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釣らないタイトルを地味に目指す。

釣らない。
なぜなら、特に読んでもらわねばならない内容ではないから( ´ω` )b

でも、書き出す動機みたいなものは自分の中にあるので、今日もちょっと書きます。

綾野さんの件(前記事の伏字はなんだったんだ)、遠藤さんも参加してきて、その記事をまんまと読んだ私です。
自然と脳内がクローズZEROⅡに引き戻されてゆき、なんだか他所の同窓会に勝手に混ざっている感すら出てきました。
逆に、これはこれで、みんな大人になってる感があって良い(混ざり込んだ他人)。

阿部亮平さんとかも、他ドラマでいい役をしているとすごく嬉しいです。
近所のおばちゃん目線。

しかし、芸能事情を脇に置いて、いろいろ考えるあれです。
これ、男性俳優さん同士のやりとりだから、なんだか「男の友情・その後」みたいなドラマ調になっていますが、女性俳優同士のやりとりだったら「根に持つ女こえーw」「年増の場外バトルこわww」「女はすぐ感情的になる」「見えないところでやれ」「女陰湿」「嫉妬じゃん」「売れてから言え」「直接言えない時点で負け犬」「●●しか勝たん」みたいなこと書かれると思うんです。
と、思うくらいに私は世間というものをあまり信じていない。

そういう意味でちょっと冷める自分がいる、というのが一つ。
(これは俳優さんに対してというより、そういう世間と、そういう論調を形成し助長してきたマスメディアに対して)。

あとは、俳優業、そういう世間と対峙する第一線にいつまで立たされるんだろう、というのがふたつめ。
これはこの前書いたからいいんですけど。
なんというか、知名度が高まり、嫌な言い方をすれば売れる、と、絶対に見える景色が変わってくる。環境が変わる、というのはそういうこと。
貶す人もいるけど、持ち上げる人も同じくらい出てくる。
売れてる=すごい=自分より上、としてしまう人はいる。私自身そう思うことが多々ある。いや、実際、結果を出すってものすごいことだし
出そうと思って出せる結果ばかりではないことなんて、星の数以上にきっとある。
そして、そこに自分の能力では辿り着かないと感じる人間が、その人(すごいと思う人)を崇拝することで何かを満たす、ということはある。というか、私がそう(さっきから何やねん)。

何かのファンでいるとき、そういう要素がどこかにある。
だから、崇拝対象を否定されたり、貶められていると感じるとき、防御姿勢に入ってしまうというか。崇拝という同期の仕方があるというか。
(社長夫人が社宅で威張る例はちょっと違うか…しかも古いな…社宅とかもうあんまりない…)
今回の記事を読んでいて、自分にそういう働きがあると改めて感じました。

で、ここからがただの一般人大人として思うこと。

高岡さんにしても、遠藤さんにしても、東谷さんにしても、なんか、綾野さんのことが好きだったり、関わりを楽しく思っていたことがあるからこそ、それを否定されたような気持ちになり、傷つき、傷つくゆえに失望したり暴露したりしたのかなと。失望の前には期待があるし、怒りの前には傷つきがある。
そういう友情(崩壊前)に、ものすごく憧れていたのです。私自身。
いかにもザ・男の友情!みたいな。
でも、ファンとか、そもそも女性は、そこに入れないんだなぁ、ということをしみじみ感じる人生でした(まだ終わってない)。

高岡さんにしても、遠藤さんにしても、たとえば女性を「斡旋」されていたこと、その遊び方自体に対する批判ではないんですよね。
(高岡さんは、以前遊び方にも言及していましたが、綾野さん以外の事例はスルーしていたところをみると、そこに違和感はそんなに抱いてないのかなと)。
女性を「斡旋」という、女性の「モノ化(取引対象化)」は、ものの見事に透明化していらっしゃる。マスメディアの人は言葉を使うプロのはずなので、意図的かもしれない。
その時点で、正直同じ穴の貉感はあり、そこを男の友情でコーティングしてしまう魔法こそがホモソーシャル空間なわけで。
女だと因縁呼ばわりされるものが、男だと恩とか義理とか「お世話になった」そういう話にすり替えられる。

でも、そこに走る、それが成立してしまうのが男性の生きづらさだというのなら、そこから見直さないといけないんじゃないかと思っており…つまり、私が幻想を抱いた「男の」友情なんてものも、他者を縛る鎖になっているかもしれないんだなと。

そして、こういう構造こそ、たしかに芸能界に特化したものではないよな、と思います。
女性が男性の上司になったり、女性がこの「遊び方」をしていたら、少なくとも同性も味方になんてならない。性欲っていうもので同調してくれる人なんていない。同情してくれる人もいない。むしろ全方位からフルボッコ四面楚歌孤立無双。

実際に、女性が上司になったとて、その上に男性上司がいる以上、構造はあまり変わらない…と、思いました。実体験上。
これは個別ケースですけども、男性上司は自分の都合のいいように動く部下を求め、その中に私たちの女性上司も含まれていた。
女性同士わからないことがないわけじゃない。家族の都合で休みとか、体調不良とか、心のバランスを崩すとか、いくらでもある。
それを下が理解して呑み込む…でも、権力はあるからその人を持ち上げる、その人に判断を仰ぎ頼る人が出てくる。

そしてどうなったかというと、板挟みになった女性上司がより苦しんだ(から、下に対して過干渉気味になった…というとマイルドだけど、別種のハラスメント要素を含むようになった。女性にとって愚痴や雑談は大事なバランスをとる手段なのですが、権威者がそれをすることの難しさってある…)。
男性上司はそれを女性上司の力量不足として切り捨てた。
(男性上司はその女性上司に対して、自分の部下としての教育はしても、上司としてどうあるべきかの教育はほとんどしていない。組織全体を見ていない男性上司の力量はこの際ほとんど問われていない)。
(上司としての教育なんてない、自分で勉強しろという向きもあるでしょうけれども、背中を見て学べとか、見て盗めとか、他者の自主性に甘んじて説明を怠ったり、説明をする努力を避けるのはまた別種の怠慢だと思うのですが)。

ここに性別は関係ない、とはいえない…と、私自身は思っており。
個別の性格によるもの、だけともいえない。

私は男性を男性性のみで軽んじることもしたくなく「男は単純だ」「男はエロいことばかり考えている」といった類の言説との距離も慎重にとってきたつもりなのですが…
どうも、じっくり観察をすると、そういう認識で同性の序列づけをコントロールしている(しようとする)のは、やっぱり男性なのではないかなと思ってしまう…。だって、マスメディアもまだまだ男社会…。
なんなら記者名のあとに年齢と性別を書いたっていいんですよ。だって、被取材対象に関しては、だいたい年齢を書くじゃないですか(性別は既に知られていたり文脈でわかるようになっている)。
そして、記者名に年齢と性別を書くなら、さらにデスク・編集担当の方の名前・年齢・性別がわかるようになってもいいんですよ…
だって、野菜だって生産者名を表示して信用を得てるのに、なぜ情報生産現場はそこを伏せますか…リスクがあるからだとして、そのリスクを自分より下の立場の人にばかり負わせてしまっては良くないのでは…。
特にスポーツ新聞。週刊誌。自分の価値感を見直す機会はいつですか。
いつまで「読者がそれを望むから」を理由にされねばなりませんか。
望むも何も、あなたに私(一読者)の希望を話した覚えがない。話したとて聞いてくれた実感もない。なぜなら実際に変わらないから。変わろうとしないから。
無反応・無関心こそ、最大の拒絶でしょう。なのになんで理由付けとして利用され続けなければいけないのか。
利益を出すから。閲覧数を伸ばすから。広告収入につながるから。
下衆な関心、刺激の方がわかりやすく、人を安心させるから。多くの人が「ご立派」に生きる余裕も気力も時間も動機もないから。
それは「望み」の話ではなく、ある種の薬物みたいなものだと思う。
無責任情報やりとり依存のループを生む(副作用:思考停止…正確には停止しているんじゃなくて、過剰にすることで無効化してしまう感じ)。

日本の企業はなんでそんな姿勢に溢れてしまっているのだろう。
疲れているからか。みんな大変だからか。他者都合に呑まれているからか。そう思う。じゃあこれはいつ誰がどう変えられるのだろう。と考えた時、自分から何でもやってみないといけないんじゃないかと思って、私は今に至ります。

オンナがいて一人前、オンナで遊ぶくらいで一人前、家庭を持って一人前、子どもがいて一人前、子どもを育て上げて一人前、部下がいて一人前、部下を育てて一人前…以下略。
お前の女房(ヨメさん)の顔は、胸は、体型は、身体は、料理は、年齢は、性格は、セックス頻度は…以下略(今でも嫁を抱けるの偉いねとか、男性同士の会話で聞いたことがあるのですが、なんというかこういうナチュラルに人権意識もクソもないクソに触れるのが一番生命力を削がれる…)。
気持ち悪い価値観だと思う。生きてるって別にそういうことじゃないと思う。

そういう言外のプレッシャーが、個々人を追い詰めているケースもたくさんあるのかなと思う。
一人前幻想というか。誰がどう認めたら一人前なんだ、と掘り下げていくと、そこに謎の世間があるような気がする。
知らぬ間に自分の中で、生きていくのに必要だと思って内面化してしまった世間知。
そんなものが、いくらでも人を不幸せにしてしまう…気がする。

今、兄が中国に行っており、中国の人に対してニュースなどを通して「こわい」というイメージを持っていた兄は、現時点で「こわいとかはない」と言っていて。
なんか、そういうことなんだろうなと、我が事として思います。
先入観。イメージ。そういうものでいくらでも相手を決めつけてしまうことがある。そういうの抜きで他者と出会うことが難しい。
それは情報がいくらでもあるから。聞いてないのに吹き込まれるから。
(広告収入のために)。

私は綾野さんと山田さんに対して、そういう情報をあまり仕入れないようにしていて。ファンとしてそれはどうなのかと思いつつ、人として誠実でありたいというか。
というのも、本当に…演技とかは未だに全然わからないですけれども。
すごい俳優さんだと、私は思っていて。
何がすごいかって、役のことを考える力、役を生きるために割く労力、気力、そういう…結局精神論かよ、みたいになってしまうんですけど(素人なので許されたい)。
それは、私が仮に俳優という生き方を選んだとしても、一生辿り着かないくらいのものだと思う。そういう仕事に対して、私は敬意を払うことを忘れたくない。

でも、人間がやってることだから、プライベートというものがある。
そこにどこまで興味関心を持っていいのか、というのは常々考えます。
そこで、現実と虚構の狭間を見据えないといけないといいますか。
その線引きのひとつが、家族だと思っていて。
これは実際の仕事でもそうですけど、どんなに腹立たしい上司でも、その人に家族がいたら、その家族にとってその人は唯一無二の家族なんだと。替えは絶対に利かない存在なのだと。
そう思うと、何を言っても許される、とは思わない。
平気で傷つけていい、甘えていい、頼っていい、とは思わない。
もちろん、ハラスメントをしてよいとも思わない。
これを忘れてしまうのが、人の上に立つ側の人なのでしょう。
(消費者が陥る罠がここでしょう。上に立っている気になれてしまう)。
まして、放っておいても他者が肯定したり、持ち上げてくれるところにまで行ってしまったら尚の事。
でも、そういう…持ち上げる人達は、崇拝(利益)が尽きたら遠慮なく落とすので。
それを本能的にか理解している「結果を出した(出している)人」もいて、そうすると人間をどう信じたらいいかがわからなくなる、と思います。
肯定してくる人すら、否定予備軍になってしまうというか。

なんでそんな知った風なことを言うんだ、結果を出したこともないくせに。
というお言葉は御尤も。
なにせ想像力だけで生きてるようなオタクの言なので、話半分に受け止めてください。

あと、家族がいない人になら何を言ってもいいとも思ってないですよ。
人間、命には常に可能性というものがあるわけでして。
未来にその人を待っている人がいるかもしれない。誰しもにその可能性はある。としたら、やっぱり平気で傷つけるのは駄目でしょう。
その可能性すらない人は?と私の中の屁理屈マンが言うけれど、それだって、一人の人間が生まれてくるには何千人もの先祖がいて、一人の人間が生きて生活をするということは何万何億のあらゆる変化が常に起きている状態だから、それもやっぱり軽んじてはいけない
と、思う。

そんなことばっかり思ってるから頭が常にショートする…それで自分が死にたくなってれば世話が無い( ´ω` )だいじょうぶ。バランスを取るために体力づくりからちゃんとやってます。

で、綾野さんの話に戻すと、綾野さんもご結婚なさって新しい家族を築いたわけで。その時点で、第一線で綾野さんを支えている存在を軽視するようなことを私はしたくない(それまではマネージャーさんだった…今も第一線にいらっしゃることは間違いないと思うけれども)。
ので、何を暴露されても、その存在否定に便乗するつもりがない。
そもそも、他人の遊び方に口を出す権利がある立場にいない。
(ただ、好きな対象を否定されること自体が、ファンとかオタクにとって単純にしんどい。そのしんどさから離れていく人はそりゃいると思う。だって楽しいならともかく、しんどいためにファンでいるって意味がわからない…それを乗り越えてこそだぞ、みたいになったら宗教じゃないですか。根性論じゃないですか。そういう在り方は事務所の側から積極的に警戒してほしいですね…ファンも人間です)。

で、一介のファンがここまで考えて自分の在り方を決めているんですが、同業職で近くにいらっしゃる方の在り方、それでいいですか?
とは、思います。

…人間、変わる時、変わろうと思える時っていうのがあるとしたら、否定された時じゃなくて、信じてもらえた時なんじゃないかなぁ、と、私なんぞは思います。
ねじくれひねくれいじけまくった人間としての私は…そう思います。
だからって、信じてたのに!みたいに勝手に期待されるのも、それなりに嫌ですけど…。
無責任に信じるのも、それなりにズルいと思う(わたし面倒くさいの極み)。要は、他人を自分のいいようにしていいのか、って話で…私は、他人を自分のいいようにしないで済む自分になる(そう在る)のが愛なのかなと思って…ありとあらゆる放置プレイをかまして自分に向き合ってます。自己中。

だから私は、綾野さんを信じることをやめはしないです。
今はGo Ayano名義なのかな。まぁ、どっちにしろ。
別に完璧だから好きになったわけではないですし。
クズっぽいところがあったら即嫌いになれるわけでもないですし。
(そういう人に惹かれる人間にとって、そういうところが可愛く見える病理ってなんなんでしょうね…)。
他者を否定できるほど、自分自身たいした人間じゃないですし。←これが大きい。

むしろそうやって、ファンや自分を好いてくれる人を試させてしまうこと自体、責任を感じなくもない…いや、それは行き過ぎか。他人は他人。思いあがってはいけない。その一線は忘れずこちらも持たないといけない。
(そこにつけ込むのが人気商売・水商売)。

けれども、山田さんにしろ綾野さんにしろ、人間不信に陥らせないためにも、一生、私のいいように利用しない、と決めているファンがここにいます。だから別に近づかない。サインとかも特にいらない。人に自慢する要素にすらしない。知り合いじゃない。
生きてる世界が違うなら違うでいい。生きていてくれればいい。
でも、その距離で出来る最大限は惜しまずにやる、って思った時に、映画を支えようと思って、少しずつでも動いてます。
ファンにそこまで思われる俳優、そんなにいないと思いますけど。
そういう誇りを与えたいくらいには、彼らのやったことをすごいと思っている人間がいるんです。
平気で話のネタにする前に、一瞬でも頭をよぎれたら幸いです。

あー。朝から頭を使ってしまった。朝ごはんたべよう。
おなかすいた。頭いたい。今日は庭仕事とか、掃除とか、生活をちゃんとするー。生活って大事だー。

人気者だろうとなんだろうと、そこを忘れた人は崩れ落ちたときどこまでも崩れ落ちる。生活って大事ですぞー。
それが出来ている一般市民を舐めちゃいけないぞー。私からみたら、みんなすごいんだー。生きるって大変だー。すごいんだー。
ではー。普通という壮大さを今日も生きるー。

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