母と娘なんか、仲良しなもんか

母と娘が、心の底から憎しみあわずに美しく、それはもう美しく『理想的な母と娘』として心から通じ合うようになれるのって、いつになればなれるんだろうか。母が私を産み落としてくれて、その瞬間から母と娘になるけれど、そこから何年経ったらなれるんだろうか?つまりわたしが何歳になれば、なれるもの、なんだろうか?

台所に立つ母を娘は素直に尊敬し、愛らしい娘を母は愛でる。

そういう風なまるでマイホームを持ちましょうっていうコマーシャルに出てきそうな母と娘、なひとたちって、物心がついた頃から割とそうなんじゃなかったのかなとか思っちゃってて、つまり、わたしにはとってもそういうふうになることが難しい。そうであるようにすることが、難しい。

つい最近わたしは23歳になったけれど、これって何歳になったかっていうのはあんまり関係ないんだろうねって最近気づき始めちゃってる。年齢重ねて変わることなんかじゃあ、ないのだなって。

母は母なりに、それはもう不器用な愛で両手いっぱいに精一杯にわたし包んでくれてるんだろうけど、それをそうだと思えなかった。わたしは少しばかり人より勉強ができたり、家族で新たに日本に来ても言葉もすぐに流暢に話せるようになったもんだから、愚かな母だと自分の母を見下して行きてきた部分が少なからずあった。ということは、わたし自身で思春期からずっと自覚していた。


わたしの母は、決して愚かなんかではない。

わたしより何十年も先に生きた先輩としての知恵は溢れているし、わたしよりはるかに我慢強い部分がある。だけれども外国人である母は日本に来て、日本語がうまく上達しなかった。

わたしが母に突っかかっていた大きな原因はそこにある気がしていて、日々日本語を母語として努力を重ねて成長していくわたしは、細かなニュアンスを母に日本語で伝えても伝わらなくなっていたことが腹立たしかった。

 

周囲の人間が、日本人の母としてなら当然、というようなスタンスで作ってもらっていた弁当を持参していることがとても羨ましかった。

母は、日本人らしからぬお弁当しか作ってくれなかった。周囲の人間が、母にしてもらっていることが、してもらえないことが多々あった。文化の違いだから仕方ない、だなんて幼かったわたしには思えなかった。

ああ、そういや。ふと、思い出した。

わたしは幼少期からゆで卵が好きだった。母はゆで卵を作っては、一生懸命に殻を剥いてくれた。母の剥いてくれるゆで卵はいつもぼろぼろで、薄い膜なんて全く上手にとりきれていなかった。ゆで卵は剥いたらつるんとしているはずなのに、白くて綺麗な表面が出てくるはずなのに、わたしの母がわたしのために剥いてくれるゆで卵は、いつも月のクレーターかのごとくでこぼこしていて、時々黄色い部分が見える悲劇にも見舞われていた。

 

 

つるりとした綺麗なゆで卵が、食べたかった。

わたしは母に文句を言った。

剥いてくれなくていいよ、とつっぱねた。

母は「いいわよ、してあげるからどんどん食べなさい」と笑顔で答えた。わたしはその笑顔が嫌だった。だったら綺麗に剥けよ、と怒っていた。剥いてもらってなんだその態度、と今ならそりゃ思える。だけれども幼かったわたしには、そんな母の不器用な愛が憎たらしくて、むかついて、邪魔だった。

 

わたしの食べるゆで卵のスピードに、母の剥くスピードはついていかない。

もたもたとしているスピードを口うるさく急かせば、母は更に汚く剥いたゆで卵を差し出してきたのだった。わたしは、むすっとした顔をして、無言でリビングを出て行った。追いかけてくる母に、うるさい邪魔だ、と言い放った。

ゆで卵を綺麗に剥けるかなんて、日本と海外の文化の違い、なんて言葉では片付けられないことだとわたしは思っていた。別にアメリカ人だろうがインド人だろうが、ゆで卵は食べるだろうし、綺麗に剥けるがほとんどだ、と思っていた。文化を理由にするな、と。

 

不器用な母がいやだった。わたしは自分でゆで卵を剥くと、するりと綺麗に短時間で剥けるのだ。どうしてこれができないのだろうと、母を心の中で見下していた。ゆで卵以外のことでも、母のなすこと全てが不器用に感じられていた。成長しない日本語が憎たらしかった。ときには、ここは日本なんだから日本語で話してよ、と母の英語で話してくる楽しい話題をむしゃくしゃと遮ったこともあった。

 

丁寧に考えれば、わたしにだってそりゃ、今なら分かる部分は多くある。

母は外国人だ。不安でいっぱいなのに、日本っていう未知の国に連れてこられて、とっても不安だったろうなって思う。今なら、思える。彼女はずっと我慢してきたりしたはずなのだ。望んでの留学なんかじゃない。彼女だって母国で暮らしたいのだろう。

日本語が上達しなかったのは、日本語で話す相手がいなかったからだ。それどころか、話す必要がなかったのだ。日本で専業主婦だった母は、何を話しているかも分からない日本のテレビを日々眺め、愛犬の世話をする。夫や娘は学校や仕事で忙しい。そんな状況で、どうやって上達しろというのか。誰が教えるというのか。何故そんな簡単なことにわたしは気づかず、それどころか、憎み、腹を立てていたのか。 

 

当たり前に気づけることなのだ。

これが、どこか隣のお家や友人の家で起きていることなら、簡単にそりゃこうだからじゃないか、って気づけるのだ。

でも、自分の家だと難しいのだ。

いや、気づいていてもそうだってなんだか思えなくて、言い訳にし続けてしまうのだ。 

わたしは、母が大好きなのだけれど、未だに実家に戻って会えば衝突を繰り返す。それは、とても些細なもので、運転して送ってくれたりするのにその運転のモタモタした部分なんかに猛烈に怒りを覚える。友人や恋人やなんやら別の関係性の他人には、そんなことでいらついたことなんか、一度だって無いのに。母には些細なことで、まだいらっとする。 

 

なるほどなあ、と思う。

まだわたしは、たっぷりと、それはもうたっぷりと母に甘えているのだなあと思う。

苛ついているわたしに、母はきーっと対抗する。同レベルで怒ってくる。母のわたしへの怒りのスイッチも、簡単に押される仕様になっている。でもそれは何年もの間、わたしが一方的にぶつかってきたのだから、そりゃそうなってしまうってもんである。

母親は、確かに母親だけど、聖母じゃない。

わたしという人間を産んでしまった瞬間に、普通の頼りない大人だったのに、母という肩書きを与えられる。急に、である。なのにも関わらず、子供からは全知全能の神様だと思われている節がある。実際、あまりに幼い時は親というのは神様のような存在かもしれない。

でも、一定の年齢になったらば、子供は気づかないといけない。親だって人間で、当たり前だけど失敗する生き物で、部分部分によってはわたしより不得意なこともあるような人間であるという、それはもう当たり前のことなのだ。

だけどもわたしは、気づくのが遅かった。ずっと甘えていた。大嫌いだ、死ね、と時には母に言い放った。母もわたしに同じ台詞を返した。その時に気づくべきなのに、違う人間だってことに気づくべきなのに、わたしは『なんでこいつ親なのにこんなこと言うんだ、信じられない』と思っていた。同じ台詞を言っているのに。

わたしは親に自分より上であることを、上の存在であることを求めた。それが当然だと思っていた。それはすなわち、自分が子供という立場に立ったままでしか親を見ることができなかったということだ。

母の苦手だったり駄目な面を、一切認めない、という甘えた地団駄だ。愚かだ。母だって時には本気でわたしを恨んだだろう。産むんじゃなかった、と言ったことだってあるというのに。

 

少しは、わたしもどうやら成長している。

さすがに12歳ぐらいの時の親への態度よりはマシだ。

でもまだ甘えきっている。

ぽろっとした瞬間に、にじみ出る。


こんなにも母のことが好きなのに、こんなにも母を憎たらしいと思うのに。うまく接することができない。

理想的な母と娘って、最初から憎しみあうことが一切ない、絵に描いたような素敵なマイホームな感じなんだろうか?憎しみ合うことも通りすぎて、お互いに成長したりぶつかったり、ちょっと甘えすぎて退化したり、そんなことを繰り返しながらしていくのもひとつの理想的な母と娘、として誰か認定してくれやしないか。

汚い、あのゆで卵が、食べたい。

一人暮らしをしながらわたしは夜中にひとり、泣いている。でもこんな姿、決してあの憎たらしいババアに見せるもんか、ってどこかで思ってる。

 

まだまだ先は遠い。

(2013年12月14日のブログより転載)

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