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猫はしゃべっている

「うちの猫はすごいよ。人の言葉をしゃべるんだから」

昔、同僚が目を輝かせて自慢したので、それは拝見しなければとご自宅を訪問した。かわいいキジ猫が日の当たる窓辺でもっちりと香箱をつくり、にやーんと目を細め、「いらっしゃい」という体で出迎えてくれた。

同僚は私にお茶を出した後、冷蔵庫からハムを出して猫に見せた。
「ほら、これ欲しいかな~? これは何て言うのかな?」

猫はもどかしそうに前足を浮かせながら鳴いた。
「ぁ~ん、ぁ~んん、ぁ~む、はぁ~む」
「ほら、ハムって言ったでしょ! すごくない? すごいでしょ! ねえ、すごくない?!」

「………………………………………………………………………………すごい」


それはさておき、「猫の王様」というイギリスの民話をご存知だろうか。
一人の農民が満月の夜、帰宅の途に着いていた。すると村境の橋の上に猫が集まっていたので、好奇心から隠れて様子を伺った。すると猫たちはなんと葬式のような儀式を行い、人間の言葉でしゃべっていたという。

男は帰宅し、そのときに見た一部始終を夢中で妻に話した。暖炉のそばには年老いた愛猫、黒猫のトムがうつらうつらと寝ていた。

男は興奮しながら語った。

「その猫たちは9匹いてね、黒のビロードのかけ布で覆われた小さな棺をかついていたんだ。そしてその棺の上には、金でできた小さな王冠が置かれていた。猫たちは三歩あゆむ度に、儀式のように“ニャオ”と鳴き声をあげるんだ。そして棺を埋めると、『猫の王様が死んだ』とぼそぼそ会話を交わし、その後ばらばらにどこかへ去ってしまった。」

そこまで話し終わると、暖炉のそばで眠り込んでいた黒猫のトムが飛び起きた。
「なんだって?! ティムが死んだ? それじゃあ、次の猫の王はこのオレだ!」
黒猫トムはそう叫ぶと、煙突から風のように外に飛び出し、二度と帰ってこなかった。
(詳細は「:en:The King of the Cats」を参照)


わたくしごとだが、約18年生きた自分の愛猫が、言葉をしゃべるのを聞いたのは、たった一回だけだった。
「月曜日はダメだよ」
たしかにそう言ったと思うのだが。

10年ほど前になるが、地元の友人が上京することになり、一日中遊び倒そうと、美術館やらホテルバイキングやらショッピングやら様々な計画を立てた。私が浮かれながら準備していたその時、愛猫がふいに私を見て言ったのだ。
「月曜日はダメだよ」と。

私がそれを聞いて振り向くと、愛猫は「しまった!」という感じのハッとした表情をして、それからバツの悪そうな顔をした……ような気がする。そしてその後「フ…、フンフ~ン♪」と横を向いて、子猫時代に遊んだ、今はさして興味もないおもちゃをちょいちょい弄び、ごまかすようなベタな仕草していた……ような気がする…。

友人と約束していた前日、地元では暴風雨による土砂崩れが起き、交通規制が敷かれた。結局友人は上京することができず、東京回遊のプランは先延ばしになった。
「月曜日だから美術館も街中も空いていて、楽しめると思ったんだけどなぁ。残念」
彼女は電話口でそう悔しがった。
愛猫の言った通り、月曜日はダメになったのだ。

多頭飼いしている飼い主さんは、かなりの頻度で猫同士が密談している場面に出くわすという。
「人間に気づくと、パタッと会話をやめるんだよねぇ。でも、イチ猫しか知らないはずのことをすべての猫がちゃんと知っているから。やっぱりしゃべって伝えているんだろうと、と思うわけよ」

猫はしゃべっているのだ。

もしかしたら人間に聞かせてよい「猫しゃべり」には、回数制限があるのかもしれない。黒猫トムのイギリス民話や、愛猫のケースを鑑みるに、それは「一回」なのだろうか。

そうだとしたら、「私のお遊びプランが月曜日におしゃかになる」予言などはどうでもよいから、もっと有意義なことを話してほしかった。

例えば死ぬ間際の病床で、「ここがこう苦しいから、もっとああして欲しい」とか、「ここを掻いてね」とか、「あれが食べたいこれが飲みたい」とか。実践的で重要な、自分のための何かに「猫しゃべり」を使ってほしかったのだが。

言葉の伝わらない動物の介護には、いつまでも後悔がつきまとう。
遺影を見て、今更ながらいろいろなことを思うのだ。

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