【271日目】歩き始めたのはいつ?


May 30 2012, 7:43 AM by gowagowagorio

10月28日(金)

とうとう限界が来た、そんな感じだった。

ナツモはクッションに顔を押し付け、やり場のない苛立ちの声を、何度も何度も喉から振り絞っていた。ぎいぃぃぃ、という、黒板に爪を立てるような、聞いているこちらがいたたまれなくなるような声である。

クッションに顔を押し付けるあたり、まだ自分を制しようと言う努力の姿が見られるだけに余計に見ているのがツラい。

きっかけは些細な事だ。

プリキュアのDVDを観終わった後、特典映像の中に、ナツモがもう一度観たい場面があるというので、僕はリモコンを手に取ってそのシーンを探してみたが、ボキャブラリーが豊富でないナツモから得られる情報が少なすぎてそれを上手く見つけられなかった、それだけである。

しかしそれは本当にキッカケでしかなく、ナツモがこうなった真の原因は、今日で5日間、家に軟禁状態だということに尽きるだろう。

僕はナツモを抱き上げ、まるでミノリをあやすようにしばらく背中をさすってやった。するとナツモは徐々にに落ち着きを取り戻した。ナツモの長所は立ち直りの早い事である。

ここまで来れば、頃合いを見計らって、ちょっと脇をくすぐってやればいい。ナツモの機嫌が直ったところで、声をかける。

「もっちゃん、ちょっとタングリンにお買い物いこっか」

「えー、たんぐりん?」

どうしよっかなー、とでも言いたげな、

思わせぶりな女子のような仕草をするナツモだが、すっかり乗り気なのは表情を見ればわかる。

「ちょっとまってて、よういするから。ぷりきゅあもってかないといけないから」

どうやら、デートへの勧誘は成功したようである。

マーケットプレイスで牛乳を買い、タングリンモールの2階にできた「ブルネッティ」というイタリアンスタイルのカフェでケーキとコーヒーを注文し、二人で居心地の良いベンチシートに腰を落ち着ける。何をする訳でもないが、ナツモはやはり外出が嬉しそうだ。それだけ退屈しきっていたのだろう。

ナツモの発疹はもうまったく増えていないし、水疱瘡をやったとは思えないほど奇麗な顔をしているから、これぐらいの外出なら問題ないだろう。本当は学校にだって行かせたいぐらいである。

カフェのテーブルにプリキュアの塗り絵を広げて黙々と色をつけているナツモに、僕は何とはなしに声をかけた。

「もっちゃんさ、今年のクリスマスは、サンタさんに何貰うの?」

「え?サンタさん?!」

ナツモの顔がきらーんと輝いた、ように見えた。

「あのねー、もっちゃんはね・・・」

まあ、予想はできている。

「ぷりきゅあ!」

ほらね。

「プリキュアの何が欲しいの?」

「えーっとねー・・・」

ナツモは腹に一物ありそうな顔でニヤつきながら僕を見上げて来た。

「おしえてあげよか?おみみにこうやっていうからね」

ナツモは自分の口に掌を添えた。どうやら耳打ちしたいらしい。これはよっぽど高価な物、ナツモが言う所の「かたいやつ」を欲しがっているに違いない。毎日YouTubeでゲームやら変身グッズのPVを観ているのだから、無理もない。

僕はある程度覚悟をして耳をナツモに差し出した。そして、クリスマスの前に僕は日本に帰るから、プリキュアグッズが豊富な日本でそれを探してやろうと思ったのだ。

「うーんとね・・・しーる!」

ナツモはとびきり嬉しそうなウィスパーボイスを僕の耳に注入した。

「・・・へ?」

あまりに拍子抜けした僕は、聞き違いではないのかと、聞き返した。

「え?なに?」

「しーる!」

しかし、何度聞き返しても聞き違いではなかった。ナツモは本当に、クリスマスプレゼントとしてプリキュアのシールが欲しいそうである。サンタさんだってきっと拍子抜けしたに違いない。シール?それは両親に頼めよ、オレの仕事じゃない、と思ったことだろう。

ナツモは結局、ベンチシートで寝息を立て始めた。先ほどから眠い眠いとは言っていたが、僕が帰宅を促しても、ナツモはそれを嫌がった。

気持ちは分る。せっかく久しぶりに外へ出たのだから、充分に楽しんでおきたかったのだろう。

僕はナツモを寝たまま自転車のチャイルドシートに乗せて帰宅した。ナツモはベッドに横たわらせてもピクリともしない。恐らくこのまま夕食をスキップして朝まで眠るだろう。

ナツモが片付いてしまうと、必然的にミノリの相手がし易くなる訳で、ミノリもそれをしっかりと認識しているのか、どフリーとなった僕に勢い良く這い寄って来ると、あぐらをかいている僕の股ぐらにチョコン、と腰掛けた。可愛いものである。

うん、今のはなかなか子供らしい仕草だ。これまでのような野生動物の動きではない。なんならこのまま絵本でも読めそうな体勢だ。

実際ミノリはコミュニケーションの仕方が人間らしくなってきた。

「にゃごまろ」と呼んでいるボール状の猫のぬいぐるみを投げてやると、それを投げ返してくるし、にゃごまろをミノリとキスさせると、それが気に入ったらしく、ミノリ自らにゃごまろを僕の手に持たせ、「もういちどやって」とせがむ。

結局、にゃごまろにキスするのではなく、噛み付くあたりがミノリらしいのだけれど。

しばらくして、ミノリは僕の股ぐらを離れ、バンザイしながら、右足を一歩踏み出した。僕は思わず歓喜の声をあげた。

「おおっ?!いいぞいいぞっ!ムニー歩けるじゃん!」

言い終わるまでにミノリはもう一歩、左足も踏み出し、そのまま崩れるように床に手を付いた。しかし僕の興奮は覚めやらない。

「ムニー、歩けるようになったのー」

ミノリは満面の笑みを浮かべている。

ふと背後に視線を感じてキッチンを振り返ると、エリサが珍しく自ら僕に声をかけてきた。

「ムニーはもう2歩、歩けるわ」

「・・・」

確かに、それは今僕も見たばかりだ。しかしエリサの口ぶりは、前からそれを知っていると言わんばかりだった。

僕が知らないだけで、実はミノリ、随分前から歩き始めていたと言うのか?それは以前から僕が恐れていた事態である。

僕は急に不安になってエリサに尋ねた。

「いつから?これ」

「昨日から」

僕は心底ホッとした。タイムラグが1日だけならまあいいだろう。

1週間も気がついていなかったとなると、自分があまりにもミノリの世話をしていない事の証明になってしまう気がするからだ。

ともかく、ミノリはまさに、大きな1歩を踏み出した。僕の帰国まで後1週間。はたしてミノリの三歩目、四歩目は拝めるだろうか。 

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