【270日目】スズメバチがとんできた


May 21 2012, 11:56 PM by gowagowagorio

10月27日(木)

結局の所、ミノリの発疹は、単なる虫刺されと汗も、もしくは湿疹の混合だったようだ。

何故なら、今朝になってもそれらの発疹はまったく数が増えなかったのである。冷静に考えてみれば、発症2日で感染するハズがない。

しかし、ミノリのこの高度なフェイントのせいでナツモから隔離するのをやめてしまったから、10日後には本当に発症する危険性は俄然高くなってしまったという訳だ。

午前中、家で退屈そうにしているナツモのために、スィートプリキュアのキュアリズムをボールペンで描いた。描き上がったキュアリズムは、我ながら、初めてにしては上手に描けたのではないだろうか。

ナツモに見せると、ナツモはそれをしげしげと眺めながら尋ねてきた。

「なんできゅありずむかきたかったの?」

別段理由などない。参考にしたノートにはキュアリズムかキュアメロディしか載っていない。二者択一である。

強いて言うなら・・・

「ん?かわいいから。キュアリズムって、もっちゃんに似てるよね」

僕が何とはなしにそんな事を口にした。もの凄く似ていると思っている訳ではない。他のキャラクターと同様、目が大きくて離れているところが似ているという程度の事だ。

しかし、僕の言葉にナツモは過剰に反応した。

「えー、もっちゃんはあんなにかわいくないよ!」

僕は少なからず驚いた。意外な事に、あの、自分大好きなナツモが謙遜したのである。

「きゅありずむって、すっごいかわいいよね。もっちゃんはそんなじゃないよ」

ナツモはキュアリズムに対し、負けを認めて卑屈になっているような、哀愁の漂う台詞を口にした。よほどキュアリズムの事をリスペクトしているのだろう。

「もっちゃんも髪の毛が伸びれば、リズムみたいになるんじゃないかなあ」

「そうなの?」

「そうだよ」

「それで、きゅありずむみたいに、こうやってタイユアヘアすれば?」

ナツモは伸びかけた髪を自分の手で一つに束ね、ポニーテールにしてみせた。

「そうそう」

ナツモに髪の毛を伸ばさせたい僕はここぞとばかりにナツモを焚き付け、そしてそれは上手くいったように見える。ナツモはしばらく中空を睨んでいたが、何かを堅く決心したように、「わかった」と頷いた。

ナツモがリビングで寝ているミノリを起こしてしまった、ちょうどその時、ぶぶぶぶ、と不気味な音がリビングに響き渡って来た。

その低い、唸るような振動音は、蚊や蠅の羽音ではない。少なくともカナブンぐらいの大きさの物である。

僕は音のする方に首を巡らせた。僕の目に、推定5cm強の、巨大なスズメバチの姿が飛び込んで来た。窓ガラスに体当たりしている。

僕はその時、何故かそれが窓の外にいるのだと思い込んだ。いや、そうであってほしいという希望的観測だったのかも知れない。

僕が咄嗟に開いている窓を閉めた時、羽音は部屋の中に響いている事に気がついた。見た事もないような大きさのスズメバチである。

僕は閉めたばかりの窓をもう一度開放した。しかし、何故かスズメバチは大きく開いた窓には見向きもせず、出口のないガラスに何度も体当たりをしている。

明らかに外に出たそうなのに、何故隣の出口を見つけられないのか。僕は新聞紙で誘導してやろうかとも思ったが、万が一ヤツを怒らせた時の事を考えると怖くて実行に移せなかった。

「ちょっと、向こうに行こう、すっごいでっかいハチさんがいるから。刺されたら大変だ」

ナツモとミノリを連れてベッドルームへ避難する。しばらくしたらヤツも、出口を見つけて飛んで行くだろう。

しかし、何度様子を見に行っても、スズメバチは一向に出て行かず、ガラス窓に無駄な体当たりを繰り返している。

僕とナツモとミノリは、なす術もなく、狭い子供部屋で遊びながらただひたすらスズメバチが飛んで行くのを待つしかなかった。

どのぐらいの時間が経っただろうか、そうしているうちに、健康診断に行っていたエリサが帰宅し、呼び鈴を鳴らした。

その時、羽音は止んでいたから、ドアを開けに行った僕はやっとヤツは外へ飛んで行ったのだと思った。

しかし、スズメバチは出窓の一番下まで降りてそこで休んでいただけだった。もしかしたら、その時は既に弱っていたのかも知れない。

僕は帰宅したばかりのエリサに伝えた。

「あそこにすんごいでっかいスズメバチがいて、こわいんだよね」

「どこ?」

「あの窓のとこ」

ハチを目視したエリサは、「ああ」と言うや否や、ティッシュを2、3枚引き抜くと、何のためらいもなくハチを鷲掴み、潰してしまった。

エリサが虫は平気なのは知っていたが、想像を遥かに超えた行動力を目の当たりにした僕は、素朴な疑問をエリサにぶつけた。

「怖くないの?」

「うん」

何食わぬ顔で答えるエリサに、僕はどう思われただろうか。

この数日間、外出できなくてクサクサしていたのは、実はナツモよりむしろ僕だったかも知れない。

だから、ナツモが僕にアレしてコレしてと纏わり付いて来た時、ナツモは何も悪くないのだが、僕が限界を感じて、カルピスを買いに行ってやるという口実の元にナツモを振り切り、外へ飛び出した。

ちょっと前まで豪雨だったが、止んだ瞬間を見計らって出て来たつもりである。

しかし、今日に限って雨が降っていないのは一瞬で、僕が自転車で明治屋に着くのと同時に、再び、今度は梅雨時のような雨が振り出し、しばらく止む気配が見られなかった。

リアンコートで足止めを食ってかれこれ3時間は経とうとしている。早く帰らねばナツモが余計に退屈してしまう。

僕は自分の息抜きで出て来たという罪悪感も相まって、家に電話をかけた。

「ナツモはいる?」

もうすぐ帰るからと声をかけるつもりだったが、エリサに「今寝てる」と言われ、少しだけホッとした。

僕はふと思いつき、リアンコート内にあるダイソーに立ち寄った。文具コーナーを見る。あったあった、と手に取った塗り絵帳に違和感を覚える。

・・・これは、大胆なバッタもんである。

プリキュアに良くにた絵柄だが、かなり画力に劣る線で描かれた、それっぽい女の子と、猫のようなキャラクター。

「でんせつのせんしにへんしんするよ!」

と書かれていたりするが、キャラクター名は何処にもない。恐らく中国製だろう。もしかしたら、プリキュアに明るくない素人なら、これに騙されて買ってしまうかもしれない。しかし僕の目はもはや充分すぎるほど肥えている。

やはりシンガポールにはプリキュアは売っていないのだろうか。

諦めかけた時、今度は正真正銘のプリキュアの塗り絵帳を二つ見つけた。持ち運ぶのが好きなナツモにぴったりな小さいサイズのものである。ナツモを放置したという罪悪感から財布のヒモが緩む。

塗り絵帳を買った後も雨は上がらなかったが、僕は構わず自転車を家へと走らせた。

「ありがと」

突然の土産物に喜んで素直に礼を述べるナツモを見て僕は少し救われた気がした。

夕食時、お土産のおかげなのか、上機嫌のナツモは饒舌だった。

「にんじんじゅーすにはにんじんがはいってて、あっぽーじゅーすにはあっぽーがはいってるよねー」

僕もナツモの言葉に他愛もない茶々を入れる。

「もっちゃんどうする?にんじんジュースに・・・大根が入ってたら!」

「えー?だいこーん?!」

ナツモの顔がぱっと弾けた。

「ひひひひひ!だいこんじゅーすになっちゃうよー」

「すっごいまずいかな」

「すっごいからいとおもうよー。・・・おとうちゃん、それ、おともだちにもいってごらん。おもしろいから」

ナツモは、君なかなか見込みあるねという、斜め上から目線の口を利く。

「おとうちゃんのえいごのせんせいにも、いってごらん。おもしろいとおもうから」

ナツモはそこまで言った時、「英語」の部分から連想したのだろう、急に話題を変えて来た。

「おとうちゃん、あのね、おうちでもえいごでおはなししたら?そしたら、もーっとえいごがじょうずになって、もっちゃんみたいにはなせるようになるから。おとうちゃんはこえがすっごくおおきいでしょ?おおきなこえでおはなしすると、それでじょうずになるからね」

「・・・はい、そうだね」

僕は思わず苦笑せざるを得なかった。語学を習得する上でナツモの言っている事は、恐らく、すごく正しい。しかし、何故急にそんな達観した事を言い出したのか、皆目見当がつかない。

「もっちゃんとも英語でお話した方がいい?」

「もっちゃんともえいごでおはなししたほうがいいとおもうよ、マミーともエリサにもおしえてもらってね」

結局、ジョークに関しても、英語に関しても、ナツモは常に、僕より一枚上手と言う事なのだろう。

帰宅したアキコに、僕が買ったプリキュアグッズを見せていたナツモがそう言えば、といった感じで尋ねてきた。

「ぷりきゅあ、じゃぱんにしかうってないのにねえ。これ、めいじやのどこのおみせにうってたの?」

どうやらナツモは、プリキュアグッズは日本でしか買えないと決めつけているようだ。

「ん?それはね・・・」

素直に答えようとする僕の視線の先、ナツモの背後で、アキコが静かに首を横に振っている。

ははあ、なるほど。

明治屋はしょっちゅう出向く場所である。だからそれをナツモに知られると、後々面倒な事になる訳だな。僕は咄嗟に機転を利かせた。

「これは明治屋の隣のお店で買ったけど、最後の二つだったんだ。二つだけあったから、急いで二つとも買ったんだよ。だからもうなくなっちゃった」

「そっか」

ナツモは、最後のプリキュアをキープしてくれた僕に感謝こそすれ、その嘘を疑う事は全くなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?