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目が見えない白鳥さんとアートを見にいった。

白鳥さんと一緒に、絵画を見に行った。
白鳥さんは、目が見えない。だから、「見にいった」というのはやや不正確な表現のような気もするけれど、でも、確かに一緒に「見た」わけなので、そう書いておく。

誘ってくれたのは、水戸芸術館に勤める友人・マイティ。向かったのは三菱一号館美術館でやっているフィリップスコレクション展である。

マイティは10歳年が離れているのだけれど、もう20年来の友人で、アート観賞から、旅、仕事、年末の紅白歌合戦観賞まで、ありとあらゆることを一緒にしてきた私の妹のような存在だ。

マイティと白鳥さんはしばしば一緒に展覧会を見にいっているという。実は、一ヶ月ほど前にも二人は東京都写真美術館などに行っていて、その帰りに一緒にお茶を飲んだのだ。

白鳥さんは、最初は展覧会には興味がなかったそうだが、あるときに、ふと誰かと一緒に美術館に足を運んだという。それ以来、美術作品の楽しさに開眼。それから、色々な人と一緒に美術館に行き、多くの作品を観賞してきたという。マイティは、「白鳥さんと一緒に見ると、また作品の見え方が変わって面白いよー」と言っていた。

白鳥さんと見る。それは、どんな感じなのだろう。そう思っていたところ、急にその機会がやってきた。マイティがメッセージを送ってきたのだ。「明日空いてる?」
うん、空いてるよ!

石川直樹、ソフィ・カルなど、いくつかの候補の展覧会から、フィリップスコレクションを選んだのは白鳥さんだった。「フィリップスコレクション」はワシントンDCにある邸宅美術館で、ピカソ、ゴッホ、ドガ、セザンヌなど印象派、キュービズムなどの近現代の巨匠の作品コレクションで知られる。

私は、20代の頃ワシントンDCに6年に暮らし、しかも「フィリップスコレクション」の建物の近くで働いていたので、実は何回も足を運んでいる。しかし、最後に見てからもう25年、印象に残っているのはドガのバレリーナのシリーズのだけで、他にはどんな作品があったかはまるで覚えていなかった。


「70点以上もあるので、気になったものを選んで見ていこう」とマイティが言う。展示室に入ると、3人で横一列に並んで絵を見始めた。

すごく端的に言えば、白鳥さんと一緒に見るということは、私たちがそれぞれの絵について説明をするということでもある。説明? いや、それも正しくないな。とにかく、次のような感じ。

最初に見たのは、ピエール・ボナールの猫を抱いた女性の絵。

「どんな風に見える?」とマイティが聞くので、「うーん、この女性は猫の後頭部をやたら見てるね。猫にシラミがいないか見てるのかな」というと、マイティも白鳥さんもちょっと笑った。
「えーシラミ?」
え? 受けを狙ったわけじゃないんだけど。だって、どう見ても、この仕草は、シラミチェックでしょ。(注 実際には猫にたかるのはノミなんだけどこの時は勘違いしていた)

マイティは、「私には、この女性は何も見てないようにみえるなあ。なんか視点が定まってない感じがするよ」と言う。いきなり私とマイティの絵の見え方が真逆だ。そう言われると、女性はうつむいていて、どことなく寂しげな感じもしてくる。そうか、たぶん私の母たちが地域猫活動をしていて、猫にはシラミがいる、という潜在意識が、私の絵の見方を方向付けたのかもしれない。

その後は、女性のセーターの朱色が綺麗だねとか、テーブルの上の食べかけのものはなんだろう、チーズかな、などと話し合う。白鳥さんも、「へえ、そうなんだー、うん、うん」と小さく頷く。白鳥さんは時おり「絵の形はどんな感じ?」などと聞くだけだ。「えーと、縦長です。すごく縦長。長方形というよりも縦長なの」
こんな答えで良いのだろうか?と思いつつ、あまり気にしすぎないことにする。

その後も、数枚のボナールを見たのだけれど、私とマイティで、持つ印象が全く逆で、それが面白かった。たとえば南フランスにいる女性と風景を描いた一枚では、私はとても気持ちが良い絵だなあ、ここに行ってみたいなあと思ったのだけれど、マイティは「なんか、この絵は 怖いよ。気持ちが悪いな」と顔をしかめる。え? そうだった? なるほど。たぶん、私は南フランスが大好きなので、南フランスの風景を見ただけでその良き思い出が蘇り、「あー、いいな」という思考回路になるのだろう。一方のマイティは、女性の表情がぼんやりと曖昧に描かれているのが怖いという。そういえば、マイティは極度の心霊恐怖症なのだ。

【ゴッホ】
ある展示室に入ると、すぐにある絵画に惹きつけられた。ゴッホの作品で、黄色い家の前にあったという公園の入り口を描いた一枚。

「これは、公園の入り口だね。木の門があって、きっと夜になると閉まるのかな。それで、帽子をかぶった男の人が立ってるんだけど」と、マイティが小声で話を始める。白鳥さんは、「へえ、そうなんだあ、それはどんな感じなの?」などと穏やかに質問をする。

私の方は、この時のゴッホはどういう精神状態なのだろうかと気になり、絵画の説明文を読むと、どうやらパリから南仏に引越したばかりで、ゴーギャンのことを待っている頃に描かれたものだそうだ。
「この時はゴッホはきっともうすぐゴーギャンが来るってワクワクしてたね。これから何が起こるかも知らずに」と私が付け加える。
「ねえ、ゴッホって、人生とかあまりにもいろいろなことを知りすぎていて、なんか先入観なしに見るの難しいね」(マイティ)。
いや、その通りだ。
最後は「なんかこの絵に酔ってきた気がする。なんか全てが動いてるみたいで」「そうだよね、この独特のタッチのせいだよね」と言って、後にした。

【ピカソ】
難しかったのは、ダントツにピカソ。言葉を尽くしても、全く説明になっていない。それは、闘牛場を描いた小作品。私たちは、じーっと絵を観察し、なんとか言葉にしようと試行錯誤。

「うーん、馬だね。馬が下を向いているんだよ」「え、どの馬のこと? 馬は二匹いるよね?」「そうだよね、白いのと、茶色いの」「じゃあ、こっちの右側のが闘牛士かな」「そう、きっと人だよね、なんか闘牛士の上にテントみたいのがあるんだけど」「これ、テントじゃなくて布じゃない?」「ああ、そうか。これで、闘牛してるんだね。でも、普通闘牛って普通はは牛は1匹だよね?あっちゃん(私のこと)は、スペインで闘牛見なかったの?」「見てない、でもメキシコで見た気がする。あー、でも全然覚えてない!」白鳥さんは、その混乱している感じを丸ごと楽しんでいたようだ。

【ドガ】
個人的には、ドガのバレエの稽古を描いた一枚には心惹かれた。すぐに自分がいかにこの作品を好きだったかを思い出した。いま思うと、バレエの本番ではなく、稽古場というバックヤードを描いたものだったからのように思う。私は、昔からバックヤードが大好きだったのだ。

稽古場の大きな窓から入ってくる光が美しい。美しいのだけれど、どこか一抹の寂しさもある。ここにいる誰もが舞台に上がれるわけでもないのかもしれない。そんな想像を掻き立たせる。私は、小学生の頃に初めて見たドガの画集に熱中したという話を二人にした。小学生の頃のことだ。

【セザンヌ】
セザンヌがアトリエを描いた一枚では、一瞬遠くから見ただけで、それがパリのアパルトマンだとわかった。これには自分でもちょっと驚いた。アトリエの窓からはちらっと風景が見えるだけなのだが、これが絶対にパリなのだ。床や窓の感じが私が住んでいた部屋にも似ていた。だから、私は得意になって言った。

「これはねー、典型的なパリの部屋だよ。見てごらん、床がヘリンボーンでしょ。私が住んでいた部屋もこんな感じでさ。見えている風景は、セーヌ川だね。いーなあ、いまのパリのアーティストはこんな中心部の部屋に住めないよ。いい時代だねえ」
「そうなんだー!」とふたりともと少し感心してくれた様子なのだが、たぶん、パリに住んでいた人ならば誰でもわかるのだと思う。それくらい、パリはずっとパリのままで、地球上にパリのようなところは他にないのだ。

***

次々と絵と向き合いながら、フランスやアメリカの思い出が交錯してゆく。美術館に入った直後は、私たちが白鳥さんに説明をしてあげる、という感じもあったのが、いつしかその感覚も消えた。白鳥さんは、多くを求めない。うん、うん、と心地よい相槌を売ってくれるだけ。だからかもしれない。

なんていえば良いのだろう。

作品を見て、何かを考え、遠い過去を思い出し、生きて会うことのないアーティストの人生に思いを馳せる。ーーいや、そこまでは普通の鑑賞体験なんだけど、異なるのは、それを声に出すことで、ある瞬間から、むしろ、もうひとりの自分に話しかけているような気持ちになったことだ。この感覚の変化は、なんだろう。

そこにある絵、そして紡ぎ出される言葉を通じ、自分の過去と現在、そして白鳥さんやマイティ、さらには、そこにいあわせた全員が重なりあうような感じがあった。その日、「フィリッピスコレクション」にきていた人々。他の人たちがなぜこの展覧会を選んだのかはわからない。でも、同じ日に、こうして古い一枚の絵を見るためにきている。同じ絵をじっと眺める。

白鳥さんは、たぶんだけど、私たちが語る言葉だけではなく、美術館にあるあらゆるもの、全ての体験を、まるごと作品として見ている。人々がつくため息、ゆっくりとした足音、空間の大きさ、窓から差し込む光。さらには、一緒に見ている私たちの思い出や感想、そして、見えないからこそ受け取れる何か。

そうやって、私たちは存在を重ね合いながら、美術館という小さな宇宙の中に浮かぶ小さな星のような作品を感じ取っていく。

ひとは展示作品を通じていったい何をみているのだろう。自信の過去の記憶かもしれないし、隣にいる誰かのことかもしれない。そして、私はその日、かつて何回も見たはずの作品を、まるで初めて見たときのように感じた。いままで見えてなかった何かを見たようなーー。




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