30開演 《シタールとモールシンとムリダンガムとタブラと》音や金時

2017年6月7日(水)19:30開演 《アルナングシュ・チョウドリィ来日公演》武蔵野公会堂ホール

6月4日、日曜の夜は音や金時でインド音楽のライブがありました。この日の編成はちょっと珍しくて、北インド古典音楽にはおなじみのタブラとシタールに、南インド音楽の楽器、口琴のモールシンと太鼓ムリダンガムが入る、そういう編成でした。

ライブは前半と後半で一曲ずつ行われました。前半のラーガはダーゲシュリ、まずシタールのアーラープがあり、拍節的なジョールからモールシンとの合奏になりました。モールシンの演奏を初めて聞きましたが、一つの音高しか出せないながら、息の強弱やリズムによって微妙なニュアンスが表現され、様々なリズムが繰り出されてとても面白かった。また、まだアーラープなのでリズム周期が一定ではなく、シタール奏者の周期にとらわれない演奏とモールシンが一つの核音で合う、その合わせ方は両者の息の合い方によっていて、北と南に分かれているのに旋律の終止の仕方がどうやってわかるんだろう、なぜ合わせられるんだろうと不思議でした。また、シタールを聴いたのが本当に久しぶりだったので、一音に含まれる独特の倍音やシタール特有の歌い方が新鮮で、心地よかったです。

次はタブラの入るガット。ゆっくりとした7拍子ルーパクタールから速いティーンタールまで。タブラが入ると音色が一段と華やかになり、またリズムが周期的になるので、アーラープの時のようにいつどこで核音に帰着するのかな、と身構えるのではなく、今度は拍子を数えるのが聴き手の仕事になります。軽やかで繊細なタブラの音、叩いている時の池田絢子さんの楽しそうな顔が今も思い浮かびます。

後半のラーガはチャルケシー、これは南インド由来のラーガだそうです。そして、途中一音音程が変わったなと思いましたが、これはキルワニ、そしてハンサドゥワニと、やはり南インド由来の違うラーガに移っていったそうです。ちっとも聴き取れなかった…。編成はムリダンガム、シタール、タブラで、シタールが二つの打楽器と交互に演奏していくのですが、途中からシタールが演奏を止めてムリダンガムとタブラの一騎打ちになったところがとても面白かった。最後の方では口唱歌でのやり取りもあり、また一方がある程度長い時間独奏してもう一方に受け渡す演奏様式から、16拍、8拍、4拍、2拍と周期がどんどん短くなっていってめまぐるしいやり取りが行われたり、打楽器同士だけでこんなに面白いことができるんだ!と思いました。ムリダンガムはタブラよりも低くこもったような音がして、時折カーンと響く高音が聞こえ、楽器の鼓面や打ち方はタブラに似ているけれど若干異なる部分もあって、地続きの同じ国なのに北と南でこうも違うのかと驚きました。

リズムは基本的に南インドのリズム、1拍目に到達する前の決まり手は二人が同時に叩くのですが、タブラが南インドのリズムをよくできるなあ、口唱歌も違いそうなのに。前半と後半とを聴き比べてみると、南インドのリズムの方が直線的に感じられました。バヤの音色の変化がないからかな、ムリダンガムの音色がタブラよりも硬く感じられるせいもあるのかな。ガムランのスタイルに例えると、北インド音楽はスラカルタ様式、南インド音楽はジョグジャカルタ様式に例えられるかもしれません。実際、ジョグジャ様式と同様南インドの方が古いスタイルを多く残しているそうです。あるいは、北インド音楽はスンダのガムラン、南インド音楽は中部ジャワのガムランに例えられるでしょうか。とにかく三人の音のやり取りを見聞きしているのが楽しいライブで、演奏者のお三方も終始楽しそうだったのが印象的でした。

この日は午後にマーラーのシンフォニーを聴いたので、午後と夜、二つの違った地域の伝統音楽を聴くことができ、比較するのが興味深かったと同時に色々考えさせられました。ヨーロッパ音楽とインド音楽は、片や楽譜通り一音も漏らさず演奏されるべき音楽、片や楽譜が無いに等しい即興的な音楽ですが、そこから受ける面白さ、感動はいずれも劣らないこと。どちらも伝統に根ざしていながら革新的なことを試みている音楽であること、日本でこのように異なる文化の音楽に真剣に取り組んでいる人が沢山いること、私はどうやら伝統的なものに強く惹かれるらしいこと。

一体なぜ私は伝統音楽、伝統芸能に惹かれるのか。伝統音楽、と一口にいっても色々なものがありますが、私はとりわけ伝統と革新のせめぎ合いがそこで起こっている、そういう状態に面白さを感じます。伝統というのは長年堆積された人々の叡智の結晶だと思います。演奏家はいわばその叡智を汲み出して聴き手に提示してくれるわけで、そこに更に演奏家自身の歴史、これまで習得された知恵や技術、新しい試みが加わることにより生じる混合作用が面白く感じられるのかもしれません。また、長い年月を経て培われてきた伝統という堅牢性と、それが一度きりしか表出しない一回性の儚さ、そのギャップに惹かれるのかもしれません。いかに長い歴史を持つ伝統的な音楽、芸能であっても、それがこの世界に現出するのは常に一度きりであること、そのライブ性があるからこそ伝統的な音楽や芸能は生き生きとした生命力を放つのでしょう。


水曜日のライブの話に移ります。この日は武蔵野公会堂にてアルナングシュ・チョウドリィさんの来日公演、共演者はヨシダダイキチさんときゅうりさんでした。

チョウさんのタブラのクリアな響き、耳にも止まらぬ早業での音のシークエンスながら、一音一音が前に飛んではっきりと聞こえる、これはなんだ、こんなタブラの演奏もあるのかと思いました。精密機器のように正確でありながら、音楽の流れやうねりは止まず、タブラを自家薬籠中の物にしているのが深く印象に残りました。

ダイキチさんのシタールの音色はあたたかくまろやかで、会場全体がその響きに包まれていくようでした。終演後「和音を弾いたりもされていましたか」と聞くと「それは錯覚です」と言下に否定されました。「左手だけで弾いたりもされていましたか」と重ねて尋ねると「今回は古典の奏法だけだったのでそういうことはやっていません」とまた否定されましたが、和音や左手だけの音が聞こえたように思われた私の耳は故障しちゃったのかな。

この日のラーガはヤマンでした。日曜日のライブの時と同様、この日も音階構成音が一音変化したように思われたのですがーーヤマンをヤマンたらしめている(と私が思う)第四音マの音が半音下げられてーーでも一瞬のことだったので、これが別のラーガへの移行だったのか、変則的な変化音だったのか、私には判別不可能でした…。

シンコペーションの連続や1拍目の前の空白など、面白い仕掛けがちりばめられていて一時間ほどの演奏中があっという間でした。シタールの音色が、楽器からではなく奏者のダイキチさんの身体の真ん中から出ているように聴こえ、不思議でした。

終演後、滅多に聴けないものを聴けたなぁ、としばし放心状態に陥ってしまいました。演奏者の皆様、ありがとうございました。最後まで読んでくださった方もありがとうございました。

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