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全文公開の舞台裏のさらに奥にあるもの

先日、AERAにて「全文公開の舞台裏」という取材を受けた。https://dot.asahi.com/aera/2018122000018.html

ネットでも公開されているので、詳しくは読んでもらえれば、という感じなのだが、端的に言えば私にとって全文公開はそこまで大きな決断でもなかった。

むしろ、一生懸命に本を書いたところであまり読んでもらえないのではないか、という心配が拭えなかった。だから出版チームから「全文公開」というアイディアが出た時、思い切ってネットで公開してしまうのは、いいアイディアに思え、「いいですね、やりましょう!」と答えた。

以前もnoteに書いたが、昔はあちこちに本屋があり、ちょっと立ち読み、ということが可能だった。それがいまは本屋さんがすっかり減ってしまい、ふらりと立ち読みしたくなる本屋さんは実に少ない。だから、本を書いてもなかなか知ってもらうことができない。それが現実なのである。

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ちょっと前だが、そんな現実を裏付ける衝撃的なことがあった。
この夏に学生たちにアンケートとった時のことだ。私は某大学で「ノンフィクションから見る日本」をテーマに話すことになっていた。そこで、「そういえば今の学生さんたちはどんなノンフィクションをよんでいるのだろう」という素朴な疑問が芽生え、アンケートをとった。

その結果を見て仰天した。

なんと多くの学生さんたちが、「人生で一冊のノンフィクションも読んだことがない」「ノンフィクションというジャンルが何かよくわからない」と答えているのだ。

これは大変なことだぞ、とものすごい危機感を覚えた。

実際に学生たちと話してみると、アンケート通りにほぼ全員がノンフィクションは読まない、そして半分以上の履修者が、沢木耕太郎さんも深夜特急も聞いたことがないという。現在日本のノンフィクション界を力強く牽引している作家KさんやTさんのことも知らない。唯一人気が高い「ノンフィクションの作者」として名が上がったのは長谷部誠さんだった。

まじか。そうだったのか。
前から薄々感づいていたが、ノンフィクションという分野はもう一部のマニアックな読書好きにしか認識されていないジャンルらしい。

まずいぞ。

これは別にいまの学生たちのせいではない。これが時代の流れであり、不都合な真実なのである。

そんなこともあり、私は出版チームの後押しを受けて全文公開を決意した。あまり本を読まない、ノンフィクションを知らないという人にもネットで立ち読み感覚でもいいのちょっと読んでみてもらいたくて。これがアエラではあまり書かれなかったもう一つの舞台裏である。

全文公開をしてしまったら紙の本が売れなくなるのではないか?

そういった議論もあるのは確かだろう。私にはその答えは全くわからない。いろいろな人が色々なことを言う。自分としては、ただいろんな人に読んで欲しかっただけだから、そう深いところまではあんまり考えていない。

本というのは不思議なもので、読まれなかったらただの物体にすぎない。戸棚のなかの茶碗とか、寝心地の悪い枕とか、壁のシミとか、そういうものと対して変わらない。しかし、誰かに読まれてたとき、始めて誰かの頭の中で言葉が再構築され、本と誰かのコミュニケーションが始まり、テキストに生命が吹き込まれる。

ただ、せっかくだからこの辺でさらなる本音を言うとすれば、さっき、ネットでの立ち読みでもいいとは豪語してみたものの、紙の本の方には、読書体験が格別になるような工夫や知恵が詰まっている。

本とは、装丁家や編集者や本に関わる人が考え抜いて作ったプロダクトだ。装丁にたくさんの写真に帯。そして本文用紙もよくみれば特別なものだ。だから、もしネットで見て気になったら、ぜひ紙の本も手にとってみてもらえると嬉しい。そこには、ネットにはない人間の手触りがある。それに私はあくまでも「本」を愛する人間だから、本という形で手にとってもらえるのがもちろん一番幸せなのである。



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