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15時間後、自分の人生の3分の2に『決着』を付ける。 (シン・エヴァンゲリオンの話) ※ネタバレは無いです

遂に。ようやく。やっと。今はそんな言葉が脳の隅の方から泡のように浮かび続ける中、何となくそれが『終わる』という事に未だ実感が湧かぬままこの文章を書いている。

長きに亘り家族同然の間柄で共に過ごしてきた友人との別れのような寂しさと新たな門出を純粋に祝いたい気持ちが綯い交ぜになったような複雑な感情。

今から15時間後には、自分のオタクとしての人生の大半を占める作品『エヴァンゲリオン』の終劇を、この目で見届ける。

物語の終わりに向き合う前に、今の感情全てを書き殴りたかった。思い出の精算を済ませておきたい。この作品には、自分の全てを以て相対したい。最後には笑って「さようなら」、そして「ありがとう」と『エヴァ』に伝えたい。

割とエヴァが無かったら今の俺は居なかったんじゃねぇかなぁ

堅苦しい文章やっぱ慣れねぇ〜〜〜〜ムリ〜〜〜〜ていうかネタバレ防ぐ為に5日もTwitter封印という『縛り』を己に課した俺、偉すぎん???????自分で自分を褒めたい。その上、シン・エヴァを観る体制を整えるためにこの5日間はエヴァ関連の曲しか聴いていない。嘘。1度だけゴリエのペコリナイト聴いた。

よくTwitterでも揶揄される自分語りみたいになってしまうのだが、今回ばかりは15年も拗らせてしまったが故のオタクの悪癖だと笑って許して欲しい。これは他人の為に書く文章ではなく、自分の為に書く文章、自分の自分に対する気持ちを整理させる為の文章だから。

幼い頃からあまり喋るのが得意ではなかった。母が言うには周りの子が「ママ、だっこ」「パパ、でんしゃ」などと意味を持つ言葉を話す中で、3歳になる頃までずっと「アァ〜」「ギャウ~」と怪獣のような言葉しか発さなかったらしい。ましてや自分は第一子。子育てだって初めての両親が自分をどれだけ心配したかと思うと今更ながら申し訳なく思う。

しかし、言葉をあまり話せなかった事も悪い事ばかりでは無かった。自分の心身の発育具合を心配した両親は「言語」に関する物に積極的に触れさせてくれた。

父親は、趣味のアニメ・マンガ・特撮・映画・ゲーム等を通して自分に語りかけてくれた。言葉もまともに喋れない、意思疎通も取れない、内容を理解できずとも目紛しく変わりゆく映像を原始的に楽しんでいた記憶の断片が今も自分の中に微かに残っている。何より、作品を見終えたり、ゲームに一区切りする度に、父親の大きな手が自分の頭をわしゃわしゃと掻き撫でてくれるあの瞬間が好きだった。

言葉を『音』だけではなく『意味』まで捉えられるようになった頃には、自分が生まれる前に世に出された名作・奇作の内容もざっくりと理解し始め、原始的な楽しみ方から虚構の世界の楽しみ方の魅力に取り憑かれた。作品の中で自分の理解できなかった事は何でもすぐに父親に聞いた。父親の話す言葉は、自分の知らない事を噛み砕き、咀嚼し、易しくした物でスッと自分の中に入ってくるのに何もかもが新鮮に感じた。短い単語の中には意味が凝縮されていて、同じ言葉でも前後の言葉によってはその意味を変えていく。まるで未知の生物のようだった。その時々の貧相な語彙で必死に自分の伝えたい事を紡ぎ出し、必死に父親の言う言葉を理解しようとしたあの日々が今の自分を形作っている。

母親は、毎週土日に市立図書館へ連れて行って好きな本を読ませてくれた。最初は本自体に余り興味を持たず、自分の家よりもずっと広い部屋に自分の手が届かない所まで本が敷き詰められていて、外の世界とは違いそこにいる誰もが静かに本や新聞などを読んでいるその空間の不可思議さが興味の対象だった。週末になると行ける別の世界。常に新鮮な空気に溢れていた『別の世界』が好きだった。本も手に取らず、ただただその世界を探検した。

1階には数えきれないほどに沢山の本があった。
2階には分厚くて読めない文字が背表紙にギッシリと書かれた本が所狭しと並んでいた。
3階には本棚はなく、自分よりも大きな人たちが
何人もいて、机に本を広げて何やらノートに文字を書き込んでいた。

そんなドキドキワクワクな探検も、変わり映えしない光景を3回ほど繰り返して見れば流石に飽きてくる。マンネリ気味な現状に退屈を感じ始めた頃、もう行き慣れた別世界の背景と化していた絵本に何となく手を伸ばした。暇つぶしになればいいやとページをめくり始めたが、その数分後には退屈など忘れていた。大きな別世界の背景だと思っていた物の一つひとつに、その大きな別世界とは比べ物にならないほどの別世界が詰め込められていたのだ。「そろそろ帰るよ」と母親に言われる頃には、棚一列に並ぶ別世界を探検し終えようとしていた。

まだ読みたいと駄々を捏ねたが、問答無用で車に乗せられた帰り道、遠ざかっていく図書館をバックドアガラス越しに見てわんわんと泣いた。あの別世界にはまだ沢山の別世界があるのに、また来週の土日にしか行けないだなんてあんまりだ。ずっとあの世界に居たかった。

毎週土日が来る度に新たな別世界を開いては知らない言葉に打ち当たり、その言葉の意味を知る為に新たな別世界を開く。どれだけ時間をかけても終わる事のない探検は、自分の世界を拡げてくれた。

そしてその拡がった世界のおかげで何となく気付き始める。図書館でみんなが静かにするのは、みんなが別の世界に夢中になっているからだと。自分の世界を拡げているからだと。それを邪魔しちゃいけないからなのだと。

周りの子が公園などで遊んでいる時、自分だけはこの世界に居られる事が何となく特別なことに感じて嬉しかった。

そんなこんなで何とか喋れるようになったが、保育園や小学校に通い始めて新たな問題が生まれた。多くの同年代の子どもたちと一緒に過ごすにあたり、内向的すぎる性格である事が判明したのだ。思えば自分がこれまでに会話した事のある人間はほぼ家族だけ、毎日のように長い時間を何らかの作品を自分の中で消化して糧とするだけで、実際に他人と向き合った事がほぼ皆無に等しかった。自分の世界が一切通用しない他人の世界に入る術を全く知らなかった。

人と話すための言葉を知っていても、人との話し方を知らなかった。俗に言うコミュ症の爆誕である。

幸いにも周りの子に恵まれていた為に、休み時間に遊びには誘われたりしていたが、それ以外ではあまり話さない。必然的にこれといって親しくなるような子も居ない。矛盾しているようだが、人に囲まれるようになって初めて孤独を強く感じるようになった。

誰かと触れ合いたくても何もできない。正に、ヤマアラシのジレンマね……(cv.山口由里子)。その怖さから逃げるように図書室に入り浸り、自分の世界だけに閉じ籠った。
他人と触れ合えない、孤独が怖いのならば、触れ合う必要のない場所に行けばいい。所謂「心の壁」という物を強く持ってしまったのだった。

そんな日々にも転機が訪れる。もうすぐ9歳の誕生日を迎えようとしていた2007年9月1日。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』が公開されたのだ。エヴァンゲリオン。2年前、7歳の時に父親と一緒に旧作──「新世紀エヴァンゲリオン」を観た記憶はあるが、観ていた当時は内容を理解するほどの頭がなく──最も、『エヴァ』を理解できる頭なんて今も持ってないが──カッコいいアクションを観る事に重きを置いていた所があり、物語が後半に差し掛かるにつれてそのアクションが極端に減っていくのに退屈を覚え、途中で投げ出してしまったのだ。

しかも「エヴァンゲリオン」ではなく「ヱヴァンゲリヲン」?ネットで調べてみると何やら旧作を踏襲しつつも新たな物語として再構築されたものらしい。2chの掲示板には「オレたちの…オレたちの黄金時代(オウゴン)が、帰ってくるッ!」「真実(マジ)かよ庵野クン…!」「幻想(ユメ)じゃねぇよな…!?」という感じに興奮する人たちと、否定的な意見(主に庵野監督に対するエヴァを作るにあたっての精神的ダメージへの心配や、無事に完結させられるのかといった不信感)が並んでいた。これほどまでに数多の人々が関心を寄せている「エヴァンゲリオン」。今観たら、あの頃には見えなかった面白さが見えてくるかもしれない。そんな事を思って遂に来た9歳の誕生日、父親は2枚の映画チケットを握っていた。

そのチケットには『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』と書かれていた。

エヴァが気になっている事を父親に話した覚えは一切無かったため、とても驚いた。そして自分でも少し引くレベルで信じられないほど喜んだ。すごく観たいって思ってたんだ、と伝えた時、父親は笑顔で自分の顔を覗き込み、あの大きな手で頭をくしゃくしゃと撫でた。

当時は偶然か奇跡か何かだと思っていたが、今思えば、父親はPCの検索履歴から自分の欲しい物を察してくれたのかもしれない。今になり気付く父親の優しさは、時を経ても温かさがほのかに残っている。

劇場で観る『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』は生まれてからこれまでに観てきたアニメ作品とは一線を画する物だった。2年前に見た「エヴァ」で感じたアクションのカッコ良さは勿論の事、旧作から更にブラッシュアップされた映像群、記憶の中では変形しなかった筈のラミエルは(新劇場版では「第6の使徒」と呼称される)、その姿形を自在に変形させて加粒子砲を放ち、初号機は出撃した瞬間に胸を狙撃され手足を動かす間もなく戦闘不能、戦略自衛隊やNERVの用意した様々な中距離・遠距離攻撃を難なく無力化、日本の全電力を用いてやっと撃ち破れるA.T.フィールド。初号機に搭乗するシンジや0号機に搭乗するレイ、その二人をバックアップするNERVを苦しめる強敵としてこれ以上無い程の『絶望感』という名の説得力を持っていた。

ヤシマ作戦の陽電子砲の初撃で倒せたかと思いきや、みるみると再生する第6の使徒。使徒の弱点であるコアを僅かに外していたのだ。直後、山の表面を消し飛ばすほどの威力を持つ加粒子砲が、初号機及び陽電子砲を補佐する施設・車輌諸共に襲い掛かり、その強すぎる熱波は僅かに残る希望をも吹き飛ばしたかに見えた。

「エネルギーシステムは?」
「まだ行けます!既に再充填を開始!」

「陽電子砲は?」
「健在です。現在砲身を冷却中!ですが、あと1回、撃てるかどうか…」
「確認不要、やるまでよ」

オペレーターと葛城ミサトのやり取りで伝わる緊迫感。これを外せば、人類に未来は無い。

「シンジくん、大丈夫!?急いで、初号機を狙撃ポイントに戻して…シンジくん?」


「うっ…………ううっ………………」


そこには、あまりの痛みと恐怖に自分の肩を抱き、泣き崩れるシンジの姿があった。モニターが回復してなくとも、その何かを押し殺したかのような泣き声は、あんなにも小さな肩に日本の未来が圧し掛かっているのだと再認識するには十分だった。

「現時刻を持って初号機パイロットを更迭。狙撃手は0号機パイロットに担当させろ。」
「碇…!」
「使えなければ、切り捨てるしかない。」

碇ゲンドウの合理的ゆえに冷たくも聴こえる言葉に、本当にそれで良いのかと名を呼ぶ冬月。それでも姿勢を崩す事の無いその言葉に、ひとつの通信が入り込む。

「待ってください!」

その声は。


「彼は逃げずにエヴァに乗りました。自らの意思で降りない限り、彼に託すべきです!」

シンジを誰よりも近くで見ていた、葛城ミサトの声だった。

『シンジ、頼むで!』『碇、頑張れよ。』

クラスメイトがかつて掛けてくれた言葉に呼応するようにハンドルを握り締め、陽電子砲を再び構え直すシンジ。
その目には涙こそ浮かんではいたが、痛みや恐怖に抗おうとする「意思」が強く込められていた。

「シンジくん!今一度、日本中のエネルギーと一緒に、私たちの願い、人類の未来、生き残った全ての生物の命…貴方に預けるわ。」

「頑張ってね。」

「……はい!」

強く応えるシンジの目に、もう涙は無かった。

照準調整補佐システムが先の攻撃で機能しないため、以後の照準はパイロットであるシンジ自身のマニュアル操作で行う事となる。それは真に全ての運命がシンジの手に委ねられた事を意味していた。あと1発撃てるかどうかすらも定かでは無いのに。それでも、陽電子砲の照準と照星を合わせる。14歳の肩に圧しかかるには余りにも重すぎる、全てのために。

あと20秒あまりでようやっとエネルギー充填が完了するかと思われたその瞬間。無慈悲にも第6の使徒の内部から高エネルギー反応が発生する。あの加粒子砲をまた受けてしまったら、もう人類に抵抗する手段は存在しない。

あと少しの時間さえあれば。一縷の希望すらその加粒子砲に消し飛ばされるのかと思われたその刹那。

レイの搭乗する0号機が大きな盾を携え、身を挺してシンジの搭乗する初号機を守った。盾が徐々に吹き飛ばされ、崩れていき、己の身が灼かれ始めようとも綾波はそこから動こうとはしなかった。誰もが願ったあと少しの時間は、ひとりの少女の捨て身によって叶えられた。

「早く…早く!」

観客の誰もが思ったであろう言葉と共に照準を絞るシンジ。そして、遂にその照準はコアの中心を捉える。

日本の全電力と全ての生物の願いが込められた陽電子砲のビームは加粒子砲をも貫き、第6の使徒のコアを見事に撃ち抜いた。

あの瞬間から。あの光景が、頭から離れた事は無かった。こんなにも面白い作品を、最後まで自分は観なかったのか。

その日の帰り、父親に懇願して新世紀エヴァンゲリオンを毎日1話ずつ観る約束をした。自分ももう一度、『エヴァ』を見直したい。一度ダメだったとしても諦めずに陽電子砲を握ったシンジのように。かつて彼が辿った道をこの目で見届けたいと思った。

そして一ヶ月後には、口を開けばエヴァの話しかしないヤバめな小学3年生が誕生していた。怖……。

エヴァ作中で理解できなかった単語をネットで調べては父親にこれはどういう意味なのかと質問する。お父さんにも分からないなぁと言われた事もあった。お父さんにも分からないのでは誰も理解できないなと仕方なくその単語は無視して次の単語に説明を求めた。そんなエヴァ一色の生活を送っていた。

そして書店によく売っていた少々信憑性に欠けるエヴァの考察本を小学校に持っていき、休み時間に読んでいたある日のこと。エヴァ作中の意味の分からない単語の意味の分からない説明に釘付けになっていたら、「〇〇(自分の名)、エヴァ好きなの?」と本越しに声を掛けられたのだ。あまりに突然の事だったのでまともにその問いに答えられなかった。本から目を離すと、前の席に座っている一度も話した事の無い男子の顔がそこにあった。何も言えないままでいる自分を他所に、彼は話を続けた。

「この間、映画観たんだよね〜!
すげ〜面白かったな〜!」

彼はクラスでも中心的な存在…というよりは、いつも話すだけでクラスを明るく照らす太陽のような存在だった。彼が話す時はいつも誰かが笑っている。自分も彼の陽気さに照らされて笑う事が多々あった。いつもたった15分程度しかない休み時間にはボール片手に外に飛び出し、友達とサッカーやドッジボールに勤しんでは休み時間終了の放送が入った途端に昇降口へとダッシュするような、元気に溢れている男の子。

そんな自分と対照的な彼が、エヴァを知っている事に驚きが隠せなかった。しかも自分の読んでいる考察本の中にある難解なエヴァ作中の単語の意味を既に理解して、自分なりの考察を話し始めたのだ。当時、同年代の生徒の中でならエヴァに1番詳しいのは紛れもなく自分だという驕りがあったが、見事に打ち壊された。それがとても悔しくて、彼の考察の瑕疵を見つけては反論した。

「そこは××なんじゃない?」「いや、そこは△△だったじゃん」「だから、そうじゃなくて…」

そんな会話を毎日のように教室で続けて幾許かの時が経ち、彼とはいつの間にか友達になっていた。彼や彼の友達と一緒にドッジボールやサッカー、バスケにも興じるようになっていた。その頃には彼以外の友達も沢山…ってほどでも無いが、出来ていた。


なんだ。こんなに簡単だったんだ。

あれだけ怖がっていた他人の世界は、自分の『好き』だけで自分の世界と繋がるんだ。

他人の『好き』が、自分の世界を拡げてくれた。

『エヴァ』が、それに気付かせてくれた。

他人がいる世界の素晴らしさ。

自分が他人と繋がれる事の喜びを、やっと知れた。


その彼とは今でも交流を持っている。他にも破を3回ほど劇場で共に観て、いやその考察は違う、それだと序の最初で示された旧劇場版との繋がりがある描写との整合性が取れない、いや新劇場版では新たな設定が付加されたって庵野監督も言ってただろうが、それはそれとして疑似シン化第1覚醒形態、メチャクチャに良くねえ?良い……とBlu-rayを何度も見返して語り合った事や、高校受験を1年後に控えた2012年にQを観て、分かる…?全然分からん…(ジャガーさん)となり何も分からんまま受験に突入、2人して見事に何も分からずに合格を勝ち取ったりした思い出もあるが、全部語ると冗長にも程がある文章になる(既になってない?)ので割愛する。

こんなに長々と書いている間に、もう上映時間が
来てしまった。


エヴァに出会ってから15年。

Qが公開されてから9年。

25年間エヴァを追ってきたオタクから見たら、
短いのかもしれない。

アニメ版は疎か、旧劇場版が上映されていた頃にはまだこの世に生を受けてすらもいない。

それでも自分の人生を変えた、割とこれが
無かったら今の自分は居ないんじゃないかと
胸を張って心の底から言えてしまうような作品が。
『エヴァンゲリオン』が、遂に終わる。

あの頃とは違って自分も彼も社会人になってしまい、彼とも中々予定が合わなくなった。出来れば一緒に『エヴァ』の最後を見届けたかったが、それは無理だった。ていうか彼は既に1人で観てたらしい。は?マジで許せんが………。

電話口での彼は申し訳無さそうに謝っていたが、

「シン、メチャクチャに良かったぞ」

と言っていた。彼が言うならば、間違いは無い。

全てに決着を付けるために。俺は、自分の人生の
3分の2に決着を付ける為に。

俺は今から、シン・エヴァンゲリオンを見届ける。





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