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頽廃芸術展に見る、炎上商法的「アヴァンギャルド・キャンペーン」

 19世紀末から20世紀にかけて巻き起こった芸術の革命「アヴァンギャルド」の、戦時下の受難について思うことを書いてみる。

アヴァンギャルドとは?
 目に見えない芸術家の内面が表出した「表現主義」、フランスの表現主義「フォービズム」や意味を否定する「ダダ」、意識のもとではコントロールできない領域を現す「シュルレアリスム」。これらの芸術動向を含んだ広い意味でのアヴァンギャルド=前衛芸術は、19世紀の終わりごろからテクノロジーが目まぐるしく変化する社会の中で、芸術家が絶対的な存在(本質的な何か)を探求すべく産出された。
 革命後のロシアにおいては、マレーヴィチは政府に業績を高く評価され、ワイマールには、カンディンスキーやモンドリアンら抽象絵画の創始者らが教鞭をとる美術学校バウハウスが設立され、少なくとも1920年代までは、革新的な芸術の動向として世間に認められていた。ところが、第一次大戦後のファシズムの台頭によって、前衛芸術は大きな傷を負うこととなる。

さらされた」芸術 >ナチス的“崇高”なもの
 1937年、ミュンヘンで開催された『頽廃(たいはい)芸術展』は、ヒトラーが嫌う近代芸術を「さらしもの」にすることが目的だった。宣伝省までが乗り出し各フロアごとの説明を付けたパンフレットを用意し、「狂気と鉄面皮と無能力と退廃によるできそこないの産物」「奇形化されたへたくそ」と糾弾し話題性を持たせ、「ドイツ民族よ、来たり、みずから判断せよ」と積極的に民衆を導引した。そしてこの奇異な展覧会は、ミュンヘンだけにとどまらず30もの都市を巡回し、総計百万人もの入場者を数えたという。
 一方、〈芸術は美しいものを好ましく、壮大なものを崇高に〉、というヒトラーの信念のもとに開催された『大ドイツ芸術展』はどうか。ミュンヘンの新聞報道によると、開催3日目は3万人が『頽廃芸術展』を訪れたのに対し、同日の『大ドイツ芸術展』には6000人しか来なかったという。わかりやすい古典主義・写実主義の作品には、民衆は関心を示さなかったようだ。

弾圧か普及か

 さらしものにされた作品たちは、その後どうなったのか。焼却された作品も多いが、コリント、ココシュカ、マティス、ピカソをはじめとする著名な作家の作品が、国際オークションにかけられ海外に渡った。中には、ゴッホの『自画像』やピカソの『二人のアルルカン』など、現在誰もが知る名画もある。
 また、当時ナチのナンバー2だったゲーリングは、各地の美術館から押収した退廃芸術作品の中から、国際的に評価の高い30点を自分用に取りのけさせ、横取りしたという。権力者の中にも、前衛芸術の価値を認めていた人がいたのである。
 『頽廃芸術展』は、芸術の弾圧という悲劇である一方で、現代風にいう炎上商法のような一面があったのではないだろうか。この「キャンペーン」があったからこそ、アヴァンギャルド芸術は世界中に広った。そして、第二次世界大戦終結から4半世紀を経てからも、1962年、1987年、1991年と、『頽廃芸術展』は4度再開されている。もちろん、弾圧が目的ではない。

 参考文献
関 楠生『ヒトラーと退廃芸術:<退廃芸術展>と<大ドイツ芸術展>』河出書房新社 1992


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