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目の見えない白鳥さんとアートを見にいった vol. 2


この間、また白鳥さんとアートを見にいった。
前にも書いたけれど、白鳥さんは目が見えない。
だから、みんなでいろいろとおしゃべりをしながら一緒に鑑賞をするのだ。

今回訪ねたのは、リニューアルされたばかりの東京都現代美術館の開催さ『100年の編み手たち』。都現美に行くのは、なんと『木を植えた男 フレデリック・バック展』できたのが最後なので、もう8年ぶり。(ちなみに『フレデリック・バック展』は、心から素晴らしかった)

清澄白河の駅のホームで白鳥さんと待ち合わせをしていたのだけど、その日、彼は珍しく20分ほど遅れてやってきた。
「いやあ、絶対に迷わないと思ったんだけど、北千住の乗り換えで迷っちゃって」
「え? ひとりで来たんですか?」
「そう今日は一人で来てみた。何回も来てるから大丈夫だと思ったんだけどなー」
 という白鳥さんはちょっと意外そうな顔をした。彼は水戸在住なので、清澄白河までは、なかなかの旅路である。

 改札を抜けた私たちは、美術館に向かって歩き始めた。少し暑いけれど、5月らしい爽やかな日だ。白鳥さんは、私の肩の下の袖を軽く掴んで、わずかに後ろを歩く。その時は白杖は使わない。こうしていると、私の肩の動きで、前に階段や段差があることもわかるのだと前に聞いた。

「今日みたいに迷っちゃった時ってどうするんですか?」
「んー、周りの歩いている人に聞く」
「足跡が聞こえたら、すいませーん、って言うとか?」
「そうそう!」
「みんな答えてくれるものですか?」
「うん、だいたいは。8割くらいの人は教えてくれるけど、2割くらいの人は、すいませんって言ってるのに、そのまま行っちゃったり」

「家の近所でも迷うことありますか」
「そうそう、あるよ。全盲の人のパターンのひとつなんだけど、思い込みで歩いてるわけ」
「ふんふん」
「頭の中の地図と照らし合わせて足元がこうなったから、ここ通過! とか。でも、思い込みで歩いているから、一度わからなくなって不安を持ったら、もう思いっきり迷ってるのと同じなわけよ。現在地確認できないわけだから」
「最近もあったんですか」
「うん」
 白鳥さんは、最近も家の近所の飲み屋で飲んで帰ろうとした深夜3時に、大々的に迷ってしまった話をしてくれた。その時は、道を歩いているおじさんを捕まえ、道を聞き、無事に家路につけたそうである。
「そういう時って、『いま自分たちはどこにいるんですか』って聞くんですか?」
「いやいや、XX高校の近くにいるというのはわかってたから、XX高校はどっちですかって。そうやって高校までいければ、もう大丈夫なわけだから」

               ***

さて、この日の鑑賞メンバーは、マイティ(水戸芸術館)、うちの妹のサチコ、東京都現代美術館スタッフのTさん、マイティの旦那さんの佐藤さん(アーティスト)、私。Tさんは、以前、森美術館で白鳥さんと知り合い、それ以来長いこと白鳥さんと一緒に作品を見ているという。

「白鳥さんと一緒に見ると、作品をよく見られて、楽しいんですよね」とTさんは言う。今日はお休みの日にも関わらず、美術館に作品を見にきたそうだ。お休みの日も職場にくるなんて、ほんとうにこの仕事が好きなんだなあ!

『100年の編み手たち』は、とにかく作品数が多いので、白鳥さんはすでに3回目。そこで私たちは、まだ白鳥さんが見ていないという地下一階の作品を中心に見ることになった。そこには、大きな絵画作品や、大型のインスタレーション作品、また音が出る作品もあり、色々と目をひく。

私たちは、自分たちが気になっている作品について言葉にしながら進んでいった。途中で、飛行機のように見えたり、虫のように見えたりする不思議な物体が描かれた絵画があり、そこでけっこうな時間を過ごした。

ある時に目に入ったのは、透明なケースに入って陳列された雑巾だった。作者は高柳恵理さん。

まあ、これがこれ以上ないというくらい見事な雑巾である。、汚れたまま洗わずに長年物置の奥で忘れ去られたような風情の雑巾。それが、ジュエリー店にでもありそうなツルツルのケースに恭しく収められている。

私は思わず言った。

「面白いんだかなんだんだか。もはや雑巾でしかない」

 その後、行われたのは、こんな会話である。

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T 「使い古されてますよね。使い古された雑巾に水をつけて絞って、絞り方も折りたたんでぎゅーって絞ったんじゃなくって、適当に置いて両手でぎゅーっと絞って指の跡が残ったまんま乾いた感じ」

※ さすがTさんの説明は本当に上手だ。

川内「本当にその通りですね!そう聞くと、小説の一場面といいうか、村上春樹っぽい気がしてきました」

白鳥「それが、ひとつだけ?」

T 「いえ、作品は四つに分かれています。(いずれにしても(各雑巾は)汚らしい色をしています。ひとつはおむすび型っていいのかな。おうちの形って言うのかな。その隣には丸っこい感じなんですけど、具体的になんかの形かっていうと、ええーと)

マイティ「ミッキーマウスに見えるな。うん、この辺に耳がついてて」

一同「へー」

マイティ「あれ、賛同を得られないね」

T 「私にとっては、いや、宇宙人かな」

川内 「あ、ちょっとわかる。エイリアンっぽい」

T 「『あられちゃん』 のキャラクターでこういうのいませんでした?」

佐藤 「あ、にこちゃん大王?」

T 「そうだニコちゃん大王。そのふたつが寄り添うようにしてあるの」

マイティ  「左側は、これ食器を拭くふきんだね。ほら、ミシン目がついているでしょ。でも右側はたぶん普通の雑巾」(※そういうマイティは少し得意げだ)

(次に別の雑巾を指して)

T 「これも同じく薄汚れた雑巾なんですけど、サイズ的には、こぶしふたつ合わせたくらいなんですね。一個の雑巾なんだけど、ぼこ、ぼこと二つの塊に別れているように見えるんです」(※淡々とした口調)

マイティ 「こぶしかあ、にんにくに見えたよ!」

T 「でも見る角度によってはウサギがうなだれているようにも見えるんですよ」

川内 「そう言われると、そんな感じもしてくるかなあ。妖怪っぽい。目玉おやじっぽい感じ」

マイティ 「私は胸の前で手を合わせているようにも見えるな。でも、やっぱり、にんにくなのかも」

サチコ 「小学校の教室の床を拭いた後に、牛乳とかもこぼれて、そのまんまにしといた、みたいな」

マイティ 「くさいやつだね。誰もがそっとしておきたやつだ」

川内 「そういえば、中学校のときに、ほんとに悪いことをすると、先生のこういう汚い雑巾を渡されて、床掃除しろっていわれるの。罰ゲーム的な。ぬめぬめでドロドロで、いまあの時の雑巾の感触とか匂いとか思い出したよ」

白鳥「ハハハ」

マイティ 「それってわざとなの?」

川内 「そうそう。そういう雑巾をとっておくの。私みたいなダメな生徒のために」

無数の大きな作品のなかで、雑巾はとても地味な存在である。そして、その意図も非常にわかりにくい。だから、もし一人でこの作品を一人でみていたら、無意識にすーっと素通りしていたのではないかと思う。しかし、みんなで見ることで誰かの琴線に引っかかり、延々とそれについて話すはめになり、やがて、話すことで、その作品自体とちょっとずつ波長があっていく感じがある。

とはいえ、この一連の会話になにか意味があるのかと問われたら、全然ないと言わざるをえない。汚れた雑巾について深掘りしたところで、何かの正解にたどりつくわけでもなければ、作家の意図とか文化的文脈とか、社会についての何かを学べるわけでもない。私たちの解釈や感じたことは、作家の意図とは真逆かもしれない。

しかし、私はなぜかこういった一見意味のない無駄とも思える時間こそに強く惹かれる。平日の真昼間から、誰かの雑巾を目の前に、意味のない会話が紡がれる。その意味のなさ加減は、自分が必要とする何かを満たしてくれるのだ。

人によっては、「でも、それによって、盲目の白鳥さんがアート作品を見られているわけだから、なんらかの社会的な意義があるのではないか」と思う人もいるだろう。別に否定はしないけれど、肯定もしない。というよりも、正しくは、目が見えない白鳥さんという存在が、私たちに言葉の群れを生み出すスイッチをを押してくれると同時に、自分だけではよくわからない作品に新たな形を与えてくれる。そっちのほうに意味があるような。

その言葉の群れは、白鳥さんを含め、みんなの頭の中に入っていき、別の何かを想起させたり、感情や、思い出の箱を開けたりしながら、美術館の一隅を風のように巡って、もう一度自分に戻ってくる。あれ、そうか、あのとき私はこんなふうに感じてたんだなあって。

それは、前に装丁家の矢萩多聞さんが語ってくれた、「中動態」の世界観に近い気もする。多聞さんは、かつて南アジアの言語に影響を与えたサンスクリット語には、能動態でも受動態でもない「中動態」なるものがあると教えてくれた。

もし目の前にりんごがあるとしたら、「私がりんごを食べる」、「りんごは食べられる」という主語と術後の関係ではなく、りんごは何らかのものに動かされて、自然に食べ、食べられるという考え方なのだそうだ。(そうだ、前から読みたかった『中動態の世界』を読んでみよう)

まだまだ、この感じを自分のなかでうまく言語化することはできない訳だけど、その言語化できない、モワモワしてわかりにくい感じがいい。それは、美術作品と目が見えない白鳥さんと私という、どこかアンビバレントで不協和音ともいえる存在が生み出し、世界をほんの少しだけ揺らすそよ風。山があって谷があるから風が生まれるような。その風を感じるとき、自分の意図とか、自由意志とか、個とか、そういうクッキリしたものが揺らいで、「なんとなくそうなったよね」という感じが大きくなっていく。そんな「なんとなく」の先に何があるのか、もうちょっと見てみたいなと思うし、ただ純粋に、もっともっと面白い作品を見ていきたいなと思う。中学校の時に嗅いだ、強烈な雑巾の香りを思い出しながら。にしても、あれはほんとうに見事な罰ゲームだった。30年後も思い出せるんだからねえ。

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