八宮めぐるとバベルの塔
はじめに、この記事には結論に当たるような明確な『正解』という物は存在しないという事をここに記しておきたい。
きっと未来永劫、人間が人間という『群』ではなく、一人ひとりが全く違う尊い『個』であり続ける限り、その『正解』に辿り着けない。人間がどれだけ歩みを進め、その『正解』に近付こうとしても、その『正解』は地平線の遥か先に揺らめく蜃気楼のように確かな形も、そこにあるのかすらも分からない。
これから書く記事は誰もが納得の行くような、誰もが割り切れるような話ではなく、寧ろその逆、誰もが納得の行くような、誰もが割り切れるような、そんな『理想』を追い求める果てしないその過程に焦点を当てた話である。
その『理想』を追い求める道の上に八宮めぐるというアイドルが、人間が、『個』が存在する。その事をただ書き連ねていく、そんな記事なのだ。
貴方は『バベルの塔』をご存知だろうか?
「あ〜、何かデレステで志希と飛鳥がそんな感じのEDMキメてたな…」と思う方もいるかもしれないし、「あ〜、あの地球の平和を守るために怪鳥ロプロス・ポセイドン・ロデムの3つの僕に命令している超能力少年が住んでる所ね〜!超高性能コンピュータによって初代バビルが地球に降り立ってから現代に至るまでの5000年間に地球上で起こった事象を仔細に記録して、人の目に見つからぬように人工的な砂の嵐に隠されているアレ〜!」となる方もいるかもしれない。
横山光輝先生の代表作はその知名度の高さから『三国志』とされる事が多く、その事に対して自分も特に異存は無いのだが、『バビル2世』も横山光輝作品としてそれに並ぶ傑作であるという事はもっとこの世に周知されるべきなのではなかろうかと思う今日この頃である。
しかし残念ながら、この記事で話す事はバビル2世の話では無い。故事や旧約聖書の「創世記」等に記されたバベルの塔の話が主となる。
そもそも『バベルの塔』とは?
『バベルの塔』とは上記の通り、旧約聖書の「創世記」11章 1-9節に登場する塔である。世間では「神の座す場所へ我々も到達せんと天高くそびえる塔を建て、神に挑戦しようとした人間の傲慢さに憤った神が塔を崩壊し、当時の全ての人々が共通して用いていた言葉と言語をバラバラにして互いの意思疎通を阻ませる事により、塔の再建を不可能なものにさせた」という故事が流布しており実現不可能な計画を比喩する言葉として用いられたりするが、実は旧約聖書には神が塔を崩壊したという記述は無い上に、人々も別段神々に挑戦しようとか考えていた訳では無い。それどころか『バベルの塔』という表現すらも聖書の中には出て来ない。は?????????意味分からんが…。
百聞は一見に如かず、実際に旧約聖書の記述を見てみよう。
旧約聖書、読みにくいね…興味無いね…って方向けにこの記述を要約すると、はるか昔は全ての人が同じ言語を使っていたけども、離れ離れになるのが何かイヤだったので「皆でこの場所に俺達だけのシンボルみたいなのを造ろう!俺達が離れ離れにならないように、街を作って!天まで届くデッカい塔建てて!俺達の名を高く上げるんだ!高鳴ってるのは互いの想い知ってるから(Reason!!)」と人類のテンションが315潮を迎えているのを見た神が「…人間、このままじゃ天に届くんじゃねー?俺らに作られた分際で傲慢すぎんでしょ、言葉をバラバラにするついでに人間もドラゴンボールよろしく世界中に散らせば二度とこんな不敬も働けなくなっかな」とその言葉通りのことを実行した結果、その目論見通りに人類は街の建設を取り止めた。故にその街は『バベル』と名付けられた…という話である。
いや、バベルの塔の話のあらすじは大体分かったけども、何で『バベル』って名付けたの?という疑問を持った方も多いだろう。勿論れっきとした理由(ワケ)がある。
『バベル』は当時の世界共通語だったアッカド語で「神の門」を意味し、聖書に依ればヘブライ語のbalal──「混乱・ごちゃ混ぜ」を意味する言葉から来ているとされている。まさに言語がごちゃ混ぜになり、互いの意思疎通が図れず混乱が訪れた街の名として相応しい言葉なのだ。
一応偽典(簡単に言うと誰なのかも分からん後世の人間が著者名を偽って旧約聖書に書かれている内容を独自の解釈で再編集した物。その性質から旧約聖書等の正典に比べて異端とされる物が多い。要するに旧約聖書の2次創作。過去の人間も今のオタクみたいな事してたんすよ)によっては神が塔を崩壊させたという記述もあるにはあるのだが、今回の話においてその部分は然程重要では無い。
今回重要なのは神が「統一されていた言語を乱し相互理解を妨げた」事によって「人間を『群』から『個』へと変化させた」部分である。互いの言葉を理解できない。それは即ち『相手の事を理解できない』という事だ。自分の思想は相手に、相手の思想は自分に一切伝わらない。その状況は無視できない大きな『ズレ』を生むのだ。有名なルーマニアの思想家の言葉に、こういう物がある。
「この言葉、どこかで見た事あるな…」という人ももしかしたら居るのでは?そう!!!!!!!!
あの名作『METAL GEAR SOLID5 THE PHANTOM PAIN』(以後MGS5)で見た事あるこの言葉!!!!!!!!!!!!
うん…名作…なんだけど…歴史に残る名作になる『ハズ』だった、と書くのがこの作品に対する一番正しい認識かもしれない。この話をするとガチでコナミに対するヘイトスピーチを5万字くらい書かないと気が済まなくなるので割愛します………。マジで一生許さねえからな…………。
閑話休題、言語という物は思想に直結する。故に言語の違いは思想の違いに直結する。MGS5の大まかな内容を説明すると、特定の言語を話すと死に至る病を媒介する虫を利用して世界中から英語以外の言語を無くして思想の統一を図り、戦争のない世界を作ろうとした。正に人類を『個』から『群』へと、バベルの塔以前の状態に戻す───という話なのだが、そんな事を言われても話が壮大すぎてその感覚がよく理解出来ない人が多数だろう。実際、この言葉を初めて見た時は自分もピンと来なかった。言語の違いが思想まで蝕むものだろうか?ところがどっこい、蝕むものなのだ。
例えば、日本語の「頑張れ」に対応する英語として日本人が使いがちなのは「ファイト」だろう。
だがその言葉の元である英単語、「Fight」には「頑張れ」などというような意味は無い。本来は「戦い・論争…」といった意味の言葉である。最初に応援に「Fight」という言葉を使った人は覇気のない試合をする選手達に対して「もっと戦え」と鼓舞する為に正しい意味で使っていたのかもしれないが、その言葉が他人の口を介し広まるにつれて本来の「もっと戦え」から「(もっと戦うためにも)元気を出せ」という意味合いへと移り変わり、現在のような「頑張れ」という意味合いを持つ言葉になっていった…なんて話もあるかもしれない。もしかしたらもっと単純な話で、「Fight」と選手を鼓舞する人の姿を見て「言葉の意味は全く分からないけど、状況的に『頑張れ』って意味合いの言葉なのでは?」と解釈したが故に現在の意味合いを持つに至ったのかもしれない。どちらにしてもこれは「Fight」という言葉の意味合いが文化にしっかりと根差している英語話者だけの間では起こりにくい、日本語話者の間を介したからこそ起こり得た意味の変容である。その言語が文化に根差していないが故に発生した新たな意味。同じ言語を使う人間でも、その単語に対する小さな感覚のズレが重なれば、その単語に付随するイメージが根本から変わってしまう。元は同じ言葉だったとしても使う人間によってその意味が違ってしまったら、それはもう相互理解の妨げにしかならないだろう。
ならば、日本語話者の使う「頑張れ」に最も近しい意味合いで使われる英語「Good luck.」ならばどうだろうか?
「Good luck.」は文字通り「幸運を祈る」という意が転じて、日本語の「頑張れ」に相当する意味を持つに至っているが、日本語の「頑張れ」には幸運を祈るようなニュアンスは皆無に等しい。どちらかと言えば「困難に耐え抜く」といった感覚が強いような気がする。要するに日本語話者の言語に付随する感覚と、英語話者の言語に付随する感覚の間には少なからず隔たりが存在するのだ。
これにより同じ意味であるはずの言葉でも言語の違いで大きな感覚の『ズレ』が生まれるという訳である。
人間は物を考えるとき、言語に依存する。例えばりんごを見た時には「赤い」「丸い」「こいつはりんごろう」など無意識に言語化して見ている。物を考えるときに言語が違えば、前述の通り言語に付随する感覚のズレが重なり、その考え方──つまり『思想』が違ってくるのも自明の理というものだろう。自分と違う言語、思想を持つ相手と同じ目的を目指す事の難しさは言うまでもない。バベルの塔の建設を取り止めさせるために、それに従事する者達の言語を乱すというのは実に理に適った方法だったのだ。
そしてその『思想』の違いこそが『群』を『個』へと変化せしめるのだ。
そして話はこの『群』と『個』の問題を避けられなかったアイドル───いや、『個』である八宮めぐるの話へと繋がっていく。
この話をするには、八宮めぐるがどんなアイドルか───というよりは、(設定・テキストから読み取れる範囲で)自分には八宮めぐるがどんな人間に見えたのかを語らねばならない。
八宮めぐるという『個』の話
自分という『個』から八宮めぐるという『個』を初めて見た時に思ったのは何の捻りも無い、「元気潑剌、太陽のように周りを分け隔てなく照らし明るくする女の子」だった。実際、カードに描かれる彼女の表情は見ているだけでこちらも微笑んでしまうような満面の笑顔ばかりだ。
そしてプロデュース中のコミュでも彼女の天真爛漫、海闊天空な性格から容易く連想できるように多くの『友達』が居るのが見て取れる。
八宮めぐるのコミュにはこの『友達』という言葉が頻繁に出てくる。「友だちからの着信が多すぎて電話の充電が保たない」「友達同士が喧嘩してしまった、仲直りさせたい」「海外の友だちからファンレターが届いた」など、その交友関係の広さが随所随所から受け取れる。
どうやら運動神経もかなり良いらしく様々な部活の助っ人として活躍し、そこでも交友関係を広げているようだ。コミュ強が過ぎる。虎杖悠仁か?
だが、その中で一つだけ小さな「違和感」が
あった。
それは、とある朝コミュでの選択肢。
このコミュでのパーフェクトコミュニケーション選択肢は『友達作りが上手だな』である。
確かに『大事にするんだぞ』だと言われなくてもそうするわ感が強いし、要らぬお節介に感じる。
『俺も友達が欲しいなぁ』に至ってはもう単なる可哀想な人である。
故にここは消去法的に考えても『友達作りが上手だな』が一番適切な選択肢、なのだが………………
いや………でもさぁ…………やっぱりさぁ………………
『友達作りが上手だな』って、褒め言葉として何か違くない!?!?!?!?!?!?!
個人的な感覚で申し訳ないのだが、「友達作りが上手だな」って素直に褒められている気がしない…しなくない?友達というのは「友達を作ろう!」と思って作るものではなく、いつの間にか友達になっているものではないだろうか?「友達作り」という言葉には作為的かつ無理をして友達を増やそうとしてるような、そんな印象を感じる。自分なら「めぐるは誰とでもすぐ友達になれちゃうんだな」という言葉選びをする。完全に語弊が無いとは言い切れないが、これなら少なくとも「友達作り」という言葉から感じるマイナスな印象は大分軽減されていると思う。
そう、正に自分は作中のプロデューサーとの間に同じ日本語話者でありながら言語感覚の『ズレ』を感じたのだ。
しかし、その自分が感じていた『ズレ』は、思いもよらぬ形で修正される。プロデューサーの言葉選びは『ズレていなかった』。
むしろめぐるにとって『友達作りが上手だな』という言葉はこれ以上ない褒め言葉だったのだ。
それは、とても、とても悲しい褒め言葉。
その理由は、八宮めぐるについて考察する際には必要不可欠なあのカードで判明する。もしかしたら、もうどのカードの事を言っているのか察した方もいるかもしれない。
そう、【チエルアルコは流星の】である。
アイドル物のソシャゲイラストでありながらアイドル本人を姿を直接描くのではなく、水槽に映る虚像という形でアイドルを描く。ソシャゲイラストという枠、文化から見てもかなり挑戦的な物である…という話はシャニマス初期から言われていた事だし、何なら既にイラストの素晴らしさをその道に詳しい方が書いた記事があるし、人によってはもう耳タコな話だろう。
だが、敢えて言わせて欲しい。
本当にこのイラストは素晴らしいのだ。
その素晴らしさは【チエルアルコは流星の】コミュの内容と照らし合わせて漸く気付ける。この卓越した構図はシャニマスのシナリオ班が伝えたかった言葉に出来ない『何か』をイラスト班が確かに受け取って作り上げた、極限にまで相互理解を突き詰めたからこそ生み出された構図に思えてならないのだ。
この素晴らしさをこの記事を読んで下さる方とトコトン分かち合うためには、申し訳無い事この上無いが、俺のオタク語りに付き合ってもらうしかない。ひとっ走り付き合えよと俺の中の俺が叫んでいる。高速のオタク語り、見逃すな…ついて来れるなら…。
【チエルアルコは流星の】八宮めぐるの
コミュについてのオタク語り
ここでは【チエルアルコは流星の】の各コミュをひとつずつ自分の所感と共に語っていく。
・異邦の青、浮遊する
物語は、めぐるが出演する予定だった映画の仕事の話が脚本の変更によりめぐるの役の出番が無くなってしまった…という事をその役を演じるのを心底楽しみにしているめぐるに直接伝える場面から始まる。
本当に、心底楽しみでその役の事ばかりを考えていたのだなという事がその語り口からは察する事が出来る。「自主レッスン」と称して自分が演じる少女の心に寄り添おう、理解しようとする時間を設ける程に楽しみにしていた物が、脚本の都合なんて自分ではどうにも出来ない、抗いようの無い形で目の前から消えていくのだ。
跳ねて踊るように潑剌だった口調が、Pから告げられた言葉を受け、葉から滴り落ちる雨垂れのようにポツリ、ポツリとした儚げな口調へと変わる。『落胆』という感情で染められた心の端々から垂れた一雫一雫が、彼女の言葉の全てだった。
そして、Pは口を開く。
「頑張っていたのにな」と。
どこまでも『結果』が求められる世界。手にした筈の『結果』でさえもその手の中で夢幻のように消えて行く事もままある世界。そんな世界で『結果』ではなくその『過程』を評価する事のなんと虚しきことか。だが、本当に彼女は頑張っていたのだ。「自分が演じるこの子の事を知りたい」と誰よりもその少女の心に寄り添おうとした姿を誰よりも近くで見ていたのだ。『結果』を理不尽に奪われその結果をより良い物にする為の『過程』すらも評価される場所が無くなった彼女に、他に何と声をかけるのが正解だと言うのか。
そして尚、プロデューサーは言葉を紡ぐ。
ここでめぐるが演じるハズだった少女の設定が初めて明かされる。なるほど、確かに自分がめぐるから受けた印象とはかけ離れた役だ─────。
だが次の瞬間、これまでの全てが覆る。
「やっぱりそう思う?」
どこか寂しそうな笑顔で、そう語りかけるのだ。
ここで自分は漸く気付いた。
「現在のめぐるの性格は生来の物である」という『偏見』を持っていた事を。
現在のめぐるの在り方は、様々な紆余曲折を経て形成された物であるという当たり前な事を。
もしかしたら、演じる筈だった少女に嘗ての自分と何か通ずる所があったのかもしれない事を。
だがめぐるはその事を多くは語らない。話はまた自身が演じるはずだった少女の話へと戻る。
めぐるは少女の眺める空の色を通して、少女の事を知ろうとした。この「相手の事を知りたいと思う気持ち」こそがこのコミュの主題なのだろう。
『異邦の青、浮遊する』というタイトルも、周りと馴染む事が出来ない、浮いた存在だった遠い国から来た少女の事だけではなく、正にアメリカという遠い国で生まれ日本という国で育っためぐる自身の過去の事も示唆しているのかもしれない───なんて考えすぎだろうかと思っていたが、次のコミュでその『予想』は『確信』に近い物となっていく。
・同調の水、されど
次の仕事場へと向かう途中なのだろうか。場面は街中へと変わり、寝癖がなかなか直らないと零すめぐるを嗜める会話からコミュが始まる。
寝癖を直そうと窓を鏡にしためぐるが見つけたのは、小さな水槽の中で泳ぐ色鮮やかな熱帯魚。
その小さな水槽の中に、小さな違和感。
虹色に彩られた熱帯魚が、周りの紅い熱帯魚たちから離れた場所でひとりだけで泳いでいるのだ。
これは正に最初に話した『群』と『個』の話。
そして『偏見』の話だ。
「周りと違うのは恐ろしい」、そんな風に思った事は無いだろうか。「周りから孤立するのは恐ろしい」、そんな風に思った事は無いだろうか。
だから自分は周りとは違わない、だけどあの子は自分たちとは違うよねと歪な形で『個』を殺して『群』に入っていた事は無いだろうか。
「これはこうあるべき」という雰囲気に違和感を覚えながらも、その雰囲気に従っていた事は無いだろうか。
『個』を殺してまで『群』に入る理由は簡単だ。
そうした方が生きやすく、安心するから。
当たり前な上にこれまで様々な場所で語られた、使い古された言葉でわざわざ書くのも気が引けるが、やはり人はひとりでは生きていけない。自分以外の誰かの助けが必要なのだ。今一度、自分の身の周りにある物を眺めて見て欲しい。
優しい暖かさについ二度寝してしまうベッドも。
寝ぼけ眼を擦り、欠伸しながら向かう洗面台も。
まだ目覚め切ってない胃に流し込む朝ごはんも。
最早家族の団欒には欠かせぬ存在になったTVも。
「もう時間がない」と焦りながら袖を通す服も。
「いってきます」の第一歩を共に踏み出す靴も。
名残惜しく感じ、振り返り見てしまう自分の家も。
全て、顔も知らない誰かが作ったもの。
顔も知らない誰かの想いが、日々の生活に確かに
息づいている。
そしてそれらが、日々の生活を円滑に送るための
助けになり安心を作り出している。
人と人との関係も同じ、むしろ「物」を介しての間接的な物ではなく直接的な関係だからこそ更に分かり易く『生きやすく、安心する』という姿勢が露骨に現れる。
「類は友を呼ぶ」という言葉がある。何となく似通った者同士は自然と集まり易い事を言い表した諺。こういった諺が生まれ、多くの人に用いられ、日々の会話の中に浸透していくのは、その言葉が多くの人々の中で「確かにその通りだ」と強く『納得』が出来る物であるからに他ならない。
自分と同じような人間を見ると安心する。
自分がひとりじゃないと思えるから。
自分の在り方は間違ってないと担保されたような気がするから。
仮に誰かに自分の在り方を否定されても、
自分だけが否定された訳じゃないと思えるから。
自分と同じような人間と痛みを分け合えるから。
想像してみて欲しい。周りの全ての人間が自分と同じような考え方をして、同じような物を好きになり、同じような価値観を持っていたとしたら?もしそうなったら、きっと生きていくのがとても楽だ。誰とも衝突が起こらない。同じ道を同じ方向に同じ速度で歩いてるのだから当然だ。自分の心の内だって周りに居る人間と同じだから、相手が何を思っているのかが手に取るように分かる。理解出来ない他人が存在しない世界。全ての人間と真に心が繋がっている世界。こんなにも安心が出来る世界が他にあるだろうか。ある種、人間の精神の在り方として一つの答えなのではないかとすら思えてくる。
だが、その『類』の中に入れなかった者は
どうすれば良いんだ。
その『類』の中に入れさせて貰えなかった者は
どうすれば良いんだ。
周りとは違う理解のできない『異物』と判断され
切り離された者はどうすれば良いんだ。
どうしたって自分とは違う人間が存在する世界で『群』を作ればどうしたって誰かがその『群』に入れない。
その誰かを、自らが安心する為の犠牲にする事はどうしたって到底正解には思えない。
思想も、好悪も、価値観も。全てを平らに均した『理想』の世界の果てにあるのは『自分が死んでもいくらでも自分の代わりが存在する』世界だ。『個』がひとつも存在しない、自分だけの想いがどこにも存在しない素敵な世界がそこにはある。
小さな水槽に閉じ込められた「素敵な世界」の
出来損ないを見て、めぐるは何を思うのだろう。
そう、自分は知りたかった。
めぐるの出す『答え』を。
ああ、そうだよな。そうとしか言いようが無い。
そう、分からないのだ。他人が何を思っているのかなんて分かりようがない。同じ言葉を持たない違う種族なら尚更だ。他人が相手の感情を勝手に「きっとこうだろう」と決め付ける事こそ、正に『偏見』じゃないか────。
『偏見』。それは、人間の歴史の中で幾度と無く繰り返される物。そして過去の歴史だけの物ではなく、未だにTVのニュース番組等の映像を通して見る事すらある現在進行形で存在する物。
きっと自分を含め多くの人が『偏見』と聞けば、マイナスなイメージが湧くだろう。撲滅すべき物だと思うだろう。だが自分はこうも思うのだ。
人間は、どうやっても『偏見』を避けられないのではないか?
『偏見』は生物なら誰しもが持つ、本能の側面の
一つなのではないか?
例えば、自分の進もうとしていた道に自分よりも明らかに大きい動物が居るのを見たら強い恐怖を感じるだろう。「アレに近付いたら危険そうだ」と理屈では無く直感でそう思う筈だ。
例えば、いくら空腹であったとしてもそこら辺に生えてるよく分からない植物を食べようとは思わないだろう。「コレを食べたら危険そうだ」と植物に関する知識が無いなりに思う筈だ。
しかし、この2つはどちらも明らかな『偏見』だ。どちらもまだ為されていない事を勝手に自分だけの尺度で判断している。もしかしたらただ大きいだけで近付いても何ら危害を加えようとはしない温和な動物かもしれないのに。もしかしたら食べても何ら不都合な事は起こらず、むしろ美味しいかもしれないのに。
しかし、この『偏見』は生物としては実に正しい判断ではないだろうか。上記のように自分の分からない物に対してあり得るかもしれない全ての可能性を一つひとつ試してたら、命が幾らあっても足りやしない。人間という『個体』には、全ての可能性を試せるだけの命も、時間も無いのだ。
『偏見』を自らや他人の経験を通して、知識へと昇華させ、更に『より正しい偏見』を生み出していく。その『より正しい偏見』もまた時代の移り変わりで新たなそれが生まれていく。人の歩みとは元来そういう物だろう。人がその歩みの中で手にした『科学』という名を冠する生存戦略の為の武器だって「こうなのかもしれない」「そうじゃないのかもしれない」と仮説という名の先入観を以ってより正しいと思われるルールを探して行く物だと思えば、生物が科学に出会うのはある種の必然だったと言えるのかもしれない。
やはり人間は生物である以上、『偏見』からは逃れられないのだ。それを手放せば、生存する事自体が遥かに困難になってしまう。だからこそ、可能性を切り捨てる。自らの人生を全うする為にも人間は、本能と経験が心に深く刻み込んだ先入観による『偏見』を手放す事は出来なかった──。
それでも。それでも、『偏見』を超えた先にある可能性に手を伸ばす事は無駄ではないと思う。
以前なら人間の持つ限られた時間の中では諦めるしか無かった可能性を、その弛まぬ探究心により限りなく安心して人間という『群』が生存出来る発達した科学技術を持つに至った今ならば、切り捨てなければならなかった可能性をほんの少しだけ試す程度の時間の猶予は出来たはずだ。
だからこそ、というべきか。めぐるが「この魚の気持ちは分からない」と言ってくれたのが嬉しかったのだ。それは「きっとこうだろう」という『偏見』を超えた先にある言葉だったから。相手が自分とは違う『個』である事を深く認識した上での言葉だったから。
きっとめぐるは幼い頃から他人の気持ちを理解しようと幾度と無く思慮の渦の中を巡り巡っていたのではないだろうか。周囲の人間とは容姿が違うから、周囲の人間とは馴染めない。ならば周囲の人間の『気持ち』さえ分かれば、周囲とは違った自分でもその『類』の中に入る事が出来る、周囲の人間と馴染めると思ったのではないか?
しかし、理解には至らなかった。そもそも、この問題の端を発している外見の違いだけでこうも苦労するのだから、見えない内面なんてどう違っているのかすらも分かりやしない。精々出来るのは自分の内面にある尺度で相手の内面を推し測る事だけ。相手の内面の尺度と自分の内面の尺度の目盛りが同じである筈もない。どうやったって自分の中だけにある偏りを帯びてしまうのだ。「この魚の気持ちは分からない」というめぐるの言葉もそういった経験から得た物なのかもしれない。
めぐるがそんな苦悩を抱えてきた事を間接的に
描写したコミュ名がStar n dew by me 第5話の
サブタイトルにも込められている。
そのコミュの名は、「invent laughter」。
この言葉は、かの有名な思想家・ニーチェの格言を引用した物である。原文はもっと長い英文だ。
この英文を訳すと、次のような意味になる。
「孤独な人」という言葉が一体誰を指すのかは、
もはや言うまでも無い事だろう。
では、どうすればあの輪の中に入れるのか。
この話の最初の方に綴った言葉を
思い出して欲しい。
『人はひとりでは生きていけない。
自分以外の誰かの助けが必要なのだ。』
そう、めぐるがこの場所で人と関わる為に出した
答えは。
正に誰かの助っ人になる事だった。
バスケ部、バレー部、水泳部、陸上部…。幸運な
事に彼女は類い稀な運動神経に恵まれていた。
人の役に立てば、その人に必要とされる。
容姿なんて関係ない。皆の『輪』の中に入れる。
この答えに辿り着いた瞬間から、
「人の役に立つ」という一種の
呪縛のような物をめぐるは背負う事になる。
Star n dew by meにて彼女は「必ずお役に立ってみせます!」「役に立たなくちゃ戻って来た意味がないもんねっ」と幾度となく役に立つ事こそが私の全てなのだと言わんばかりに笑顔で語る。
何と恐ろしく哀しい事だろうか。「人の役に立つ事」を長い間考えて生きてきた彼女の中では既に「そうでなくては意味がない」という強迫じみた物にまでなっているのだ。強く根付いた思想が、言動の隅々までをも一色に染めてしまう。これを呪縛と呼ばずして何と呼べばいいのか。
だがその呪縛は、ついに解かれる事となる。
『役に立つ』。 『役に立たない』。
そんな損得勘定で貴女を助けた訳じゃない。
ただ、ありのままの貴女の事が好きだから。
ただ、貴女のそばにいたいと思ったから助けた。
その言葉が、めぐるを長年の苦悩から解放した。
自分が泣いた理由すらも分からない程に長い間心の奥底まで囚われ、呪い縛られていた物。それを真乃はたったの一言で救い出してくれたのだ。
嗚呼、本当に、本当に良かった。めぐるはやっとありのままの『個』として見てくれる友達とこの場所で出会えたのだ。ずっと誰かに言って欲しかった言葉が。ずっと出会いたいと願っていた友達が。今、自分の目の前に。
何か気付いたら別コミュの話してる上に何か涙が出てきた。え?深夜に光る板を見ながらひとりで思い出し泣きしてる21歳のオタク怖すぎる…。
閑話休題。今一度、『チエルアルコは流星の』のカードイラストを見返してみて欲しい。
周りとは体色が違う、それだけの理由で周囲の魚から孤立しているように見える熱帯魚。その様相を見て虹色の熱帯魚に寄り添い、思慮を巡らせるめぐるの姿がこの小さな水槽に写っている──。
これまでの話から考えると、この絵はまた違った見方で見えてくる。
新たな可能性が浮かび上がる。
自分にはこの絵が小さな水槽の中に囚われためぐるが、水槽の中から外の世界を眺めているように見えて仕方がないのだ。周りとは違う色の熱帯魚に寄り添う姿も、この小さな水槽の中で彼女自身も排斥されているようにも見えてくる。『素敵な世界』の出来損ないの中に居る熱帯魚に、自分の過去を文字通り重ねている…そんな風に見えた。
そして最後にめぐるは、虹色の熱帯魚にこう声を掛けるのだ。
「大丈夫……きみの色は、とっても綺麗だよ」と。
あの自主トレの時には『答え』を出せなかった、少女に掛けるべき言葉。
違う色もまた美しい彩りの中の一つの色である
という事。
つまり、違う色に対する肯定の言葉。
そして、その言葉は。
めぐる自身が1番誰かに言って欲しかった言葉。
彼女自身すらもきっと意識していなかった答え。
同調の水、されど。貴方の色は美しい。
・無重力のウテナ (True End)
『蓮の台(うてな)』。それは人智を超えた神仏らの座す場所。人の身では決して辿り着けない悟りの境地。同調の水から浮遊するという事は、俗世の束縛から抜け出す事と同義と言えるだろう。即ち解脱。修羅の妄執を断ち切り浮かばれた状態だ。
同調の水の上の空に浮かぶウテナに座し、
八宮めぐるは何を見るのだろう。
遠くからめぐるの呼ぶ声が聞こえてから、その声がすぐ近くで聞こえるようになるまでほんの数秒も要さなかった。どうやら仕事の時間に間に合わないと全速力でダッシュしてきたらしい。
時間に無事間に合い、今日の仕事場へと向かう。そこでプロデューサーは改めてめぐるに告げる。
どれだけ掛け合ってもダメだった。頑張ったけどダメだった。『結果』だけを求められる世界ではその『過程』は評価されないのかもしれない。
だが、『優しさ』は。優しさだけは過程も結果も関係ない。そこには評価なんて無粋な物は存在しない。その人の心の有り様が、暖かさが。自分の心の奥底まで染み渡り、ただただ嬉しいのだ。
その『優しさ』が。『結果』を手繰り寄せた。
ほんの少しだけの『可能性』を引き寄せたのだ。
めぐるが見つけた、あの子にかけてあげる言葉。それが何なのかは分からない。だが、それがどんな言葉であるのかを推し測る必要は無い。だってそれは、めぐるの中で生まれためぐるだけの言葉なのだから。彼女だけの言葉に、自分のレンズを通して見た偏りは要らない。
敢えて言うのならば、これが八宮めぐるの出した答えなのだろう。いつもひとりで空を眺めている少女が見た空の色は。小さな水槽の端を泳ぐ周りとは違う色の熱帯魚は何を想うのか。きっとそれは、当人だけにしか分からない。だが、今自分が見ている鮮やかな空の色ならば自分が一番分かっている。違う色の瞳でも。違う色をしていても。全ての人に、この鮮やかな色を届けられるなら。
きっとその為に必要なのは、小さな『優しさ』。例えばそれは、ひとりで空を眺めている少女にどんな言葉をかけてあげるべきか思い悩むような。例えばそれは、周りとは違う色をした、孤立して見える熱帯魚に「きみの色はとっても素敵だよ」と声をかけてあげるような。例えばそれは、少女のやりたがっていた事をどうにか叶えてあげたいという一途な想いのような。
そんな優しさが世界に溢れていれば、きっと。「素敵な世界」の出来損ないなんて生まれない。
そんな世界になるように。『違い』の溢れているこの世界にこの想いが伝わるように。
故にこのカードは『チエルアルコは流星の』と
名付けられた。
チエルアルコとはエスペラント語で『虹』という意味。様々な色を持つ虹の彩が美しいのならば、その彩を構成する各々の色だって等しく美しい。色の違いは断絶の為にあるのではない。優しさで繋がり、虹の橋を架ける為にあるのだ。そして、エスペラント語とは、バベルの塔の故事により乱された様々な言語を、その『違い』を否定せずに世界中の全ての人々が同じ言語感覚を持って使う事の出来る、歴史の海の中に沈んでいった嘗てのアッカド語に代わる新たなる世界共通語。正に『個』を保ったまま『群』を為そうとする『理想の世界』を目指すに相応しい言語。全ての人々に、暖かな優しさが届きますように。そんな願いがこのカードの名前には込められているのだ。
これが自分が『チエルアルコは流星の』から受け取ったメッセージの全てだ。無論、自分の中にある尺度で見た物だからきっと偏りがある。他の人から見たら、こんなのは全然違うと言われるかもしれない。それでいい。人が居ればその分だけ違う考え方がある。それは悲しむべき事じゃない。違うからこそ、その違いに惹かれ合える。通じ合えないからこそ、理解しようと互いに求め合う事だって出来る。そんな『違い』に溢れた世界が、たまらなく愛おしい。自分だけの想いがこの世界に確かに存在していると気付けるこの世界にほんの少しの優しさと、思いの限りの感謝を───。
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