見出し画像

全文公開『空をゆく巨人』 第五章 ふたつの星が出会うとき

第16回 開高健ノンフィクション賞受賞作『空をゆく巨人』(集英社)をnoteで全文公開中。今回は第五章です。

第五章  ふたつの星が出会うとき(東京・一九八六年)

ゴムの香りがする国で
「きついゴムと香水の匂いに驚いた」
 一九八六年、成田空港に初めて降り立ったときのことを、蔡は三〇年後の雑誌インタビューでそう思い出している。
 ゴムと香水か、なるほどなあと感じた。当時の日本といえばゼネコンが日本中を重機で掘り返していた時期だ。一九八八年、東日本では青函トンネル、西日本では瀬戸大橋が開通。東京では完成したばかりの東京ドームに人が詰めかけた。成田空港は海外旅行に出発する人で混雑し、高級ブランドバッグを持った女性たちが街を闊歩(かっぽ)した。この繁栄が未来永劫続くような浮ついた気分が、日本全体を虹のように覆っていた。
 妙な時代だったと思う。私は高校生だったが、小さな会社を経営する父は、株とゴルフに夢中だった。ろくに仕事もしていないわりに羽振りがよく、いつも一万円単位のお小遣いをポンとくれ、「リゾートクラブの会員権を買った」などと言いながら、平日でもゴルフに出かけた。当然、そんなファンタジーのような日々は長く続かず、昭和が終わり、バブルが弾けると同時に日本列島は長いトンネルに潜り、父もまたものすごい額の借金を背負うことになった。
 二九歳の蔡が日本に来たのは、そんな浮かれきった時代だった。

 蔡は、現在と同じように長身でほっそりしていたが、現在と異なる点がいくつかある。まず、日本語がほとんど話せなかったこと、そしてアーティストとしてはまったくの無名だったことだ。しばらくすると、二五歳になった紅虹も日本にやってきて、ふたりは東京の板橋に一間だけのアパートを見つけた。何十枚もの絵画をそこに運び込んだので、もともと狭い部屋は余計に狭苦しくなった。
 日本語学校に通い始めた蔡は、時間があるとカバンに作品を詰めて、銀座の画廊を巡った。大丈夫だ、作品を売ったお金で生活しようと紅虹には話していた。それなのに─。
 アポなしで現れ、たどたどしい日本語で作品の説明をしようとする中国人に対し、画廊のオーナーたちはとことん冷たかった。
「作品を見る時間がない」
「あなたみたいな学生はいっぱいいる」
 作品集をカバンから取り出そうとするだけで、「いいです」と制止されることがほとんどだった。そんなことの連続で、結婚式のためにと蔡の両親が貯めてくれていたお金も使い果たした。
 あまり時間が残されていないと感じた蔡は、旅行代理店のパンフレットで日本人に人気の中国の観光地を調べ、油絵や水彩画で描いた。紫禁城や万里の長城……、それを持って本屋をめぐり、「本棚の間にかけて売ってください」と頼み込んだ。
 その一方で蔡は、生活のためではない作品の探究もコツコツと続けていた。以前は、油絵の具と火薬を組み合わせて作品をつくっていたが、ここにきて厳選されたマチエール、つまりは火薬だけ、蔡の言葉で言うなら——「たった一つのもの」だけを使うことを模索し始めた。

東洋の文化では、「一」がすべてを包含します。だから私の理想は色も人間の感情もすべて黒色火薬で表現することでした。 (『 MY STORIES OF PAINTING』)

 自宅の風呂場で花火をばらし、取り出した火薬を爆発させ、作品をつくった。そしてそれらの作品を小さなギャラリーを借りて発表した。
 そうするうちに、蔡の才能を鋭く見抜く日本人が現れた。美術評論家の鷹見明彦である。彼こそが、のちに蔡を「いわき」という運命の地に導く人物だ。
 鷹見は、子どものころから虚弱体質で視力が弱かったが、感性は人一倍鋭く、なにより芸術作品をこよなく愛し、暇さえあれば東京中のギャラリーを歩きまわっていた。
 ある日、たまたま目にした展覧会DMの「火薬画」という言葉に惹かれ、国立(くにたち)市のギャラリーを訪れた。鷹見は、その日のことを雑誌『美術手帖』に詳しく書いている。
 火薬画っていったい何だろう? 興味本位でギャラリーの扉をあけると、そこは洞穴のような狭い空間だった。
 何だ、これは?
「扉を開けた私はそこで時空が曲がったブラックホールに吸い込まれたのだった」(『美術手帖』一九九九年三月号)
 仄暗(ほのぐら)いなかに、象形文字、天体のようなものが浮かび上がる。それらはいにしえの人々が描いた壁画に似ていた。
 洞穴の隅には、髪がボサボサの長身の男が座っていた。来訪者の姿に気がつくと、男はのっそりと立ち上がり、「火薬を爆発させてつくった作品です」とたどたどしい日本語で話し、「こんなに賑やかな街なのにどうしてお客がこないのか」と首をひねった。男の佇まい、話す内容のすべてが、東京の浮き足だった喧騒とは異質だった。鷹見は、この男は日本について何も知らないんだなと感じた。
 その直感は正しかった。蔡が描く古代の壁画のような絵は、当時の派手で欧米志向が強い日本のカルチャーシーンとは相容れないものだったが、そんなことを彼は知る由もなかった。
「どうやってこの火薬画を制作しているのですか」
「風呂場でおもちゃの花火をばらして火薬を取り出しています」
 中国では、簡単に手に入る火薬だが、日本ではその取り扱いは花火師などに限られている。そして玩具花火では、火薬の含有量はわずかなはずだ。それはきっと大変だろうと鷹見には想像がついた。

 蔡の作品に魅力を感じた鷹見は、学生時代の友人で、老舗の花火会社の後継者に協力を頼んだ。おかげで蔡は花火の試験場で作品をつくれるようになり、火薬も使いたい放題で、お金の心配もひとつ減った。
 鷹見は蔡のギャラリーめぐりにも同行したが、そこで聞けたのは「中国? 中国には現代美術は五〇年経っても生まれないと思いますよ」という未来への希望を打ち砕くような言葉ばかりだった。しかし、蔡は文句も言わず、悠然としていたそうだ。
 その当時の心情を蔡に尋ねると、こう答えた。
「あんまり文句とか気分悪いとかなかったですね。なぜならば、呼ばれて来たんじゃないから。自分が来たいから来た。中国から出て、もっと開放的、もっと自由にできる場所に出て世界と対話したい、そのために来たから」

 落ち込むかわりに、蔡は熱心に研究を始めた。本屋で『美術手帖』のバックナンバーや輸入美術書を読み漁り、現代美術の歴史や方法論、話題となったアートシーンの情報を吸収した。
『美術手帖』の鷹見の記事によれば、一九八八年に西武美術館で行われた『クリスト展』は、蔡に大きな影響を与えたようだ。
 クリストは、ブルガリア生まれのアーティストで、本名はフリスト・ヴラディミロフ・ヤヴァシェフ。フランス人の妻、ジャンヌ=クロードと共に美術活動を行う。「梱包するアーティスト」と聞けば、ピンとくる人も多いだろう。
 彼らは、初期のころは身の回りにあるものを梱包していたが、だんだんとエスカレートし、ビルや橋、谷や島まで梱包するようになった。その奇妙な情熱たるや、常人にはなかなか理解しがたいが、そんなクレージーな部分にこそ人は惹きつけられるのだろう。
 蔡たちが西武美術館を訪れたとき、モニターにはクリストの代表作である《ポン・ヌフ》や《ランニング・フェンス》が映っていた。《ポン・ヌフ》はパリのセーヌ河にかかる橋を梱包する作品で、《ランニング・フェンス》は、カリフォルニアの砂漠や農村に長さ約四〇キロの布製フェンスを立てるものである。
 蔡はクリストの作品制作のプロセスを映すモニターを見ながら、しばらく考え込んでいたそうだ。もしかしたら、そうか、こんなに大きな作品をつくるのもいいな、などと思っていたのかもしれない。何しろ、このあと、蔡の作品は、何十メートル、ときに何キロというレベルまで巨大化するのだ。

 そんな中国から来た無名の芸術家のことなど、いわきにいる志賀はもちろん知る由もない。そもそも志賀はアートには関心がなく、地元の美術館に足を踏み入れたことすらなかった。
 ソーラー事業から撤退した志賀は、このころには携帯電話の販売代理店事業を始めていた。もともと新しいテクノロジーが大好きで、一九八五年に発売された日本初のポータブル式電話、「ショルダーホン」をいち早く車に装備していた。その後、ハンディタイプの電話が登場するやいなや、これからは携帯電話の時代だ! と代理店事業にいち早く名乗りをあげた。近隣の商店やレンタルCD店にも販売窓口になってもらい、着実に契約台数を増やした。
 それと同時に、英会話スクール「イエス・イングリッシュスクール」を設立。旅行中に知り合ったアメリカ人と話すうちに、その人の英会話の教え方に惹かれ、開校を決めた。
 しかし、英会話スクールは、なかなか軌道に乗らなかった。夕方の時間帯はそれなりに混むが、昼間は閑古鳥が鳴いている。せっかく雇った数人の講師たちも退屈そうだ。もったいないと感じ、今度は「ジャック&ベティー」という英語パブを開くことにした。英会話スクールの講師たちが空いてる時間帯にパブの給仕をするのだ。パブの客は、講師と会話をするうちに、自然と英語が身につくという独自のアイデアだった。

いわきをゲリラ戦の拠点に
 いわきで手広く事業を展開する経営者と、東京に住む無名の中国人アーティスト。軌道がまったく異なるふたつの星を引き合わせたのは、志賀の成人学校以来の友人で一時期はアメリカに住んでいた、藤田忠平だった。
 そのころの藤田は、平駅の近くで「ギャラリーいわき」を運営していた。地元の陶芸家などの作品を取り扱うささやかなギャラリーで、現代美術とは無縁である。ある日そこに、美術評論家の鷹見がふらりと姿を見せ、火薬画の写真を見せた。
「こんなアーティストが中国から来たんですよ」
 それは、鷹見らしい控えめな紹介の仕方だったという。藤田は、何気なくその写真を見て、「これはすごい!」と感嘆の声をあげた。
 その言葉が、このあとに紡がれる長い交響曲の第一音だった。

 藤田は、突風に突き動かされるように、「蔡國強」に会いにいこうと決めた。
「上野〜、上野〜」
 常磐線特急を降りると、慣れない人混みを抜け、山手線に乗り換えて池袋へ。目指すは、個展会場がある練馬区の江古田だ。
 ちなみに藤田がギャラリーを始めるきっかけをつくったのは、志賀である。アメリカから帰国したあとの藤田は、トビ職をやりながら英語を教え、休暇がとれるとインドやネパールへ出かけるという風来坊のような生活を送っていた。一時期は多くの時間を一緒に過ごした志賀と藤田だったが、もう三、四年は顔を合わせていなかった。久しぶりに志賀から電話があったのは、そんな折だったそうだ。
「おい忠平、おめえ、最近何やってんだあ?」
「英語塾をやったり、トビやったりしてカネ稼いでるよ」
 そう答えると、志賀は唐突に切り出した。
「それもいいけど、そろそろ落ち着いてなんかやったらどうだ? 平の町に最近は来たか? 賑やかになったどー。例えばギャラリーかなんかどうだ? おめえ、そういうの、好きでねえか?」
「でも資金もないし、俺には商売は向かないし、いいよ」
「大丈夫だ、金なら何とかなっどー、駅前にちょうどいい場所あっから、やったらいいべ」
 最初はあまり気乗りがしなかった藤田も、「じゃあ、やってみっか」と答え、「ギャラリーいわき」は東北機工の一事業としてオープンした。あれから三〇年以上もギャラリーを続ける藤田は、あのときの強引なほどの後押しに感謝をしている。
「志賀くんは『俺には芸術はわがんねえ』って言うんだけど、俺(藤田)が芸術を好きっていう気持ちはちゃんとわかってくれてたんだよね」
 ただ、いくらギャラリー運営とはいえ、同級生である志賀の会社で働くというのは藤田の性には合わなかった。オープンから数年後、藤田は什器(じゅうき)などを志賀から買い取り、ギャラリーを泉ケ丘(いわき市)に移転させた。藤田が、蔡の個展会場を訪ねたのは、ちょうどこの独立と移転のころだった。
 個展の初日に駆けつけた藤田は、火薬の爆発で描かれた作品に圧倒された。
「それは《太古の烙印》というシリーズだったよね。蔡さんは、まだアーティストとしての実績はないのに、作品は何十万円とそれなりの値段だった」
 ひとつの作品をとても気に入った藤田は、「この絵が欲しいんですが」と蔡に声をかけた。ただ、懐には余裕がなかったので、「支払いは月賦でもいいですか」と尋ねた。蔡と藤田は筆談を交えて会話をし、その結果、藤田は四〇万円の値がついた小作品を手に入れた。
 それから、藤田は蔡の家に遊びに行くようになった。
「狭い家には、中国から持ってきたという一〇〇号近い大きな絵が何枚も巻いたまま立てかけてあったよ」
 ゆっくりとした日本語と筆談を交えて話をするうちに、藤田は、蔡の作品を自分のギャラリーで紹介したくなった。
「私の画廊は地方にあるし、力不足で売れないかもしれませんが、よかったら作品展をやりませんか」
 すると、蔡はふたつ返事で答えた。
「いいですね、やりましょう」

 一九八八年五月、いわきで初となる個展『火薬画の気圏』が企画され、風景画や《太古の烙印》シリーズが三〇点ほど出展された。蔡は、なるべくたくさんの作品を売りたいからと、作品の価格をそれまでよりだいぶ安くした。それを知った藤田は、展覧会が始まる前から知り合いを口説いてまわった。
「この人はきっと有名になる。作品を買っておくといい」

 さて、上野からいわきに向かう蔡は、ひとつの野望を心に秘めていた。それは、いわきを自分の「井崗山(せいこうざん)」にすること——。井崗山とは江西省と湖南省との境にある山岳地帯で、毛沢東が一九二七年に樹立した革命の拠点として知られる。そこで毛沢東は、地主から土地を没収し農民に分配するという実験を行い、のちに全国的な運動へと発展させた。農村から都会へ、というその作戦にならい、蔡はまだ見ぬ「いわき」を拠点にして、世界に打って出ようと考えたのだ。
 列車に乗って三時間、「革命の拠点」にやってきた蔡は、「とても普通の場所だなあ」と感じたそうだ。目につくのは漁港や田畑ばかり。海辺に行くと、どこまでも続く水平線が見えた。
「何にもないところですね。名所もなくて、山も滝もそんなに大きいのがない。しかし、それこそが普通の日本。〝本当の日本〟な感じがした」
 そう蔡は語ったが、傍の紅虹のほうはどうだっただろう。その答えは、意外にも「電車のなかでは、すごく緊張してました」というものだった。なぜかといえば、ある会社経営者が、展覧会の開始前にもかかわらず、七点もの絵画を購入したと藤田から聞いたからだ。いわきに着くと、「社長」だというその男を紹介され、紅虹は失礼のないようにと体を強張らせながら挨拶をした。
「(その人は)髭がいーっぱい生えていて、ニコニコして優しそうでした。会ったらすぐに緊張がなくなりました」
 その男は、志賀だった。結婚の挨拶のときに一度は剃った髭を、再びワイルドに伸ばしていた。芸術には興味がなかったが、藤田のあまりの熱心さに、作品の購入を決めた。しかし、「別にどんなもんでもええど」と、事前に作品を見ようともしなかった。
「確か七枚で二〇〇万円だったかな。持って帰って家に飾ったんだけど、子どもたちが気持ち悪がったので、すぐにしまいこんじゃったなあ。はっはっは!」(志賀)
 当時、生活費にも事欠いていた蔡は、とても喜んだ。
「どうして私の絵を買ってくれたんですか」
 初めて志賀に会うなり、目を輝かせて尋ねた。
 絵がすばらしいからですよ、という答えを期待していたのかもしれないが、返ってきたのは「いやあ、だって、藤田くんに頼まれたからだあ!」という身も蓋もない返答だった。大陸的でおおらかな性格の蔡は「ハハハ! そうですか」と大笑いした。そうして、頭ひとつ分ほど身長差があるふたりは、友人になった。
 展覧会は盛況で、多くの人が絵を買ってくれた。そのほとんどが初めて美術作品を買う人ばかりだった。彼らが支払ったお金は、蔡と紅虹の生活に少しの余裕をもたらした。紅虹は、あのお金で灯油を買えました、と私に語った。蔡と紅虹は展覧会の約半年後には板橋区役所に結婚の届け出を提出し、その翌年には長女の文悠(ウェンヨウ)が生まれたので、なおさらだっただろう。
 最も重要なことは——、いわきでの成功が蔡に大きな自信をもたらしたことだ。作品を認めてくれる人がこの世にいる、アーティストとして日本でやっていけると信じることができ、実際にこのあとから、蔡は少しずつ岡山などの芸術祭やフランスのグループ展にも呼ばれるようになる。
 蔡は、「いわきの人々は、自分を芸術家として出発させてくれた」と感謝を忘れず、その後も本場福建省の鉄観音茶を携えて、いわきに顔を見せた。驚いたことに、いわきは本当に蔡の「井崗山」になったのである。志賀や藤田は、そんな蔡の活躍の話を聞くことをいつも楽しみにしていた。

宇宙と対話がしたい
 いわきでの展覧会から五年弱経った、一九九三年の初頭のこと。
「藤田さん、志賀さん、中国に遊びにきませんか!」
 いわきにやってきた蔡は、ふたりをこんなふうに誘った。「万里の長城を一万メートル延長します。宇宙と対話するのです」
 蔡はこのころ、「インスタレーション」と呼ばれる現代美術のジャンルに活動を広げていた。室内や屋外に作品を設置(インストール)し、鑑賞者はその空間全体を五感で体感するものだ。蔡が打ち込んでいたのは、《外星人のためのプロジェクト》、または《プロジェクト・フォー・ET》と訳される作品シリーズ。「ET」はあの映画の『E.T.』と同じで、知的地球外生命体のことだ。野外で火薬を大きく爆発させ、その光で宇宙人との対話を試みるという意図である。
 今回のプロジェクトは、シリーズの一〇番目にあたり、万里の長城の終点となる嘉峪関(かよくかん)から、長さ一〇キロの導火線を砂漠に敷設し、爆発の光で長城を〝延長〟させるという。
「へえー!」
 藤田と志賀は鉄観音茶を飲みながら、蔡の話を聞いた。

 この何だかよくわからない作品の実現を熱心にサポートしていたのは、のちに「アサヒ・アート・フェスティバル」の事務局長、そして「さいたまトリエンナーレ」「別府現代芸術フェスティバル」などのディレクターを務める芹沢高志である。芹沢は当時、東京の四谷の東長寺境内の地下でP3 art and environment(以下、P3)というオルタナティブスペース(美術館ともギャラリーとも異なる実験的展示スペース)を運営していて、そこで蔡と出会った。遡ること一九九〇年の春、そこに美術評論家の鷹見が蔡を連れてふらりと現れたのだと言う。
「初めて蔡さんに会ったとき、『火薬でアートをやってます』とか言うのを聞いて『また変なヤツが出てきたなあ』と思いました」
 芹沢は、ゆったりとした口調でそう蔡の第一印象を語ると、懐かしそうに目を細めた。
 そのときに蔡は、「もうすぐ南フランスのエクサンプロバンスで爆発作品をつくるので、ぜひ見にきてください」と熱心に芹沢を誘った。芹沢は「ヘンな中国人が火薬でアートしてるとかいうのは、すぐに飛びつくような話じゃない」と感じつつも、P3の女性スタッフふたりをフランスまで出張させ、「火薬でアート」を見てくるように頼んだ。ほとんど期待はしていなかったという。他にヨーロッパで見るべき作品があったので、ついでに寄ってきて、という程度だった。
 しかし、そのふたりは、熱狂して日本に帰ってきた。
「ふたりともすごい興奮して、とにかくP3は蔡さんのプロジェクトをやるべきだと主張するわけですよ」
 彼女たちが見たのは、《外星人のためのプロジェクト》の三作目、《人類がその45・5億年経った星に創った45個半の隕石クレーター》と題する作品。単純にいえば、牧草地を開墾し、そこに掘った〝クレーター〟に火薬を入れ、一気にドカンと爆発させるものだ。
 美術評論家の鷹見は、爆発の炎と煙のなかで走り、叫ぶ蔡の姿を見て、次のように感じたと書いている。
「……そのとき私は目撃したのだ。まだ隕石の衝突によって生まれて間もないこの大地の上にはじめて立ち上がり歩いていった原人類の姿を。直立し日を全身に浴びて手の自由を得た、その人間としての出発に歓喜した祖先の姿を」(『美術手帖』一九九九年三月号)
 いささか大仰にも感じてしまうのだが、実際にこのドカン! の現場を目撃したP3の伊藤忍もまたこう語った。
「爆発の瞬間、ものすごい音と光と煙が自分を取り巻いて、それを体験すると、もしかしてビッグバンってこんなかな、その残り香を体験したような気分でした」
 芹沢もそんな話を聞いて、いくばくかの興味を抱いた。
「僕としては、どうかと思いながらも、信頼している彼女たちが、とにかくもう一度蔡さんに会ってくれと言うので、改めて会うことにしたんです」
 そうして、蔡は再びP3にやってきた。
「あの日のことは、人生でも忘れがたいですね。蔡さんは大きなリュックサックを背負っていて、椅子に座るなり、そこから蛇腹形式のスケッチブックのようなものを取り出して、バーッと広げるの。そこに火薬の焦げ跡や文字が書かれてて、わあっと話を始めて。巨人が国境を駆け抜けていきます、とか」
 それは何日もかけて準備された独特のプレゼン資料だった。蔡は、一冊のスケッチブックを何十分もかけて早口で説明した。最後のページまで行きつくと、リュックから二冊目、三冊目のスケッチブックを取り出した。ついに説明が終わったのは、七時間後の夜一〇時だった。芹沢はヘトヘトになり、「メシを食いにいこう」と誘いながら、思ったそうだ。
 この人、何かものすごいのかもしれない……。

 芹沢は、蔡に別れを告げるころには、すっかり蔡の展示をやる気になっていた。展示が決まると蔡は、半分ギャラリーに住み込むようにして作品制作を開始。創作意欲がほとばしる蔡は、借り物の寝袋にまで絵を描き、夜中にひとりで火薬を爆発させ、芹沢たちを驚かせた。こうして、五ヶ月間をかけて巨大な火薬のドローイングをつくりあげた。
 そして、個展展示『原初火球—The Project for Projects』が一九九一年に実現する。これは、その後の蔡の作品づくりの原点中の原点、「考え方やビジョンの出発点」(『Cai Guo-Qiang at the Prado』)ともいえる伝説的な展示となった。
「原初火球」とは、中国語で宇宙の始まりの「ビッグバン」を意味する。展覧会の副題に、「The Project for Projects(プロジェクトのためのプロジェクト)」とあるのは、ここで展示したドローイングが、蔡が将来実現したいと考えるプロジェクトの計画図だからだ。それは、蔡のイマジネーションの爆発そのものだった。
 そんな構想の一例が、蛇腹のスケッチブックにもあった、「ビッグフット(巨人の足跡)」、正式名は《大脚印—ビッグフット:外星人のためのプロジェクト №6》である。
 宇宙の足元である大空で火薬を爆発させ、その光で空を駆け抜けていく巨人の足(ビッグフット)を表現するものだ。巨人は、人間が戦争や諍(いさか)いの結果としてつくった国境という壁を自由に越えていくシンボリックな存在として登場する。

 人類はいつから国境を認知するという不幸な習慣を持つようになったのだろう。人類は文明のひとつの成果である火薬を、この本来存在しない線の上でもっとも多く使用してきたし、また今後も使用しつづけるだろう。火薬が国境線を超えるときは、つねに戦争という悪夢が再演される。
 E.T.が国境を無視するように、われわれの内部に棲み、ときとしてその根源の力を現わす超人類の意志も、国境線を無視する。地球上どこでも人類が共有する地平線がある。しかし、この地球の地平線を超えた向こうに、さらに人類が共同で目指すべきものがある。それは、われわれが速やかにやってきて、また帰っていくところ……すなわち「宇宙の地平線」である。 (『原初火球』)

 その他の計画図には、シルクロードの古い烽火台(のろし)を再燃させるものやベルリンの壁を再現するというものもあった。蔡は、一九八九年に壊されたベルリンの壁についてこう考察している。

 東西体制を隔ててきた物質の壁は除去されても、いまだ地球の各所に、また人類の精神の内部に築かれつづけている無数の壁は消えていない。取り壊されたはずの壁を瞬時に再現することにより、人類の魂にさらに解放されるべき「壁」の存在を喚起させる。 (前同)

 つまりは、差別や分断といった心の内部にある壁こそ、取り去るのが難しいということを表現している。この考察は、のちに蔡の代表作となる作品を生み出すことになる。
 また計画図には、「素材」として、核実験基地に駐在する弾道ミサイル部隊を一〇〇〇人動員するものや、月面上に逆ピラミッドを掘るという、どうひっくりかえっても実現が不可能なプロジェクトも含まれていた。
 展示では、このような計画図が、すべて火薬の爆発で描かれたドローイングで表現された。
 それにしても、どれもこれも、妄想じみたアイデアである。展示を見た人も、まさか実現させる気だとはとうてい思わなかったことだろう。しかし、どうやら蔡は本気だったようだ。この展示のあと、早々に実行に移そうと決まったプロジェクトがある。それが志賀と藤田が耳にした《万里の長城を1万メートル延長するプロジェクト:外星人のためのプロジェクト№10》だった。
 芹沢は言う。
「五ヶ月間もずっと一緒に展覧会の準備をしてきたから、展示が終わっても、お互いにそのままサヨナラって言う気になれなかった。せっかくだから、(『原初火球』にある計画のうちの)何かを一緒にやりたいと思いました。消去法で考えていくと、万里の長城を延長するのが一番簡単に思えた。砂漠に導火線を引いて火をつけりゃいいんだろ、というような。ベルリンの壁を再現するよりは簡単かなと」
 いやあ、どう考えても簡単なわけがないですよね、と私は思わず聞き返した。この計画は中国政府やどこかの国際的な芸術祭がバックアップしているわけではなかった。蔡と芹沢たちの「やりたい」という気持ちが出発点であり、拠り所で、資金もスポンサーもなかった。さらに、当時の中国は、まだ現代美術に門戸を開いておらず、現代美術はゲリラ軍のように散発的に世のなかに出現しては消えていく危うげな存在だった。
 だから芹沢は、「これはアートです」と真正面から中国政府の扉をノックしても、突破できないことはよくわかっていた。そこでひねり出した説明は、「砂漠で花火大会をやります。これは観光プロジェクトです。日本人にシルクロードを見せたいです」といういささか無理のあるものだった。芹沢から聞いた抱腹絶倒のエピソードの数々はここでは割愛するが、とにかく蔡と芹沢は、何とか地方政府の協力をとりつけ、北京で大量の火薬を調達し、日本の旅行代理店を巻き込み、本当に数十人の日本人をツアーで連れて中国に出発した。いやはや、何とも無茶苦茶な情熱である。

 これが、「中国に遊びにきませんか」という誘いの正体だった。蔡の話を聞いた志賀と藤田は、「蔡さん、頑張ってるなあ! じゃあ、行ってみっか」と、ツアーの参加を決めたそうだ。
   ただ、話を聞く私のほうは、ええ、ちょっと待った! と言いたくなってしまう。少し冷静になってみれば、この「外星人シリーズ」は何と荒唐無稽(こうとうむけい)な試みだろうか。砂漠で火薬を爆発させる? そこに何の意味があるのか。宇宙人との対話? 本気で信じてるの? それとも、アートという名の派手なパフォーマンス?
 しかし、もともとアートに興味がない志賀は、そういった意義はどうでもよかった。
「蔡さんがいつも持ってきてくれるお茶がおいしいから、買うついでに行ったんだあ」
 一九九三年二月、藤田と志賀は、真冬のゴビ砂漠に向かう長い道のりを踏み出した。

天安門事件と巨人の足跡
 それにしても、蔡は、なぜ宇宙をテーマにした作品をつくり始めたのだろうか。もちろん、子どものころから宇宙に憧れていた、というのはひとつの理由だろう。しかし、それだけではない気もした。
「『外星人シリーズ』は、天安門事件と関係があります」と蔡は語り始めた。そう、そこには日本に住む中国人が直面したもうひとつの事情が重なっていた。
 一九八九年六月、中国の北京で天安門事件が発生した。民主化を求める学生三万人が天安門広場に座り込んだことをきっかけに、大規模な市民運動に発展、天安門広場が市民で埋めつくされた。これで中国も民主化を遂げるのかもしれない、そんな雰囲気が漂い始めた矢先の六月四日の夜明け前、広場の照明が唐突に消され、信号弾が上がると、血に染まる一日が始まった。やがて市民に向かって装甲車がぶつかっていき、無差別発砲が始まった……。
 民主化の芽は無残に踏み潰され、多くの活動家やアーティストたちは、国外へ逃亡するか国内で潜伏する道をたどった。日本でも抗議運動が起き、中国人留学生たちは集会を開いた。
 このときまで、いずれ中国に帰るつもりだった蔡一家は、大きな決断を迫られた。もはや中国に戻ることは難しい。
 しかし、この先、自分たち家族はどこで生きればいいのだろう?
 蔡は、狭い部屋のなかで悶々と過ごしたそうだ。
「現実的には、部屋のなかでは何もできなかった、火薬を使って何もできない。ベルリンの壁が崩壊したり、天安門事件があったりして、海外にいる自分の運命、中国人の運命、人類の運命をすごく考えました」
 思い返せば、蔡が「外星人シリーズ」を開始した一九八九年というのは、世界の秩序や社会構造がハンマーで叩き壊されたような年だった。一一月にはベルリンの壁が崩壊、一二月にはソ連とアメリカが冷戦の終結を宣言し、東欧諸国が民主化を遂げた。
 蔡一家は天安門事件の勃発により、帰るべき故郷を失った。しかも、中国のパスポートでは他国に渡航したり、移住したりすることも容易ではなかった。
 何でこの世に国境なんてあるんだろう? 蔡はその理不尽さを思い知った。
「それで『自分が異星人だったら、国境なんて無視して越えていくだろう』というアイデアが浮かんだのです」
 ああ、そうか、そうだったのか——。
 きっと蔡にとって芸術とは、人為的につくられた国境という壁をやすやすと越えていく巨人そのものなのだ。自由な世界に旅をしたい、空を飛びたい、宇宙を見たい、そう切望し続けてきた青年にとって、作品をつくることは、広い世界へ飛びだしていける唯一の手段だった。そしてその狂おしいまでの希求を作品に昇華させ、《ビッグフット》を生み出した。

 それと同時に、目の前の現実として、蔡は日本に長く滞在できる手段を探す必要にも迫られていた。そこで、筑波大学助教授(当時)で、日本を代表する現代美術家の河口龍夫を訪ね、研究生にしてほしいと頼んだ。蔡に会った河口は、「今年は(留学生の)研究生はとるつもりはない」と断ったが、その瞬間、傍にいた紅虹がはらはらと涙を流し始めたので、作品を見ることにした。そして、その作品のスケールに驚かされ、気持ちが変わった。(「蔡國強といわきの物語」『日々の新聞』)
 筑波大学に在籍が認められた蔡は、茨城県取手に引っ越し、研究助手としての仕事を献身的にこなし、現代美術の何たるかを存分に吸収した。そしていまや、自分もひとりの現代美術家として遠い宇宙へ光を放とうとしていた。

砂漠の真んなか、万里の長城
 志賀と藤田は、他のツアー客と一緒に北京に行き、そこから空路で甘粛(かんしゅく)省の州都・蘭州(らんしゅう)に入った。
「蘭州のホテルは、暗くて寒くて、食べるものも冷えた饅頭くらいしかなくて、もう最果ての地に来た気がした」(藤田)
 その先の道のりは、さらに過酷だった。ガタガタと揺れる悪路をマイクロバスに乗って一七時間。町の喧騒が消えたあとは岩ばかりの荒野となり、遠くにそびえる祁連(きれん)山脈には雪が見えた。
 やっとのことでたどり着いたのは、ゴビ砂漠のど真んなか。そこが、六〇〇〇キロも延々と続く人類史上最長の「壁」の終点だった。外に出ると、手足が縮むような寒さである。気温はマイナス一八度。
 吐く息も凍る寒さのなか、蔡は数十人のスタッフやボランティアと一緒に丘を登り、谷を滑り降り、一〇キロもの信じがたい長さの導火線を延々と敷いていた。作業は見るからに遅れていて、シルクロード観光に来たはずの日本人観光客も次々と導火線の敷設を手伝い始めた。このときになって、蔡の「遊びにこないか」は、「手伝いにこないか」だったのかと気がついた志賀と藤田も、敷設作業に参加した。
 夕闇が迫るとさらに気温は下がった。周囲には未知の「作品」を一目見ようと、四万人もの地元の人々が集まってきた。

 日が暮れ、辺りが闇に包まれる直前、導火線に火が放たれた。
 志賀や藤田にも、遠くで火が上がったのが目に入り、四万人の観衆からわあっと歓声があがる。
 炎は、バリバリという凄まじい音とともに、ゆっくりと大地を進み始めた。広い砂漠では、火は〝疾走〟というよりも、悠々と地を這うようだった。導火線には三メートルごとに火薬が詰まった袋が埋められていて、それが規則的にドーンドーンと大きな爆発を起こした。その風景は、さながら巨大な蛇がドクンドクンと脈を打っているようにも見えた。火は爆発を繰り返しながら、一五分をかけて一〇キロの道を進み、最後は雪山の向こうに消えた。
 こうして、《万里の長城を1万メートル延長するプロジェクト》は終了。芹沢たちと蔡は、「月からも見えたかもしれないね」と喜びあった。

 志賀は、あまりの寒さに風邪をひいてしまい、だるい体をひきずるようにマイクロバスに乗り込んだ。蔡のほうは上機嫌で、志賀のところに寄ってくるなり、こう言った。
「志賀さん、今度はいわきで何かやりましょう! いわきは海ですから、海で何かやりましょう」
 志賀は、朦朧(もうろう)としながら、ああ、いいですね、やりましょう、と答えるのが精一杯だった。その後、志賀がホテルでひとり寝込んでいると、蔡が見舞いにやってきて「よかったですねー、熱が出るのはいいことです。中国では風邪をひく方法を研究してるんですよ!」と明るく声をかけた。それを聞くと、志賀は少し元気が出た気がした。

 ちょうどそのころ、いわき市立美術館は、注目すべき若手の現代美術家を個展形式で紹介するという試みを始めていた。しかし、「蔡國強」の名は当初の候補者リストには入っていなかった。そこに名前を滑り込ませたのは、蔡自身だ。筆まめな蔡は、いわき市立美術館にたびたび手紙やFAXを送り、展覧会のアイデアを出していた。挨拶やドローイング、展示のコンセプトが入り交じった独特の手紙は、「ここで展示がしたい」という熱に溢れていた。志賀も、いわきに戻るなり「蔡さんは、ずいぶん頑張ってますよ!」と援護射撃を行った。
 そんなラブコールを美術館も受け入れ、一九九四年の春の個展にゴーサインを出す。企画の担当者は、若手の学芸員、平野明彦(取材当時は同館副館長)だった。
「初めから蔡さんに注目していたわけではなかったけれど、志賀さんからも話を聞いたり、蔡さんもFAXを送ってきたり、直接訪ねてきたり。作品の実態はよくわからなかったけれど、お会いしているうちに蔡さんの『人を取り込む能力』に魅せられてしまったのかなあ。それではうちでやりましょうということになったのです」
 展示の決定を知った蔡は、「個展が決まって興奮しています」と平野にお礼の手紙を書いた。実現すれば、蔡にとっては初の「美術館」での個展となる。この数年後には、世界の名だたる美術館や芸術祭でその名を轟(とどろ)かせる蔡國強の革命のラッパは、やはり「井崗山」、いわきで鳴り響いたのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
続きはこちらからどうぞ。
書籍でお読みになりたい方はこちら↓からどうぞ。

空をゆく巨人 目次

プロローグ
はじめに
第一章 生まれながらの商売人 いわき・一九五〇年
第二章 風水を信じる町に生まれて 泉州・一九五七年
第三章 空を飛んで、山小屋で暮らす サンフランシスコ・一九七六年
第四章 爆発する夢 泉州・一九七八年
第五章 ふたつの星が出会うとき 東京・一九八六年
第六章 時代の物語が始まった いわき・一九九三年
第七章 キノコ雲のある風景 ニューヨーク・一九九五年
第八章 最果ての地 レゾリュート ・一九九七年
第九章 氷上の再会 レゾリュート・一九九七年
第十章 旅人たち いわき・二〇〇四年
第十一章 私は信じたい ニューヨーク・二〇〇八年
第十二章 怒りの桜 いわき・二〇一一年
第十三章 龍が駆ける美術館 いわき・二〇一二年
第十四章 夜桜 いわき・二〇一五年
第十五章 空をゆく巨人 いわき・二〇一六年
エピローグ いわきの庭 ニュージャージー・二〇一七年





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?