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ペリリュー島で想うこと

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慰霊碑もたくさんあります。

以下引用

「本物」感じさせる戦跡の数々
中川大佐率いる守備隊は、飛行場を米軍に奪取され、島の9割を占領されながらも、日中は洞窟に潜み、夜間に行うゲリラ戦で粘り強く戦って持久戦に引き込んだ。太平洋戦線での苦戦が続く中、ペリリュー島の奮闘は広い関心を集め、天皇は11回もの御嘉賞を下賜し、日本から3000キロ離れたペリリュー島はいつしか「天皇の島」と呼ばれるようになった。

戦闘終結後も日本軍の一部は洞窟に隠れ続けた。その数は34人。米軍の施設から缶詰などを盗みながら、終戦後もしばらく抗戦を続けた。戦争は終わったと米軍が説得しても、なかなか耳を傾けようとしなかった。


中川大佐らが最期の地とした山中の石碑

ペリリュー島での戦闘は、日本軍の善戦=米軍の苦戦というストーリーでしばしば語られるが、大きな構図では無謀だったあの戦争の中の小さな善戦を、過度に美談に仕立てようとは思わない。しかし、われわれの先祖が祖国や家族を守ろうと命を賭けて困難な環境で戦い抜いた事実に対しては、深く頭を垂れたいとペリリュー島の戦跡を巡りながら痛感した。

パラオで戦場となったペリリュー島とその隣のアンガウル島には、今なお多くの戦跡が手付かずのままで残されている。パラオ政府はエコツーリズムを重視し、積極的に戦跡ツアーをアピールしてはいない。それがかえって戦跡を昔のままの姿にとどめており、「本物感」を見る者に与える一因になっている。

博物館の展示物にはない生々しい残骸が戦争のイメージを喚起させる。パラオを訪れたならば、日本人としてぜひとも足を運ぶべき場所。それがペリリュー島の戦跡である。

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ラストコマンド

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神社もあります

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有名な中川大佐。

今の平和な日本や外交は、数々の歴史の中で、多くの名もなき先人達が、国や家族や大切な人を想い戦った結果です。

絶対忘れてはいけない歴史に手を合わせ、継承していきます。

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