森の記憶を思い出す
森には、音にならない音がある。
ひとり山を歩いていると、そんな音を聞くことがある。
その日は、よく晴れた初夏の日。
高原へ続く森の中を、早朝から登る。
毎日勢の何人かに追い越されたあとは
左手に遠く流れる河音を伴奏に、黙々と歩き続ける。
登りはじめの気怠さがようやく、登山服の内側を心地よく蒸らし始めた頃、耳に相棒となっていた川の音が遠ざかっていった。
登山靴が土をザッザと踏みしめる音だけを残し
私は、突然森の中にひとり置き去りにされた。
怖くはないけど少しだけ淋しい。
そしてもっと少しだけ、嬉しい。
あたりの空気が変わってゆくのを肌が感じた。
見るとぽっかり開けた場所が現れ、
真ん中にはお地蔵様が立てられていた。
前には朽ちかけた石のベンチが置かれ、ともかくここまで登ってこられたことがほっとするような、そんな気持ちが心を満たした。
お釈迦様がいなくなったこのどうしようもない世の中で、人々を救うため一人残ってくれているのが地蔵菩薩様なんだよという話を、どこかで聞き覚えていたからかもしれない。
手を合わせたあと静かにベンチに腰をかけた。
目を閉じ、見捨てられた森の中で耳を澄ました。
*
思えば、山ではこうした「空気が変わる」瞬間に度々出会う。
ある古道の山道では、どうということもない小川を渡った途端に
空気がズンと重くなり、ラジオが止まった。
スマホを見ると、圏外になっていた。
またある島の森では、ふと気付くとまわりの音がしんと消えているのに気付いた。少し寒さを感じて見まわすと、まわりから濃い霧が取り囲もうとしていた。
しかし森の静かな音は恐ろしいものばかりではない。
例えば新緑の森の中、風がさぁっと吹き抜けるとき。
樹々の葉は一斉に揺れ、枝も揺れ、休んでいる鳥が揺れ、落ちた葉が揺れ、虫たちが揺れ、ひそんでいる動物たちが揺れ、見上げている私が揺られているのが、聞こえる。
*
それは森の呼吸を聞くこと。
深くて大きな森の呼吸と心臓の音を、
胸に耳をあて聞いているような、静寂を聞くこと。
気を抜くとそのまま飲み込まれてしまいそうな
(飲み込まれたいような) 誘惑に、あらがいながら。
大昔、まだ意識のはっきりしていなかった頃の私たちは、
たぶん限りなくその呼吸の一部だったのだと思う。
お地蔵様の懐でひととき守られながら、その深い寝息に聞き入っていると、その頃の記憶を少しだけ思い出すような気がした。
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