客人として迎え入れる

昨日は鎌倉散策へ。浄妙寺でランチを楽しむマダム達を眺めながら石釜パンを買い、報国寺で竹林に見入る。なんて美しいお寺。美しい苔と竹林。

鶴岡八幡宮のほうに向かって歩いていると、通り沿いに「鎌倉投信」看板が。思わずそちらのほうへ足を運ぶ。噂の、古民家をリノベーションしたというオフィスを観てみたいなぁと思い、少しどきどきしながら先に進む。

住宅街の通りを少し入った山沿い(丘沿い?)の斜面に向かう土地に佇む鎌倉投信のオフィス。素敵だなぁ…と思いながら眺めていると、「どうぞ、ご覧になりますか」と庭で一服していた方から一言。嬉しくて、お庭を見せて頂く。ちょうどお昼時だったからなのか、いつもこうして訪れる(迷い込む?)人にそのように接していらっしゃるのか、「お庭と畑を入れると、200坪くらいあるんですよー」と丁寧に説明してくださる。

自分が「お客」として接してもらっている、と感じる。どこの誰かを名乗る前から、私は「お客」として迎え入れられている。その器の大きさ、みたいなものに驚きとともに感激してしまう。もちろん、器が大きければ大きいほうがよい、オープンであればオープンであるほどよい、という話ではない。オフィスであることを考えればなおさら。でも、ここで働く人たちは、その器の大きさや、オープンの度合いみたいなものを、この辺りに設定しているんだ…それに感激する。

まずは「お客」として、「客人」として受け入れるということは、ある意味無防備なのかもしれない。都心ではそういうオフィスは稀であるし(もちろん、カフェとか、オープンであることを公言しているスペースを設けているところもあるけれど)、それによる目に見える「メリット・デメリット」とか考えてしまったら、即刻そんなことはしないほうが賢い、ということになるんだと思う。

でもそういう問答なしに、お庭に案内してくれた方に対して、オフィスの中から庭に向かって窓越しに会釈してくれた方に対して、私は感激したし、きっと(少なくとも暫くは)忘れないと思う。

お礼を言ってオフィスから鎌倉駅に向かって歩きだす。

自分のもとに訪れるものを、まず「客人」として迎え入れることの大事さ、について考える。まず「敵」として追い払うことだってできるとしても。そのほうがずっと楽で、無駄がないとしても。

賢く楽に無駄なく生きることよりも、誰かの気持ちに(少しだけでも)触れて、少し覚えておいてもらうように生きることを、優先してみることについて。(30w4d)

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