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資本主義は「数えること」と「くらべること」で出来ている



社内勉強会TPA(Tribal Professional Academy)で財務・会計のお勉強をすることになった。

前職で事業責任者としてP/L作ったりしていたのだが、実は財務と会計の区別すらできていない私としては鬼門にあたる分野だ。

途方に暮れる我々に、TPAチューターのかめちゃんが大変わかりやすいチャーリーさんの財務3表図解を紹介してくれた。わかりやすい!感謝!!

上記のチャーリーさん図解があまりにわかりやすかったので引用する。


B/Sで元手と使いみちのスナップショットを取り、差分における利益の推移(すなわちB/Sにおける純資産※「利益剰余金」の増減)がなぜ起こったかをP/Lで説明し、一方企業が操業し続けるのに不可欠な「現金」の推移(すなわちB/Sにおける現金の増減)がなぜ起こったかをC/Fで説明するのが財務3表の役割分担になるということである。

さて、財務諸表には役割分担があるということがわかった。

では財務諸表の目的とはなんだろうか。
いったい何のために、これらの表は役割を分担して任務を果たそうとしているのか。

少し時代をさかのぼって、財務3表と言われる貸借対照表(B/S)、損益計算書(P/L)、キャッシュフロー計算書(C/F)の由来について調べてみたい。


はじめに貸借対照表があった

財務諸表、というか決算書の起こりについて調べると、16世紀ヨーロッパの大航海時代に行き着く。

当時の航海は、海を渡ってヨーロッパにない貴重な品々(香辛料とか、黄金とか、奴隷とか……)を持ち帰ることができれば莫大な収益を得られた反面、船が途中で沈んでしまえば航海に要した費用全てが文字通り水の泡と消える、典型的なハイリスク・ハイリターン事業だった。

ここでおそらく必然的に、経営と資本の分離が起こった。

大航海時代とは、一攫千金を狙う航海者と、自らの資産を(自らの命を危険にさらさずに)増やしたい資産家たちの、共同プロジェクトの集積だったと言えるだろう。

この共同プロジェクトにはステークホルダーたちを納得させられる共通のルールが決算書だったのだ。

そして、当時の決算書とは今で言う貸借対照表の原型と言えるものだったようだ。

航海のためには、「船を作る(もしくは借りる)」「船長や船員への報酬を支払う」「航海先で物物交換するための積み荷品を購入する」など、多額の資金が必要となります。

その為、一人のお金持ちにすべてを出資してもらうという従来のスタイルから、一人当たりの負担額を減らす代わりに、多くの人に出資してもらえる形態で資金を集めたのです。

~中略~儲けた利益を分配するための根拠として、決算書は作られました。

注目すべきは、大航海時代における航海はプロジェクト方式であり、ゴーイング・コンサーンではなかったということだろう。

だから必要だったのは、誰から調達した幾らの資金を、どのような用途で使い、どれくらいの利益を分配のテーブルに載せられたかということだけだった。それを1枚で表現できたのが貸借対照表だ。

余談になるが、この資本と経営の分離について触れると思い出すのはコーポレートガバナンスの話である。

コーポレート・ガバナンスは基本的に性悪説で出来ている。
~中略~
これは主に株主と経営者のエージェンシー問題に代表される、企業を構成する人々の利害対立が株式会社という仕組みそのものに内包されているからだ。

コーポレートガバナンスにおける主役の1つである「外部監査」が会計事務所によって行われていることでもわかる通り、会計とコーポレートガバナンスは「経営と資本の分離」を性悪説に基づく信頼関係でつなぎ合わせるためのツールとして共に発展を遂げてきたのだろう。


東インド会社は「損益計算書あれ」と言われた(想像)

いや、おそらく東インド会社はそんなこと言わない。

損益計算書はいったい何時頃どのような必要性を持って生まれてきたのかを知りたかったのだが、調べ方が悪いのかどうも判然としない。

ただ、損益計算書が必要とされる状況から逆算するなら、それはおそらく株式会社の誕生から産業革命の勃興に至るまでのどこかの時点であるような気がする。

なぜならば、損益計算書が必要なのは「経営と資本の分離した」株式会社のゴーイング・コンサーンのためだからだ。

1回限りのプロジェクトである大航海において、必要なのはプロジェクト終了時点でのスナップショットである貸借対照表だった。

無事航海から戻ってきて、利益を分配したらプロジェクトは解散である。

しかしここに株式会社という、単発ではなく継続的に利益を上げ、存続し続ける組織が誕生した。

債権者と出資者はこの「株式会社」という組織が、倒産することなく、利益を上げ、健全に経営されているかを継続的にモニタリングする必要に迫られたはずである。

そこで貸借対照表による定点観測の間をつなぐ「で、今年は結局なんぼ儲かったん?」という疑問に理由付きで答えることができる損益計算書というものができたのではないか。
そんな想像をしている。


なぜキャッシュフロー計算書は最後に登場したのか

財務3表で最後に登場するのがキャッシュフロー計算書である。

期首にいくらのキャッシュがあって、期末にいくらのキャッシュが残っているかを示しているのがキャッシュフロー計算書です。キャッシュがどうして増えたのか、減ったのかを教えてくれます。
~中略~
商品やサービスの提供とその売上代金の回収には時間差があります。つまり、どんなにたくさんの売上をあげても、その回収に長い時間がかかって手元のキャッシュが増加しなければ、借入金を返済したり、商品の仕入代金を支払うためにまた資金を借り入れなくてはならず、会社の資金繰りは苦しくなります。

上記引用を読んでいただければわかる通り、キャッシュフロー計算書はとても大事である。現金というのは事業における血液のようなもので、常に回り続けれていなければ事業は死んでしまう。

しかし、キャッシュフロー計算書の歴史は浅い。その重要性からすると不自然なほどに、登場したのは(B/SやP/Lに比べると)最近である。

 米国では,実務において19世紀末頃より資金計算書を作成,開示してきた。それは,とりわけ企業の信用分析または支払能力分析に役立てるものとされてきた。それを『資金計算書(fund statement)』として提示したのがARS(会計調査研究:Accounting Research Study)第2号5() 1961年)である。
現代会計の歴史展開において際立った特徴の一つは,デスクロージャーの捕捉情報にすぎなかった「資金計算書」が,1980年代以降,『キャッシュ・フロー計算書』として,「連携のあるフルセットの財務諸表(a full, articulated set of several financial statements)1)」,あるいは「基本財務諸表(elements of financial statements)2)」に組入れられたことに見ることが出来る。
キャッシュ・フロー計算書を「フルセットの財務諸表」に組入れるプロセスは,~中略~ 取引価格(取得原価)の記録および収益と費用の対応を根幹とする論理から,資産と負債の公正価値評価ならびに包括利益の測定の論理へと転換する歴史プロセスでもあった。
:いずれも(名古屋学院大学論集 社会科学篇 第 52 巻 第 3 号「キャッシュ・フロー計算書の基本財務諸表としての論理(上)」)

上記引用の通り、キャッシュフロー計算書(の原型となる資金計算書)は19世紀末頃には米国で実務的に使用され、1980年代から財務諸表に組み入れられた。

そして、その理由は「取引価格(取得原価)の記録および収益と費用の対応を根幹とする論理から,資産と負債の公正価値評価ならびに包括利益の測定の論理へと転換する」こととつながっているようだ。

???

おわかりだろうか。私には意味するところがわからない一文だ。
補足できる情報を上記引用元の論文から探してみる。

「フルセット財務諸表」は相互に補完しあうことによって,投資家等が「将来の正味キャッシュ・フローを生み出す企業の能力」を評価するための有用な情報となることができる。
:同じく(「キャッシュ・フロー計算書の基本財務諸表としての論理(上)」)より

読み替えるなら、「投資家等」が「将来の正味キャッシュ・フローを生み出す企業の能力」を評価するための情報を網羅する必要が出てきたため、「フルセット財務諸表」に、「キャッシュフロー計算書」を追加する必要が出てきた、ということのようである。

なぜ「将来の正味キャッシュフロー」が評価対象として重要視されるようになったのか、それまでは何が重要視されていたのか、めくるごとに疑問が出てくる厄介な展開になってしまった。

キャッシュフロー計算書は事業活動に不可欠な現金の推移を表す、という単純なロジックの一枚裏をめくると、もっと複雑なロジックが動いていることがわかったところでめくったロジックをそっと戻しておくことにする。


資本主義は「数えること」と「くらべること」で出来ている

軽く財務3表の由来を振り返ろうと思ったところ、ずいぶん長くなってしまったが、わかったことは財務諸表、決算書と言われるものは投資家(株主)のために存在するということだ。

もう少し丁寧に言うならば、「「経営と資本の分離」を性悪説に基づく信頼関係でつなぎ合わせるため」に存在すると言えそうだ。

とはいえ、世の中には経営と資本が分離していない(オーナーが100%株を持っている)会社はごまんとあるし、おそらくそういった会社の方が数としては多いだろう。

いったいこのような面倒くさい財務諸表をつくったり、コーポレートガバナンスをがんばったりしてまで経営と資本を分離させる必要はあるのだろうか。

答えはおそらく「ある」なのだろう。

なぜならば、それが最も資本主義に適合しているからだ。

資本主義は資本を増やし続けることで成立する。成長が義務付けられている社会である。

社会全体を成長させるためには、社会全体のリソースを成長のために最適に分配し続けなければならない。

最適な分配先を決めるためには何が必要だろうか。

例えば「想い」とかはどうだろう?
エモいし、個人でお金を出すなら良いかもしれないが、大きなお金を動かすために他の人を説得するのは難しそうだ。

フィーリングで最適な分配先は決められない。

「定量化」する必要があるのだ。

定量化すれば「比較」ができる。

定められた会計基準に基づく財務諸表が公開され、比較検討されることで、社会のリソースを社会の成長のために最も効果的な分配先に使うことができる。

それが決算書・財務諸表の持つ社会的な意義なのだろう。

そして私たち自身がここからミクロに学ぶことがあるとするなら、その1つは基準をそろえて比較することの有用性ではないだろうか。

今回課題図書だった「MBAより簡単で英語より大切な決算を読む習慣」ではいわゆる財務諸表ではなく、その企業の事業における重要なKPIについて、基準をならして比較することで、多くの学びを引き出していた。

単に財務諸表の読み方を知るだけでなく、物事を進める上で重要な要素を理解し、定量化して比較することで、私の見える世界はまた大きく広がりそうな気がする。





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